すくいの手
剥き出しの小さな腕に、白い包帯が巻かれる。包帯を巻く手が少し震えて、たどたどしい指が包帯と絡まるのを俺はぼうっと見ていた。
「本当にごめん」
うつむきがちに、フリッピーは謝った。……ああ、いや、包帯巻いてるんだから、うつむいてるのは当たり前か。
「いつまで言ってんだよ」
茶化すように言うと、急に体を動かしたからか、巻いていた包帯がはらはらと解けた。
「下手くそ」
俺は、そう言って笑った。
*
話は少し前に遡る。
俺が外で作業していると、地面にぬかるみを見つけた。うっかり踏んで転びそうだな、踏まないように何か標識でも立てるか……。なんて考えていると、急に後ろから誰かにぶつかられ、どちゃりとぬかるみに顔から飛び込む形になった。
怒りを通り越して虚無な気持ちになりつつ、どろっどろのぐちゃぐちゃで背後を見やると、呆気にとられた表情のフリッピーがそこに立っていた。
フリッピーの両腕には何かがパンパンに入ったビニール袋、両手でチョコチップクッキーの箱を重ねて持っていた。
ビニール袋にはチョコチップクッキーのパッケージが透けていたから、おそらく大量に入っているのは同じものだろう。
「フリッピー……」
「ご、ごめん前が見えなくて……。
あ、僕の家すぐそこだからさ、とりあえず洗おう!」
フリッピーに連れられるがまま、ぐちゃぐちゃと移動し、シャワーを借り、泥だらけの服を洗濯してもらい……、こうして新しい包帯を巻いてもらっているというわけだ。
「にしても、なんでこんなにクッキーを買い込んでんだよ」
皿に出されたチョコチップクッキーを歯で挟み、そのまま噛み砕く。しっとりタイプのクッキーもあるが、これはカリカリタイプのようだった。じゃこじゃこと音が口内に響く。
「ランピーの店で、チョコチップクッキーが安売りしてたから、あるだけ買っちゃって」
フリッピーが甘い物好きなのは知っているが、一日一箱食ったとしても、一ヶ月分ぐらいはありそうな量だ。
「これだけ食ってると虫歯になりそうだな」
「はは、ちゃんと齒は磨くよ」
俺のよくわからない感想を、フリッピーは律儀に拾い、左腕の包帯を巻きながら答える。
……きっと、包帯を巻くのは手慣れたはずだろうに、包帯から腕に伝わる微かな振動を感じ、俺は思わず目を背けた。アイツの指が震えているのは、気のせいなはずだ。
「よし、巻けた」
俺の気をよそに、フリッピーの明るい声が聞こえ、視線を包帯へ戻した。なんとなく、少し緩い気がするけど……まぁいいか。
「ええと……」
フリッピーは俺の左腕から垂れ下がった包帯を持ちながら、もう片方の手でがちゃがちゃと救急箱を漁る。
そういえばこの前、俺がフリッピーの家の雨漏りを修理しに行ったときにも見たっけ。あの時はうっかり屋根で滑って落ちかけたんだったか。救急箱を抱えて慌てて玄関から飛び出してきた時は、この世の絶望みたいな顔をしていたな。
あの時の慌てふためいたフリッピーの顔を思い出し、喉の奥から笑いがこみ上げ、吹き出してしまう。おっと。フリッピーに聞かれたかと目線を向けると、フリッピーは救急箱を見つめたまま、じっと黙っていた。
――ぴくぴくと動く目と、鋭く光った銀色のハサミ。
「おい、フリッピー!!」
思わず叫ぶと、フリッピーはビクッと体を震わせ、まだ金色ではない眼のフリッピーがこちらを向いた。
「……何? そんな大きな声で呼ばなくても聞こえてるよ」
自分がどうなるのを知っているのか、知らないのか。取り繕うようにフリッピーは笑った。
「包帯、解けちゃったね。やり直すよ」
いつの間にか床に落ちていた包帯をフリッピーは拾って、くるくると巻き直す。笑顔にどこか哀しさが滲んでいる気がして、俺はニッと笑った。
「……ほんと、不器用だなぁ、お前」
からかうと、フリッピーも俺に倣って笑う。
「ハンディが器用すぎるだけで、僕は普通だよ」
まだ少し怯えた指が、包帯を腕に宛がう。しゅるしゅると包帯を腕に巻く音がして、俺はなんとなく黙ってしまった。何か言おうとしても、すべて空回ってしまう気がして、なんとなく踏み出せないでいた。
「僕は……救えているかな」
そんな俺に気付いていたのか、ぽつりとフリッピーは言った。俯いていて、表情は見えない。震える指が、もつれている。
「救えてるよ。だって、今俺は救われてるだろ」
まぁこうなったのは誰かのせいだけどな。そう冷やかすように付け加えると、フリッピーは顔を上げて、少し嬉しそうに目を細めた。
「ありがとう」
面と向かって言われるとなんだかむず痒く、そっぽを向くようにして窓を見た。ちょうどいい風が吹いていて、揺れ動いたカーテンの隙間から太陽の光がこぼれていた。眩しい。
そう思ったと同時にひく、と鼻が動き――
「ひっ、くしゅ!」
くしゃみが出た。その途端に、ズキンと腕に走る痛み。反射的に視線を戻すと、ハサミと包帯を持ったフリッピーが俯いていた。おそらく包帯を切ろうとして、ハサミの刃に腕が掠ったのだろう。解けそうな包帯に血の赤が滲んでいる。
「フリッ……」
声を出そうとした時、包帯がはらりと床に落ちた。思わず、それを目で追う。落ちた包帯は、拾われることなく、ぐしゃりと、黒い靴に踏みしめられた。
静寂な時間。フリッピーは黙ったまま動かない。ごくりと唾を飲んで恐る恐る顔をあげる。胸元のドックタグがぎらりと光って――、
「んグッ!」
眼の前に突然現れた手のひらが俺の口を塞いだ。親指と人差し指がちょうど俺の頬骨を挟むようにして圧迫する。
ギリギリとした痛みから逃れるように暴れると、上げた足の爪先が丸いソファーテーブルにぶつかり、チョコチップクッキーと皿がガシャンと音を立てて床に転がった。
ザラッ、ザリザリ
フリッピーのあの手が、床に散らばったクッキーや割れた皿を掬いあげる。皿の破片で切れて血を滲ませても気にも留めない。手は、俺の口へゆっくりと向かう。
「ンンン、ンン〜!!」
皿クッキーから逃れようとするも、顔を押さえつけた手は離れない。やめろ、やめろ。やめてくれ。アイツの救いの手≠ナ、そんなことやめてくれ。
痛みで暴れる俺が最期に見たものは、包帯で首を絞める殺戮の手だった。
*
「……大丈夫だ、フリッピー。お前の手は、救えてるから」
いつものベッドで、いつもの朝が来る空を見ながら、俺はひとりごちた。