水底のコインはひっくり返らない


 それは潜水に似ていた。
 体が浮きそうな感覚と、喉が詰まるような苦しみのなか、僕は地面に座り込み、頭上にある揺らぐ光を見つめていた。
「空虚だ」
 水の中のような空間だったが、声は出た。水泡もなく、息もできる不思議な空間だった。よく見ると辺りには木が生えていて、音もなく葉が揺れているのが見えた。まるで、水底に沈む森のようだ。
 光の当たらないところは闇が広がり、しんと静かで誰もいない。僕だけしかいない世界。

と、ぷん

 ――と、何かが飛び込むような音がして、世界が一瞬揺らいだ。天上の光が何かに遮られたように、ちらちらと点滅する。
 なんだろうか。そう思い、光を見上げると何か黒いものがよぎって……。
「よォ」
 背後から腹の奥を撫でられるような低い声に、ぞわっとして肌が粟立つ。ここは、僕だけしかいない世界のはずなのに。
「誰だ」
 振り向くことができず、視線を変えないまま背後へ声を掛けた。相手は気配でしかわからないが、おそらく男で、僕を見下ろすように立っているのだと感じた。
「冷たいことを言うなよ。俺たちは生死しょうしを共にした仲だろ」
 僕の後ろにいる奴はおどけた口調でそう言い、低く笑った。生死を共にする? まるで長く僕の傍にいるような口振りだった。でも僕の傍には誰もいない。仲間も、住人達も。みんな僕のせいで死んで、僕のせいでいなくなって……。
「俺だけが傍にいる」
 心を読み取るかのように、背後の男は声をかけてきた。それは僕の欲しい言葉だった。こんな自分がいてもいいのだと、存在意義を証明してくれる言葉。
「君は……」
 恐怖から一転して、自分を認めてくれる相手を見つけた歓喜で、後ろを振り返った。
「よォ、フリッピー」
 見下ろす顔は『よく見たことがある顔』だと思った。軍服にドッグタグ、緑の髪。これは"自分の顔"だ。一瞬鏡かと錯覚したが、自分はまだ座り込んでいたし、それにギラギラと輝く金色の瞳が、自分そのものでないことを表していた。
「お前は……"僕"なのか?」
「お前であり俺だよフリッピー。一枚のコインみてェにな」
 犬歯を見せてニタリと笑う自分を見て、顔がひくついた。アイツの顔を見ていると自身もそうしなければいけないような感覚に陥る。
「僕はふたりいるとでも言うのか?」
「だから言ってんだろ、俺たちは二人であり一人なんだ」
 アイツの言葉はいくら訊きいても変わらない。その言葉が本当なら、僕はただの■■■■じゃないか。それを認めたらどうなる? 認めたら僕は? 俺は?
「……わからない」
 焦燥からか、恐怖からか、だくだくと汗が出てきて頭を抱えた。分かってしまえば全てが繋がる気がして、僕は無知であることを選んだ。何も知らなければ、気付くことはないから。
「俺に嘘が通用すると思ってんのか? めでてェ頭しやがって」
 シャットアウトしてしまいたい僕に、アイツはこじ開けるように言葉を振りかける。何も知らないはずの僕に、アイツはすべてを理解しているかのように振る舞って笑う。 
「わからない、わからない!」
 自分であるアイツの言葉を消し去ろうと、大声を出した。だけど声は反響することなく、静かに吸収されていく。――そういえば、この水底の森みたいな世界は、一体何だ?
 「……なぁ、これは夢だよな?」
 瞼まぶたがびくびくと震える。そうだ、きっとアイツは歪んだ笑みを浮かべながら『これは夢』だと言ってくれるはずだ。そうでなければいけないのだ、そうでなければ!
「……あぁ、夢だ」
 低く掠れた声でアイツが告げたのは肯定だった。ああ、やった! やっぱりこれは夢だったんだ! 突如訪れた安堵に、顔が緩んだまま、僕は顔を上げた。
 見上げたアイツは悲しげな顔をして僕へ迫り、口をがぱっと大きく開いた。
「んなワケねェだろ! これは! 現実だ!」
 残酷を告げたアイツは、両腕を広げ、視界いっぱいに歪な笑顔をぶちまけた。ギャハハと下卑た声が静寂な世界を満たす。音もなく水底の木々たちは揺れ、僕の世界が荒れていく。
「あ……あぁ」
 目から何かがぼたぼたと、慌ただしくこぼれ落ちる。手の甲に落ちた水滴が生暖かいことを知って、僕は泣いていることに気付いた。悲しいわけじゃない。辛いわけでもなんでもない。ただ、胸に腕を突き刺されて心臓をもぎ取られたような、そんな感覚。
「今更感傷に浸んのかァ?
 はじめから・・・・わかってたことじゃねェか」
「……ぼくは、わからない。
 知らない、知らないはずなんだ。お前なんか」
 はぁ、という呆れた声が僕に降りかかる。目玉だけを動かして一瞥すれば、眉を顰めて口を一文字に結んだ、悲しげに見える"僕"がいた。
「……所詮、俺はそんなモンだよな」
 切り裂かれたような、薄く開けたアイツの口から零れた声が聞こえた。聞かせるつもりはなかったのだろう。だけど聞こえたのは、僕がアイツだからか。
 ――と、目を逸らしていたアイツと視線がぶつかる。アイツは途端に居心地が悪そうな表情を見せ、僕の胸倉を乱暴に掴んだ。
「知らねェフリをしたきゃ、そうしてろよ。
 どうせもうすぐ、お前の大好きな懺悔ざんげの時間だ」
 馬鹿にしたようにニイと嗤ったアイツは、僕の体を引き寄せて上へ投げた。不思議なことに僕の体は人形のように簡単に浮き上がり、そのまま天上の光へ吸い込まれるように上昇していく。
 ……ああ、そういえば、これは僕の意識下の世界だったな。光に触れる少し前に水底のアイツを見下ろすと。意外にも、僕のことを無表情で見つめていた。





 とろとろと溶けていた意識が形作り、むせ返る様な血の臭いに我を取り戻す。恐る恐る目を開けると、そこには見知った顔たちが血まみれで転がっていた。
「っ……!」
 喉の奥が締まり、胃液が暴れて吐き気が込み上げる。ただ殺されただけでなく、弄ばれた形跡のある死体たちに畏怖いふと惨憺さんたんを感じ、慣れた言葉が口に出た。
「ぼくじゃない……!」
 そう叫んだ時には、あの水底に沈んだ世界のことを、もう忘れていた。

(良かったなァ、フリッピー。
 お待ちかねの懺悔パーティの始まりだ!)