融解コンプレックス


⚠暴力表現、嘔吐表現、匂わせ程度の性的描写あり。




 ぱちゃり、ぱちゃり。

 雨が水面に落ちるような音で、僕は目が覚めた。どれだけ眠っていたのか、頭がなかなか働かない。
 ぼうっとしながら、ゆっくり体を起こすと、青い世界が目の前に広がっていた。地面には海藻のように木々がいくつも生えていて、揺蕩たゆたうようにゆらゆらと揺れている。あぁ、ここは水底に沈む森だ。
「夢……」
 夢の世界であることを理解するも、何か大きなことを忘れている気がして、焦燥がじりじりと胸を焼く。
 確か、僕は。
『どれだけ望んでも君はただの人殺しで、英雄の私とは相容れない存在なのに』
 そう言って蔑んだ目で僕を見下ろし嘲笑った、英雄の欠片もない、スプレンディド。――そうだ、僕はアイツに人殺しと呼ばれた。腹を殴られて嘲笑されて。でも、辺りには皆の……皆の死体が、あって。
「う、うぅ……」
 血が乾いてこびりついた自分の姿が、目の奥でちかちかとフラッシュバックする。思い出させようとする頭を両手で抱え、地面へぶつけた。
「ちがう、ちがう」
 がんがん、と頭をぶつける度に、水底の世界はゆらゆらと揺れる。
「ちがう、ちがう!」
 英雄気取りの男が言った言葉を消したくて、惨憺さんたんたる光景を消したくて、僕は頭を打ち続けた。ずきずきとした痛みも、打ち付けた部分が燃えるように熱くても構わなかった。あの記憶さえ消せるなら。
「ちがう……、ぼくじゃない」
「いや、オマエだ」
 背後から地を這うような低い声が聞こえ、僕は誰かに頭を引っ張り上げられた。軍帽ごと、髪の毛を掴まれ、ぶちぶちという嫌な音が頭に響く。
「いッ、だ」
「懺悔のお次は自傷パーティーかァ?」
 下品そうな笑い声に目を向けると、足を広げ腰を落として座る男が見えた。頭が固定されているため、顔までは見えない。
「やめ、ろ!」
 痛みに顔がこわばるのを感じながら、後方へ腕を伸ばし、自分の頭を掴む腕を探り当てる。指先に当たった"誰か"の腕を捕まえると、力技で頭から引っ剥がし、腕を引き離した。
 やっと痛みから解放され、隣の下劣な男を払い除けて、相手と距離を取った。
 男は立ち上がったらしく、視界に映ったのは男の脚だった。履いている靴やズボンは僕が持っているものと同じ。視線を少しずつ上げると、同じ軍服が見えた。それから、首から下げたドッグタグに明るい緑色の髪……。
 いつの間にか落ちていた、僕の軍帽を男が拾いあげて被ると――朝、鏡を見る度に映る自分そのものだった。
「お前……」
「よォ、フリッピー。遅いお目覚めのようで」
 何が楽しいのか、アイツはにやついた表情をした。アイツは"僕"だった。あの残酷で凄惨な光景を作りあげ、そこに僕を置き去りにした……アイツだった。
「なんで、皆を殺したんだ」
「あァ? 何のことだか……」
「とぼけるな!」
 へらへらと笑いながら肩を竦めるアイツに、強く糾弾した。そんな僕の様子を見て、じっとりとした目が三日月状に細められ、アイツは赤い舌をぺろりと出した。
「わかってるよ。あれだろ、ギグルスの首を置いたり、臓物取り出して、みーんなぐちゃぐちゃにかき混ぜたやつだろ」
「うぐっ……」
 ジェスチャーを混じえて話すアイツに、記憶が掘り起こされ、吐き気が込み上げてきた。咄嗟に口を押さえたが、行き場のない吐き気はどこへも行けずに胸の中でとぐろを巻く。
 皆の死をこれ以上冒涜するな、と言ってやりたかったが、ぐるぐると巡る吐き気に耐えられず、膝をついて顔を地面へ向けた。
「ゲロ吐くとこ悪いけどよォ」
 僕の頭上で、アイツが嘲笑するのが聞こえ、間髪入れず僕の胸倉を乱暴に掴んできた。気持ち悪さに耐えるので精一杯で抵抗もできず、されるがままに上へ引っ張り上げられる。
「俺は、あの偽善野郎に好き勝手やられたのが許せねェんだよ」
「ぐっ……」
 軍服の襟が喉を圧迫し、気持ち悪さが増してくる。胸倉を掴む手に爪を立てて抵抗したが、アイツには露ほどもないだろう。
「お前だって悔しいだろ? あのクソヒーローに馬鹿にされてブッ殺してやりてェと思うだろ?」
「僕は……やらな、い」
 呼吸の合間に言葉を絞り出すと、アイツは眉を吊り上げ、眼光が鋭くなるのが見えた。
「テメェだけ聖人気取りか、フリッピー?」
 胸倉を掴む力が強くなり、喉が絞まるのを感じた。犬歯を剥き出しにした、僕と同じ顔が目の前に迫る。
「俺とお前は一心同体、一蓮托生だ! なのにテメェだけ逃げるってのか!?」
 アイツの声が頭にくわんくわんと響く。叫ばれ、揺さぶられ、胸の中に詰まった気持ち悪さがどんどん大きく増していく。
「もともと、僕は僕だった。お前さえいなきゃ、僕は……」
 気持ち悪さで何も考えられず、思わず言葉をこぼすと、しっかり掴まれていた胸倉から急に手を離された。上に引き上げられていた僕はすとんと地面に尻をついたが、その瞬間。
「う、ぐっ……!」
 右肩に強烈な痛みと衝撃が走り、僕はそのまま地面に背中をぶつけた。背中の痛みよりも強く痛む右肩は、どうやらアイツに蹴り飛ばされたみたいだった。痛みに耐えて起き上がろうとするも、その隙を与えないアイツの足は、そのまま僕の肩を踏みつけた。
「いだっ……」
「テメェが俺を望んだから、俺が生まれた」
 そう言って僕を見下ろしたアイツは、以前この世界で邂逅した時と同じ、悲しい顔をしていた。
 アイツが、僕の体で皆を殺して、殺戮を楽しんでいるくせに。どうしてそんな"被害者"みたいな顔をするんだ。お前が悪いのに、どうして。
「……僕が望んだのは、たったあの時だけ」
 僕が生を強く望んだのは、戦争あの時だけだ。仲間たちの死体を盾にし、逃げ、戦った……たったあの一瞬だけ。戦争が終わってどこへも行けない今の僕は、こんなにも消えてなくなりたいのに。
「被害者面してんのはテメェだろ、フリッピー」
 僕の心を読んだように、ギラついた金色の瞳が細くなる。
「俺はお前のためにやったのに、最後は消えろなんて、虫が良すぎねェか」
「……ぐッ」
 アイツに踏まれた肩から、ミシミシと骨の軋む音がする。体重を少しずつかけているのだろう、どんどん重く痛くなっていく。
「俺だって、少しぐらい報われてもいいだろ?」
「おまえ」
「だから……少し付き合えよ。フリッピー」
 泣きそうになっていた"自分"の顔は、唇を吊り上げるようにして笑った。

ゴギッ

「ぐ……あ、あぁ!!」
 踏みつけられた右肩から嫌な音がして、右腕全体に痛みと痺れが走った。多分折られたのだろう。肘や指を動かしてみたが、痛みや痺れのせいでうまく動かなかった。
「お前の悲鳴も案外良いモンだな」
 ニタニタと笑みを浮かべるアイツは、ようやく僕の右肩から足を下ろした。一瞬痛みが緩和されてほっとしたが、アイツは下ろした左足を軸にし、右足で僕の腹を蹴り上げた。
「ンぐっ!」
 ほんの一瞬の気の緩みを狙われた。右肩の痛みで忘れていた吐き気が、腹を蹴られた衝撃で完全に思い出させられた。
 駄目だ、我慢しろ。そう頭に過ぎるも、生理的な反応を理性で抑えることなんてできなかった。
「ぐ……ぅゲえぇ」
 ゴポゴポという水音とともに、鼻につく臭いの液体が喉からこぼれ出た。喉に詰まらせないよう、咄嗟に横を向いたが、そのせいで鼻に入ったらしく、つんとした刺激に涙と鼻水が滲む。
「そうやってゲロ塗れになってんのがお似合いだよ、オマエは」
 胃液で喉が灼かれるのを感じていると、アイツの手がぬっと伸びてきて、頬を無理やり掴まれ、上へ向かされた。
「ん……んん!」
 真っ赤な口が視界に広がり、海の底にいる生き物のような何かが、僕の口を這った。それがアイツの舌であることに気付いたのは、僕のそれと無理やり絡ませた時だった。
「ウゲェ。不味ィな」
 僕の口から離れ、開口一番にアイツは言った。逆に美味しいとでも思ったのか、と言ってやりたかったが、嘔吐特有の気だるさに何も返すことができず、せめてもの抵抗で僕はアイツを睨むことしかできなかった。
「ハッいいじゃねェか、その眼。もっと抵抗してみせろよ」
 ……そう言って、アイツは僕を蹂躙じゅうりんした。尊厳を、人格を侵すように犯したのだ。
 ナイフで頬を切りつけ、傷口を抉った。痛みを堪え平常を装うと、アイツは首を絞めた。意識が落ちそうになる瞬間に手を緩め、そのたびに僕は生を感じ、落ちる死の恐怖を味わった。
 それも堪えると、アイツは悍おぞましい行為を選んだ。胎内回帰にはほど遠い、一種の自慰のような、そんな行為。拒否をしても無意味だと悟った僕は、アイツのなすがままだった。
 いつもの僕なら、すでに心は折れていただろう。尊厳も人格も全部めちゃくちゃにされて、折れないほうがおかしい。でも、アイツは僕を罵っていた。蹂躙している間、ずっと。ナイフで傷口を抉ったときも、首を絞めたときも、僕を犯したときさえも。
 罵倒の裏にある本音を、コインの裏表である"僕ら"はわかっていた。
 
「……これで、お前は報われたのか?」
 ぼろぼろになった体を横たえていた僕は、そう呟いた。久しぶりに言葉を紡いだ声は、聞き取りづらいほどにまで掠れていた。
「そう見えるならテメェはボンクラだな」
 僕と同じ掠れた声で、アイツは嘲笑した。自嘲も含んだように聞こえたのは、きっと気の所為ではないのだろう。
「フリッピー」
 僕は、アイツを初めてそう呼んだ。全身引き裂かれそうな痛みに耐えながら、ゆっくりと体を起こす。
 不貞腐れた顔でもしているかと思いながら、アイツの顔を見やると、意外にもアイツは顔を歪めていた。
「フリッピー」
 今度はどちらが名前を呼んだのだろう。――まぁ、どちらでもいいか。だってアイツは、僕が望んで作り出した自分なのだ。
 今までわからないふりをしていたたけで、本当はアイツと初めて会った時からわかっていた。アイツの顔は……あの時、敵の軍隊を皆殺しにした後の、水面に映った僕の顔そっくりだったから。
「なぁ」
 僕と同じ金色の目が、僕を見る。
 口から覗く鋭い犬歯も僕と同じだ。
 だからきっと、君が泣いているなら、僕も泣いているんだろう。
「俺を……愛せよ」
 金色の瞳から、ぽろりと本音の粒がこぼれ落ちて、水底の世界に吸い込まれていった。