本編


「やあフリッピー。一緒に見ない? 映画」
 呼び鈴を鳴らされて扉を開けると、ランピーは開口一番にそう言って笑った。

 ランピーは何にしても急な男で、おそらく彼の中に"前提"はないと思う。物語で言うと、起承転結の"起"が存在しないといえば、わかりやすいだろうか。
「ねーフリッピー、なんか食べるものある?」
「右の戸棚にポップコーンがあったはずだけど」
 僕のモノローグを邪魔したランピーは、「そっかーありがとねー」と間延びした声を出しながら、再びキッチンへと戻った。
 キッチンから聞こえる奇怪な音に僕ははらはらしたが、行くと余計に大変なことになりそうで、目を閉じて聞こえないふりをすることにした。
「お待たせ」
 しばらくして音が止み、声が聞こえて目を開けると、キッチンから出てきたランピーの手には、山積みにされたポップコーンの皿があった。袋に入っていたポップコーンをなぜか浅い皿へ投入したようで、今にも溢れそうだった。ランピーはそんな様子を気にも留めず、皿をソファテーブルへ乱雑に置き、案の定その衝撃でポップコーンが数個転がり落ちた。
「これ、なんか話題のやつなんだって」
 床に落ちたポップコーンを、流れ作業で拾い食いしたランピーは、映画の雑な紹介を挟みながら、指にはめていたディスクをプレーヤーデッキへ入れた。
 ――突っ込む暇がなかったので、これは余談だけど――、指輪のようにランピーの指にはまったディスクは、僕の家を訪問した時からすでに指にはめられていた。それから、ポップコーンを持ってきた時も。……おそらく、家から片時も離さずに指へはめたままだったんだろう。
 ランピーは変に気を遣わなくていい隣人だが、彼のそういうところは、僕にとって不思議で、とても不可解だった。
「よーし、セット完了。リモコンちょうだい」
 僕の隣にあるソファチェアに勢いよく腰掛けたランピーは、手の平を差し出した。正直、リモコンはランピーの近くにあるので自身で取ったほうが早いと思ったが、僕は何も言わずランピーの思うがままに、リモコンを手の平に置いた。
「前回から学習してさ、今回はヒューマンドラマなんだよね」
 渡したリモコンのボタンを押しながら、ランピーはそう言ったが、僕はランピーの言う『前回』を覚えていなかった。ランピーのことだから、誰かと間違えているのか。
「前はスプラッタホラーだったからさぁ、映画よりも早くぼくがスプラッタになっちゃって」
 ……前言撤回。"僕"と見たようだ。自分の知らない"自分"の存在を察し、なんとなく後ろめたい嫌な気持ちが胸を占めたが、ランピーはそんな僕のことを露知らず、楽しそうに笑っていた。
「フリッピーも大変だよね。面白い映画が観れなくて」
 思わずはっとして、僕はランピーの横顔を見た。ああ、そうだ。彼は僕にはない明るさがある。失敗しても落ち込まず、どんな状態になっても楽観的で……。ランピーの能天気さに巻き込まれたり、呆れることはあるが、その明るさが心底羨ましかった。
「じゃあ再生するよ」
「……ああ」
 返事をすると、ランピーはリモコンを画面へ向けてボタンを押す。その後は僕たちは何にも言わずに、小さなテレビ画面に目を向けた。創られた誰かの人生を追体験するために。


「あ、おわった」
 ランピーの声と僕の心は偶然にも重なり、それを誤魔化すように息を吐いた。主人公が良い感じの言葉を言った後、視点が町並みと空を映し始めて、まさかな……と思っていたら案の定エンドロールが流れた、という次第だった。
 映画の中盤までは、ランピーが食べそこねたのか横から飛んでくるポップコーンに気を取られていて、映画の内容があんまり頭に入ってこなかった。
「面白かった?」
「普通……かな」
 普通。とても無難な言葉だ。台詞はわりと凝っていたように思えたし、悪いわけではなかったが、正直会話劇が多くて退屈だったように思う。
「だね。なんかあんまり面白くなかったや」
 ランピーはへらへらとした笑みを浮かべて、「やっぱりドカーンって爆発するアクションとかの方がわかりやすいよねぇ」とぼやいていた。
「でも、台詞は凝っていたね」
 あの映画を擁護するわけではなかったが、なんとなく口に出た。ランピーは、ちぐはぐだった瞳を両方とも僕へ向け、今日初めて視線がかちりと合った気がした。
「んーでもさぁ、セリフのほとんどがエラーい人の名言ばっかりで、
 ぼくには薄っぺらかったかなぁ」
 口を尖らせながら話すランピーに、僕は素直に驚いた。意外と物知りなのだ、この男は。僕は偉人の言葉なんて覚える気はない。"自分"を保つだけで精一杯なのに、他人の言葉なんかを取り入れるなんて、できるわけがなかった。
「……"本当の自分は、寝て食べて考えて生きる今の自分さ"って言う言葉も?」
 映画のなかで一つだけ、僕の心に残ったシーンがあった。主人公が自分を見失って取り乱した時、元大学教授の男が諭していたシーンの台詞だった。
 自分の心に残ったからこそ、借り物ではない創られた言葉であってほしいと思ったが、無情にもランピーは、僕を見て笑った。
「ああ、あのセリフかぁ」
「これも偉人の言葉?」
「うん。多分、"真なる自己は寝て食み生きる己こそ真の自己である"の引用かな」
 やっぱり借り物の言葉だったらしく、僕は小さく「そうか」と呟いた。ショックではなかったが、一気にあの映画への興味がなくなってしまうのを感じた。
「ランピーは、その名言をどう思う?」
 僕とは違って・・・・・、人は一人しかいないのだから、生きているだけで本当の自分になるのは当たり前だ。
 だから、主人公へ投げかけられた言葉が、僕には全く重ならないことに、一瞬寂しさを感じて……心に残ったのだ。
「ぼくはいい言葉だと思うよ。
 ぼくはぼくなのに、本当だとかウソだとか、わっかんないよ」
 ランピーのその回答は、おそらく名言が意図することとは違うのだろう。だけど、その楽観的な言葉の方が、さっきよりもすっと僕の心に残った気がした。
「僕の真なる自己って、どれだと思う?」
 ランピーにそう問えば、またランピーなりの言葉を返してくれるんじゃないかと、淡い期待を抱いて聞いただけだった。だけどランピーは先程の笑顔から一変し、眉間に皺を寄せて、少し困った表情を見せた。
「……あー、それはカウンセリング?」
 僕は冷水をかけられたように、頭がじんわりと冷たくなるのを感じた。
 ああ、そうだ。ランピーにとって、僕は知人であり、隣人であり、そして……患者なのだ。
「別に……そんなことは」
 思わず言い淀んで、うつむいてしまう。僕にはそういったつもりは全くなかったが、どう言えばいいか分からず、上手く言葉が紡げなかった。同じ映画を見た者として聞いたが、無意識のうちに患者としての自分がいたらと思うと、言い切る勇気はなかった。
 ランピーではなく、これがハンディなら。フレイキーなら。スプレンディドなら。同じ言葉を言っただろうか。
「フリッピーは、いつもそうやってだれかに助けを求めてるね」
 俯く僕の頭に、ランピーの声が降ってくる。情けない、一人では何もできない。そう言われている気がして、喉が詰まるのを感じる。
「ここは、映画の中じゃないから……」
 俯いているにも関わらず、ランピーは僕の視界に入ってきた。黒い瞳が僕を責めるように見据えて、いつもへらへらと笑っている唇が囁いた。
「だれも、君を救わない」
 その言葉が聞こえた瞬間。顔が、胸が、頭がさあっと冷えて、僕はそのまま気を失った。 

*
 目が覚めると、リモコンで頭蓋骨を割られたランピーが足元に倒れていた。部屋中血塗れで、肉片や臓物がそこら中に散らばっていた。まるで、ランピーへ不満をぶつけたみたいに。
 爪先の近くには、ランピーのものであろう目玉がこぼれ出ていて、黒胡麻みたいな瞳がうつろに僕を見ていた。
「……ねぇ。笑ってよ、ランピー」
 ぴくりとも動かない死体を眺めながら、僕は能天気に笑うランピーの顔を思い出していた。