英雄×老軍


 昼下がりの午後、私はお洒落な包装紙に包まれた焼き菓子を抱えて、空を駆けていた。この焼き菓子は、3つ向こうの街にあるショップに売っていて、この街にはない小洒落た食べ物だ。買い物中に見かけて、自分が食べたいと思ったのが切っ掛けではあるが、『勉強の日』が近いことを思い出し、茶請けとして買ったのだ。
 『勉強の日』は、月に一度やってくる私が決めた日だ。図書館で英雄譚を読み解くこともあれば、仮想敵を作りどんな方法で倒すかを考えることもある。そして今日の『勉強の日』は……彼だ。
「やぁ、スプレンディド」
 鉄製の白いガーデンテーブルの上にティーカップを並べていた彼は片手を上げた。もう一方の手には紅茶が入っているであろうポットを持っている。
「待たせたかい、フリッピー?」
 空から地面に降り立つと、彼はゆっくりとした歩調で私に歩み寄ってきた。
「いや大丈夫さ。この歳になると、約束が待ち切れなくてね」
 そう言ってフリッピーが笑うと、口元に笑い皺が刻まれる。きっと彼は昔から笑顔を絶やさず生きてきたのだろう。
「ああ、フリッピー。良かったらこれを」
「毎度すまないね。すぐに出してくるよ」
 手に持っていた焼き菓子を渡し、家へ戻っていくフリッピーの背中を見送り、置かれていた椅子に座る。丸テーブルには淹れられた紅茶から湯気が立ち昇っていて、ほんのりと紅茶の香りが鼻をくすぐった。
 ――フリッピーは若い頃、軍人だったそうだ。確かに彼の顔や腕を見ると、当時負ったらしき傷跡はいくつか残っている。ただ、優しく穏やかな彼からは元軍人であることは言われないと気付かないだろう。
 子ども達にも懐かれているようで、彼の家を訪れているのを見かけたことがある。確か、この前の話で、誕生日を祝ってもらったのだと照れたように笑っていたか。
「お待たせ」
 ぼうっと考え事をしていると、焼き菓子が乗った皿を手にしたフリッピーが戻ってきた。箱が大きいからたくさん入っているかと思ったが、思ったより大ぶりのマドレーヌで、四つしか入っていなかったようだ。
 皿がテーブルの上に置かれ、フリッピーも私と同じようにして向かい合うように座った。
「さてと、今日は何がいいかな」
「貴方の軍人時代の話が聞きたい」
 彼の問いにそう返すと、笑い皺を深く刻ませながら、彼は時折思い出しながら話した。
 部下がそれなりにいた頃、とある戦争の戦略会議に参加したこと。その時の上官が、部下たちを駒のように扱う悪辣あくらつな者だったこと。人道を踏みにじる物言いに怒りを感じ、彼は上官を殴り飛ばしたこと。上官を殴ったせいで、左遷されてしまったこと……。
 物語のような勧善懲悪ではなかったが、現実は悲しいがそういうものだ。だがそんな中、腐らず自分の正義を貫いた彼は、私の目指す英雄像だ。
「正義の拳で上官を殴りつけた時は、きっと部下の心を救っただろうね」
 彼の話を聞いて湧いたイメージで、ぶんっと殴る真似をする。彼はそれを見て照れたように笑い、ぽりぽりと指先で頬を掻く。
「若気の至りもあったし、そう言われると気恥ずかしいけれど」
 当時は歯痒いほど強く悔恨しただろうに。過去のことをそんな風に話すのは、彼が今まで辛酸を舐めてきた結果なのだろう。
「今回も良い勉強になったよ」
 そう言ってマドレーヌを口に放り込むと風味豊かな味が鼻を抜ける。見た目で買ったが、当たりだったのかもしれない。咀嚼し飲み込んだ後、後押しするように紅茶で押し流すと、フルーツフレーバーで風味の洪水が起き、ちかちかとした。
「……こんな老いぼれから話を聞きたがるなんて、物好きだな君は」
 咥内で風味が爆発している私に、フリッピーはそう零した。声には自嘲が含まれていて、少し悲しげな眼差しを見せた。
「貴方は国の英雄なのだから、誇るべきだ」
「国の英雄……ね」
 私から見れば素晴らしい経歴の持ち主だというのに、彼はどうして自身を卑下するのだろうか。私とは異なるにしろ、彼もまた人々を救った素晴らしい英雄だというのに。
「英雄とは必ずしも素晴らしいものではないよ、スプレンディド」
 私の心を見透かしたように、フリッピーは呟いた。瞳に光がないように見えたのは、単なる逆光のせいだろうか。
「国を救った軍人が、英雄が、素晴らしくないと?」
「……君のような若造には、きっとわからないだろうね」
 私の問いに彼が見せたのは、あからさまな拒絶だった。以前のフリッピーからは考えられないような、陰鬱とした言葉が発せられ、私は腹の奥が苦しくなるのを感じた。
「貴方だって英雄だろう? 私と同じように人を救って……」
「君は、英雄を称賛するのが好きなようだが、
 自身の行いから目を背けているのはどうだい?」
 私の言葉を、彼の"敵意"が切り落とす。
「な、何が言いたいんだ貴方は」
 じりじりと後ろ髪を焼かれるような、妙な焦燥感に襲われる。英雄はすごいはずだ。英雄は人々を救うヒーローで、悪人を倒して、とても強くて、弱音を吐かず、いつも笑顔で、人々に愛されるはずなのに。それを満たしている彼はどうしてこんなにも――、孤独な目をしているのか。
「君と僕は、同じ穴の狢むじなだ。"英雄"に憑りつかれた者のね」
 疲れたように笑う彼にも、笑い皺はできていた。あぁそうか、笑顔は嬉しいとき以外にも出るものなのか。私だってそれくらい知っていたはずなのに、この時初めてそれがストンと胸に落ちた。
 何も言えない私にフリッピーは黙ったまま、シュガーポットから角砂糖を取り出し、冷え切った紅茶に落とした。ソーサーに添えられたティースプーンで彼は乱暴にかき混ぜるが、当然ながら溶けにくい。
 カチャカチャカチャカチャカチャカチャ
 それなのに彼は執拗に角砂糖を溶かそうと、スプーンで混ぜる。スプーンが陶器にぶつかる度に耳障りな音が出て、それをどうにか止めたくて言葉を振り絞った。
「私はれっきとした英雄だ。ヒーローだ。」
「血に塗れた英雄は人殺しと変わらないさ。僕も……君もね」
 彼の言葉に顔が、体が、心が、カッと熱くなった。テーブルを力いっぱい引き倒し、彼の胸倉を掴み上げ、地面に押し倒して馬乗りになり、拳を固めた。
 そこまでやってから、彼の悲しい眼差しが視界に入り、私はそこで正気を取り戻した。しかし彼はそんな私に気付きながらも、薄く微笑む。
「殴れよスプレンディド。
 私が上官の頬を殴り飛ばしたように、君もその"正義"の拳を振り下ろしなよ」
「……」
 彼の瞳は諦念が滲んでいた。何をされても痛くないという、ある一種の……絶望に似た目だ。その目を見ていると、自分が癇癪を起こした子供のような気がして、振り上げた拳から力を抜いた。
「すまない」
 一言絞り出して体を浮かせ、彼の上から退いた。これはヒーローにあるまじき行為だ。こんな体たらくでよく、偉そうに英雄を語れたものだ。どうにも居た堪たまれなくなり逃げて帰りたいと思っていたが、後ろにいた彼はややあってから上体を起こし、服の埃を払った。
「私こそ、すまなかった。ムキになって大人気なかったよ。
 でもね、私は……君が思っているよりも矮小な生き物だから」
 彼は苦笑しながら、そう心の内を吐露した。きっと、私は知らず知らずの内に彼を傷付けていたのだろう。私には語らない、彼だけの心に秘めた出来事もあるだろうに、私はしきりに素晴らしいと讃えて。なんて身勝手なことか。
「……ヒーローがそんな顔するなよ。英雄は弱みを見せないんじゃなかったのか?」
 自身の愚かさに悔いていると、フリッピーは急に私の頭を押さえつけ、ぐしゃぐしゃと髪を混ぜた。ああ、彼はやはり私にとって英雄の一人なのだ。喩え、彼が英雄ではないと言っても。
 かき混ぜられた髪を手で戻し、気持ちを切り替えた私は、彼に向き直った。
「ああ、もう大丈夫だ」
「よし」
 そんな私を見て、懐の広い彼は笑う。その時ちょうど陽が彼を照らし、彼の髪が、髭が、きらきらと輝いていて、私は彼のように歳を重ねたいと密かに思った。
「私も若い頃はそうやって先輩にぶつかったもんだ。
 ……ああ、次の話はそれにしようか?」
 失態を犯した私に、当たり前のように次の話をしながら、横倒しになったガーデンテーブルを起こし始めた。手伝おうと慌てて駆け寄ると、どこから取り出したのか、箒で割れた茶器を掃いている。
「フリッピー、事の発端は私だ。片づけは私が……」
「なら、先ほどの焼き菓子が食べたいな。実は食べ損ねてしまったんだ」
 肩をすくめる彼に、私はハッとして地面を見やると、先程までガーデンテーブルが倒れていた場所にマドレーヌが二つ、ぺしゃりと潰れているのが視界に入った。無惨な死に様だ。
 焼き菓子を買ったあの店まで、普通であれば二時間ほどかかるが、私ならたったの数分でたどり着けるだろう。
「……わかったよ。お安い御用さ」
 そう返してから、私は彼の真意を理解した。――きっと客人である私に掃除をさせないように、だけど私にしかできないことを彼は頼んだのだろう。彼の采配には、感嘆のため息が出る。私も彼のように年を重ねれば、あのようなスマートな気遣いができるのだろうか。
 そんなことを考えながら体を浮かせ、地面を蹴って青空へ飛び込むと、箒を持ったフリッピーが、私に向かって手を振るのが見えた。
「頼むよ、ヒーロー!」
 彼はきっと真に私のことをヒーローだと思っていないのかもしれない。
 だけど――それでも、彼に「ヒーロー」と呼んでもらったのが妙に嬉しくて、彼の声援に笑顔で応えた。