「参謀総長、西の方角で何やら動きがあったようです」
「ああ、わかった」


しょっぱい風がビュウと髪を靡かせる。最近はこの界隈も特に騒がしいなあと吹き抜ける海のにおいが自然と眉間に皺を作らせた。偵察に行っていた仲間の声色から察するに長丁場になりそうである。この件を終わらせたら、今日こそなまえに会えるだろうか。偵察に行ってはや五日、まだ戻らないなまえのことが無性に気にかかって、思わず水平線にその姿を探す。なまえとは、平穏とは程遠いこの時代に、無垢なリボンがほどけるように純粋で、蜂蜜がとろけるように甘やかで、ソーダ水が弾けるように軽やかに笑う女である。あいつを思うとやけに不安になったり妙に嬉しくなったりするもんだから、ちゃんと生きぬかねェとなと今日も思う。



集中しなきゃなんねェのに、なかなか帰ってこないなまえが、失った兄弟の影と重なってチラついて気が気ではなかった。心の中に浮かぶ幾つものもしかしたらはいつまで経ってもおれを離してくれることはないのだろう。救えなかったこと、忘れていたことを責めてボロボロに砕け散りそうなおれの欠片を集めて掬ってくれたのはなまえだった。命なんて惜しくないと突っ込んでいきそうになったおれに必死にしがみついて静止したなまえの睫毛が真珠のような儚さを携えて不安定に揺れて、普段のなまえからは想像もつかないほど脆かった。離せと振り払うことはきっと簡単だった。それでもその言葉が喉につっかえて押し戻されたのは、か弱く震える指先があまりにも強かったからだ。その時から決めている。必ず生きると。命を捨てるようなことは絶対にしない。縋るようにしがみついたなまえの言葉が、スウッと鼓膜に届いて一種の暗示のように脳内に響く。

「生きて、わたしも生きるから」


透明な水珠がぽろりとひとつこぼれ落ちた気がした。それの正体がなんなのかもわからないまま、ぐずぐずと歪む視界の向こう側にどうしようもなく瞼の裏側がツンと熱くなったのだった。



やっぱり帰ってこれたのは夜の夜中になってしまった。部屋の灯りがぽつりぽつりとしか点いておらず、夜の星の方が明るいくらいだ。


「サーボ」


夜の暗さには似合わない間延びした声に、みっともなく心臓が跳ねたのは驚いたからではなく安堵だ。


「帰ってたのか、なまえ」
「うん、ただいま」


たったの五日、されど五日、数日間顔を合わせなかっただけなのに、目も慣れてほの明るい夜、けれど何故だかそこだけ明るく感じる場所に浮かぶ白い肌が妙に安心感を俺に与えた。純粋で甘くて軽やかなこの笑顔は、おれを気の抜けた炭酸水のようにさせる。人を好きになるって、こういうことなんだぞと腑抜けたままの心臓がおれに言う。あのね。彼女がとろりと目を細めて悪戯っ子のように手をとる。その嬉々とした瞳に逆らえるわけもなく、手を引かれるがまま食堂に誘われた。


「みんなには内緒、ね」


しーっと口に指を当てる彼女の愛おしいことといったら。何とも言えない胸の疼きが恥ずかしいやら愛おしいやらで額をひとつ小突いてやった。すこし額にしわを寄せながらもどこか楽しそうななまえの目があまりにも優しくて、するりと指先から抜けていくように出し抜かれた気分になって、それでもどうしたものか胸のうちに春が芽吹くような感覚。


「お腹すいたでしょ!」
「でっけェ握り飯だな…」
「うるさい!」


真っ白な握り飯みっつ、まだあたたかい。仲間の誰かが電伝虫で帰ることを伝えたんだろうか。無遠慮に大きく口を開けて握り飯をぱくりと頬張るなまえに肩の力がふと抜けてあたたかな空気が周りに流れた。仄暗い夜がここだけ明るい。それはたぶん、なまえがいるからで。


「なんだその馬鹿みてェに幸せそうな顔」
「馬鹿は余計、でも」


素直になれない意地っ張りの言葉に、当たり前と言わんばかりの顔をする。


「サボが帰ってきてくれたからじゃないかな」


平然と言ってのけた上等な宝石のような瞳の中であまりにも間抜けなおれがこっちをみていた。そういう女なのだ、なまえとは。まるで使い込んだシーツに包まるような安心感のような、手に馴染んだ手袋のような、そんな風な心地よさに、どうしたってここにいたいと生きていたくなる。弾む心臓が口から飛び出しておれの中に在るいつだったかにこぼした水珠の理由を伝えてしまう前に、キュッと頬をつねってやる。痛いよと笑いながらこの手を握る温度に、ああおれは生きている、と思うのである。



24カラットの瞳と3mgの水珠
180622


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