上澄みの恋


ちゃぷ、ちゃぷ。
ちゃぷ、ちゃぷ。

 水面が、はしゃぐように飛び跳ねる。宙に浮く滴たちは太陽の光でキラキラ輝いて、水面から生えた白い脚がいっそう眩しくなるのを感じた。
「ペチュニアー!」
 たくし上げられた白いスカートの裾から手を離して、ギグルスはアタシに向かって手を振った。裾から離したせいで、スカートが落ちて裾を濡らしているのに、それに気付かないで笑う彼女は、水面のキラキラよりも輝いていた。
「川の水、冷たくて気持ちいいよ。一緒に入ろ!」
 ぱしゃぱしゃと走ってきたギグルスは、真上の太陽で火照ったのか、少し頬を赤らめている。日差しがギグルスの背に降り注ぎ、まるで後光みたいで。差し伸べてくれた手からぽたりと落ちる滴が、なんだか神聖なものに見えた。
「アタシは大丈夫よ」
 だいすきなギグルスからの誘いに、後ろ髪を引かる思いで断ると、ギグルスは頬をぷくっと膨らませて"不満"の意を表した。そのふっくらとした頬はマシュマロみたいで、許されるのならば、その頬を唇で食むようにしたいと、そう思った。
「やだ。一緒に入るの」
 アタシがそんな呑気なことを考えていると、かわいいギグルスの顔は曇り始め、差し伸べられた手は次第に力を無くして縮こまってしまった。
 ああ、だめよギグルス。そんな顔されたら、ばかなアタシは絶対にこう言ってしまうじゃない。
「……仕方ないわね」
「やった!」
 暗かったギグルスの顔がぱぁっと明るくなる。きっとアタシの承諾を待っていたのだろう。
 単純なアタシをまんまと誘い出した、かわいいギグルスは縮こめていた手の平をもう一度、私に向かって差し出した。
「……もう、ギグルスったら」
 アタシも不満な声を上げてみたけど、ギグルスに声を掛けられることには何の嫌気もない。というよりむしろ、嬉しさを感じる。
 アタシが懸念しているのは"川へ入る"こと、ただそれだけ。今日はハイキングの予定だったから、動きやすいスニーカーで来てしまった。だから、川へ入るには"素足"になる必要がある。
「ペチュニア?」
 小首をかしげるギグルスに慌てて笑顔を返すと、差し出されていた手に自分のものを重ねる。体重を預けながら、片一方ずつスニーカーと靴下を脱いで素足を露わにすると、指の間を風がすうっと通った。
「……」
 ギグルスに見守られるまま、足先を水面へ入れるとひんやりとした感覚と同時に熱が奪われるのを感じた。
 川は、透き通っていて清流のように見えるけれど、きっと目には見えない微生物や菌がたくさんいるのだろう。――足先にまとわりつく微生物たちを想像し、肌がぞわりと粟立つのを感じた。
「ペチュニア」
 そんなアタシをよそに、ギグルスはアタシのもう片方の手を掴む。きっと入りにくそうなアタシに気を遣ってくれたのだろう。優しい子だ。
 ああ、でもこれじゃあ、やっぱり止めるね、なんてもう言えない。

 行くしかないと心に決めたアタシは、左の足先を川へ沈め、なんとか底まで到達した。川の水で冷えた底に眠る石を足裏で踏みしめて息を吐く。体重を少しずつ移動させて、右足を浮かせた時。
 ギグルスがタイミングを見誤ったのか、くんっと前へ引っ張り、アタシは慌てて右足を前に出してまった。
「……あっ」
 足裏で踏みしめていたはずの左足がズルっと滑り、バランスを崩したアタシは、そのまま水面へ向かって転んでしまった。

ぱしゃん!

 耳元で大きな水音がして、冷たい水が顔にまとわりつく。はやく、はやく起きなきゃ。小石にぶつけたのか、体のあちこちに痛みを感じながら、両腕を使ってなんとか水面から顔を上げた。
「げほ、ごほっ」
 上げた顔から大量の滴がぽたぽた落ちる。水がアタシの口に、目に入った。服は無残に濡れて、肌にべちゃりと貼りついている。
 ああ、きもちわるい、きもちわるい。微生物や菌たちがうじゃうじゃいるかもしれない水が、アタシの肌に、体の中に入り込んでいるかもしれない!!
「うぇ……げほっ、げほっ!」
 嫌悪感と拒絶から生まれた吐き気が、胃を刺激する。さっさと得体の知れないものを吐いて楽になりたい。喉の奥から何かが込み上げてくるのを感じて、アタシは大きく口を開けようとした。
「ペチュニア!?」
 喉のあたりまで吐き気が込み上げた時、アタシの汚れた体を抱き寄せる誰かがいた。目先に桃色の髪が揺れるのが見え、誰に抱き寄せられたのか、すぐに分かった。
「ごめんね、ペチュニア」
 すぐそばから泣きじゃくる声が聞こえて、パニックになっていたアタシの頭はどんどん冷静になっていく。あれだけ気持ちが悪いと思っていた川の水も、ギグルスの声や匂い、温もりでどうでもよくなるのを感じた。
「……ギグルス、濡れちゃうわよ」
 ギグルスはアタシを抱き寄せるために膝を折ったせいで、スカートの裾が川の流れに任せて揺れているのが見えた。桃色の髪に埋もれたギグルスの顔を見やると、ぽろぽろと涙をこぼしている目が心配そうに向けられていた。
「ごめんね、ペチュニア。私がひっぱっちゃったから……」
 小川よりも清らかなギグルスは、ぎゅっとアタシを抱きしめてきた。本当にかわいい子。そんなに悲しまなくたっていいのに。
 水と涙で頬に貼り付いた桃色の髪を一房掴んで避けると、涙でうるんだ目をまんまるにして、ギグルスはアタシを見つめた。
「そんなに泣かないで。もう大丈夫だから」
 そう言って、今度はアタシがギグルスを抱きしめ返すと、返事をするかのように変な水音がずべずべと聞こえて、少し笑ってしまった。
 アタシのかわいいギグルス。清純で、無垢で、いとおしい子。あなたが笑ってくれるなら、どんな不浄なものも厭わないなんて、そう思ってしまうの。きっとね。

(ギグルス、アタシはあなたのこと……)
 
 喉まで出かかった言葉を飲み込んで、心の奥底へ沈没させる。言わなくったっていいの。言わなくても、アタシは幸せで、ギグルスの幸せを壊す必要もないから。
 少し泣き腫らした目が微笑むのが見えて、アタシも同じように微笑んだ。アタシはあなたが幸せなら、何でもいいの。
「一緒にいてくれて、ありがとね」
 アタシとギグルスは、融けた光の中で笑いあった。