(群青のきみを知るまで の続き)



ラビが帰ってくる。三週間と四日という長い長い任務を終えたのである。ラビたちが重要機密の情報を手に入れたこと、AKUMAを数体撃破したとのことで黒の教団の本部は賑わいを見せ、さらには盛大な宴会まで開かれることとなった。ラビに、会える。心臓がじわじわとあたたかみを孕むのにわたしたちはきっと、これからもブックマンといちエクソシストとして生きるのだろう。


「ラビ、おかえり」
「ただいま、なまえ」


黒の教団の周りを吹き荒ぶ風は冷たく厳しい。それでもラビの周りだけは、どうしてかあたたかく感じる。わたしはそのあたたかさに踏み入ることはできないままで、かろうじて触れることしかできないでいた。しばらくお互いが動かないままでいてただ何となく立ち尽くしているラビの鼻の頭が少し赤くなっていることがどうしようもなく愛おしくなる。コートを羽織っているラビの手のひらに目をやると、どうしてだか手袋をしていない。


「ラビ、手袋はどうしたの?」
「部屋に忘れちゃったんさ。慌てて任務に向かったかんね」
「珍しいね?」


わたしが問うように話せば、少し困ったような笑顔が返ってくる。かじかんでしまったラビの手のひらがやんわりと伸びる。そのままわたしの手のひらを握り、コートの中に入れる。


「冷たいっしょ?」
「冷たいね。でも、あったかい」


寒いのは、怖い。寒さは自然と死や絶望や悲劇を連想させるから。わたしがそう思うようにラビだってそれを考えるに違いない。だからまたラビはわたしの体温を求めて指先を絡めた。思えばラビに体温を分けているのはわたしではなく、わたしが体温をもらっていたのではないかとふと考える。いつだって心の隙間を埋めるのはラビだ。ちいさく握り返した指先がじんわりとあたたかくて、泣いてしまいそうだった。





宴会は大盛りあがり、各班のひとたちが集まり、どんちゃん騒いでいるのを見ると、わたしたちは確かに人間であることを確信できた。時折イノセンスを持つわたしたちは人間というよりはモルモットのような研究材料として扱われる場合がある。実際にそのような扱いを世間や様々な研究者から受けた者も少なくはない。わたしだってそうだ。だから喜びを分かち合ったり、互いに笑顔を向け合ったりするとのみんな人間なんだって少し安心したりする。だからわたしはこの場所がすきだ。皆に酔いも回ってきた頃、リーバー班長とコムイ室長にちょいちょいと手招きされて一度の喧騒から離れて喋ることを決めた。


「なまえ、ラビとなんかあった?」
「は、」
「だーかーらー、ラビとなんかあったのって!ついに付き合ったりした?」
「付き合うも何も、わたしたちはそんな関係じゃないから。…リーバー班長もコムイ室長も酔ってる?」


いやいや、酔ってねえから!とへらへら笑うところを見れば、ふたりがかなり飲んでいるのがわかる。日頃の鬱憤だろうなあと生暖かい目で見守れば、不意にリーバー班長がぐいっとわたしの顔を覗き込んだ。


「…つーかお前って、綺麗な目してんなあ」
「え、う、な、何言ってるんですか…!」
「なんか可愛い小動物見てるみたいなんだよなあ」
「わ!」
「ほらなまえー、おいでー」


リーバー班長、お酒くさい。だから酔った勢いと分かっている。それは十二分に、だ。それでも普段からこのようなスキンシップには慣れない自分の頬が火照ることが悔しかった。リーバー班長はわたしにとってお兄さんのような存在だけど、リーバー班長の腕の中はラビとはまた違う、男のひとだった。抵抗はしてみるものの、やっぱりリーバー班長も男のひとなわけで、わたしの拳が無力な女のものだと少し悔しくなる。コムイ室長もその様子を見てにやにやするだけだし。


「何してんさ」


アレンくんやユウやリナリーのところにいたラビがわたしたちに近付いてきたのがリーバー班長の肩越しにわかった。ほんのりと頬が紅潮しているのを見れば、ラビが酔っていることが容易に知れた。普段酔うこともないラビが、珍しい。


「お前が手ェ出さねーなら、俺がいただいちゃおうかなあって思ってたとこ」
「は、どゆこと?」
「2人ともお酒くさいよ…!」
「なまえは黙ってて」
「普段こんなことしねえラビが啖呵切るくらい大事なら、もっとなまえのこと大事にしてやれよな」


遠くの方からアレンくんやユウがあーあと言わんばかりの顔でこちらを見ているし、コムイ室長は酔いに任せてリーバーよく言ったーとにやにやとした生暖かい目をこちらに向けているのが見えた。リナリーは顔面蒼白だった。止めてください!とも言えずに、恐る恐るラビを見上げれば唇を噛んで屈辱に打ちひしがれたような顔をしている。


「シラけた、帰るわ」
「ラビ?!」
「なまえもちょっと来い、話あっから」


突然だった。酔いも冷めたようにリーバー班長が「やべえ、お節介すぎた」と呟いた。そのまま大広間を出て行くラビの後を慌てて追う。広間の皆に一礼すればリーバー班長とブックマン以外の皆が困ったように笑っていた。(リーバー班長は青ざめていて、ブックマンは面白い玩具を見つけたような表情をしている。)ずんずんと前を歩くラビは本部にて与えられた部屋に入り、乱暴に叩きつけるように扉を閉めた。ベッドに腰掛けたラビがわたしを睨むようにしている。その場に立ち尽くしてしまったわたしはどんどんラビが遠くなってゆく感覚に締め付けられていた。ラビはわたしに八つ当たりしたり、怒鳴りつけたりしたことがなかった。それなに今のわたしときたら、怒鳴って八つ当たって怒ってくれる方がいいと心底感じている。静かに怒りを向けられることが一番こわいのだ。そのままラビの目を見つめ続けられる自信もない。


「ラビ、ごめんなさ、い」
「何が?」


問われても答えることは出来ない。わたしも答えを知らなくて、情けないまでにわたしの足は震えている。立っているのか浮いているのか、やはりわたしの世界は曖昧なままである。ラビの瞳に射止められて曖昧に宙ぶらりんのままのわたしが次に気付いた時にはラビのベッドの上でばかになってしまったような五感と共にこれまたばかのようにぼんやりとラビの肩越しの天井を見上げていた。我に返るのはいつだって遅く、タイミングを逃す。ラビの腕は鎖みたいにわたしをベッドに縫い付けていた。するりとシャツの中にラビの冷たい指先が侵入する、だめ、だめ。


「ラビ、や、やめて!酔ってるんでしょ?」
「酔ってねえよ」
「酔ってる!お酒くさいもん」
「酔ってねえって」
「酔ってるってば、っ」

「なまえは、そんなに酔ってることにしたいんか?」


ラビの真っ直ぐ心に届く瞳に心臓がみっともなく跳ねた。いつのラビはわたしを見てくれていた。わたしが作り上げた透明な深海に手を伸ばしてくれていたのに、触れようとする度に透明で分厚い壁を作り出していたのだ。いつもわたしの傍にはラビがいた。一緒にいてほしいんじゃない、わたしが一緒にいたかったのだ。そのくせ臆病なわたしのやっていることは矛と盾。傷つけるのも、逃げ出すのも、いつもわたしだった。


「なまえはさあ、俺と一緒にいることで不幸になるし、背負わせてしまう。リーバーやアレンたち、あの時の指輪の男といたほうが本当のなまえでいられるんじゃないかって、そんな気がしてならんのさ。俺といる時のなまえ、苦しいっしょ」


俺たち、もう一緒にいられないか。ぽつりと言うラビの言葉は、陳腐でありきたりな言葉であるにも関わらず、わたしの心をぼろぼろと崩していった。今まで棘のある壁で傷つけてきた代償だ。堪えて耐えて溢れ出したラビに、きっとどんな思いを伝えるにも遅すぎる。もし今、口を開けば言い訳がましく募る自己防衛の塊を吐き出しそうだった。繋ぎとめていたいのに気の利いた言葉ひとつ話すことが出来なかった。ラビの愛した場所をわたしはいとも簡単に壊してしまった。後悔は後で悔やむから後悔なのだ。


「ごめん、もう出て行って、どこへでも行けばいいさ」
「まって、ラビ、お願い、」


やっとの思いで呼んだ名前は不安定に不甲斐なく涙ぐんでいたのに、それよりもっとラビの瞳は震えていた。


「もう、なまえとは二度と会わねえよ。早く出てって」


退いたラビがわたしの腕を掴み立たせる。わたしの足はしっかりとやわらかい絨毯を踏みしめていたのに、上手く歩くことが出来ない。いや、“出来ない”のではなく“しない”のだ。わたしの足はラビから離れることを恐れていた。早く!と叱咤される声を合図にわたしはラビに背を向けて走り出していた。遠くのラビの部屋の扉の鍵が締まる音が聞こえる。ぐにゃりと歪む視界にはもうラビは、いない。





「ごめん。急に、押し掛けたりして、」
「ん、大丈夫ですよ。…ラビに連絡取ろうか?」
「ううん、二度と会わないって、言われちゃった」


訪ねたり頼ったりする場所も相手も、わたしにはここしかいなかった。アレンくんは驚いたふうだったが、ぼろ雑巾のようなわたしを見て、慌てて部屋に招き入れてくれる。リーバー班長とリナリーに連絡をいれたらしく、リーバー班長とリナリーにが真っ青な顔をしてアレンくんの部屋に飛んできた。


「ごめんな、なまえ…!俺があんなこと言ったから」
「ううん、わたしが悪いの」
「でもラビ….きっと心配してると思うわ?」


ラビのエメラルドに張っていた薄い膜。ラビの傍で涙を拭う為の勇気が欲しかった、と飛び出してしまった自分に悔やんでも悔やみきれずにいた。ラビはああ見えて心配性だから、きっと複雑な思いを抱えたまま眠れずに夜を明かそうとしていることは分かっている。わたしも飛び出してきたくせにラビが心配で仕方ない。ラビと半分この体温を持て余す。体中を巡る体温が行き場をなくしてくすぶっている。ふと目についた窓の外は真っ暗闇で、ああ溶けることのない色をわたしは知っているとぼんやりと今思い出した。ラビをさらっていきそうだった暗闇に溶け込み、すり抜けたのはわたしだ。あんなに恐れをなしていた暗闇にわたしは甘え頼る。瞼を下ろせばじんわりと目の奥の奥が熱い。真っ暗闇がわたしを訪問して慰めていく。わたしは唯一溶けることのない白を慰める為の暗闇になれていただろうか。何も出来はしないが、ラビの体温になれてはいただろうか。






わたしはよく夢を見る。それはわたしを幸せにしたり、傷つけたりもする言葉のようだった。その中でもよく夢に出てくるのはラビである。ラビの顔は見える時もあれば、見えない時もある。大抵の場合、ラビはやさしい温度で微笑む。そしてわたしは必ずラビの手のひらを握りしめ、追い掛けるばかりで、わたしは夢の中の世界までラビのことでいっぱいだったのだ。夢の中のわたしは必ずラビの手を離すことはなかった。

ある時わたしたちはある街に任務で訪れていた。海の綺麗な港街だった。潮風が心地良く頬を撫で、海がきらきらと光を吸い込んで反射させる様はまるで透明な鱗のようで、それがラビを連想させたことを覚えている。いつか夢で見たことがデジャヴになったようなそんな感覚。そこから白い浜辺に立ち寄った際、わたしは思わずラビの一歩後ろから手のひらを握った。驚いたように振り返ってから少しだけ口元を緩ませたラビの瞳は、やさしいやさしい海の光と同じ色をしていた。


「ん?どしたんさ、急に」
「ラビ、手を、離さないで」


少したれ目気味の大きな瞳をさらに大きくさせたラビの瞳には海の青が反射して、そしてそのまま笑うから、わたしは何故だか泣きそうになる。任務に赴けば、愛や優しさなど必要ないと考えることもある。どんなに冷酷になろうとも、残酷であろうとも、ラビは強く優しいから、わたしはどうしようもなく愛しさを感じてしまう。ラビが溶けて消えてしまわないように、わたしは手を離さないでいた。離して欲しくなかった。


「俺が離すわけないさ、なまえ」


今の生活に安穏や愛を求めるのは間違ったことで、それらとは程遠い生活をしているのも重々承知だった。それを知っているからこそ伝えられないわたしたちは、矛盾と知っていてその間違いを肯定しようとする。結ぼうとして解けゆく。全くもって我が儘だった。それなのにラビは否定もせず、ただ頷き微笑み、言葉より大きな愛を与えてくれていたのだ。今更になって気付く思いに頭がガンガン鳴った。ラビとわたしの歩いてきた道は険しくて決して楽なものではないのだけれど、光に満ち満ちている。溢れそうな愛を抱えて、深海からだって深い森からだって抜け出してみせる。涙も拭かないで、そのままのわたしで追い掛けてみせる。だから、今行きます。


「、ラビ!」


気付いたら涙が枕に染みを作っていた。どこからが夢でどこからが現実なのかわたしには理解できないでいたが、それでも強い思いに突き動かされていた。ラビに会いたい。





「何かお手伝いできることある?」
「ああ、なまえ。じゃあ手合わせ頼めるかな?」


朝目覚めて、あのまま「昨日はありがとう」では何だか割に合わない気がしてアレンくんに手伝いを申し出た。イノセンスを発動させようとした時、アレンくんが口を開く。


「それじゃ、お願いします」
「もちろん」
「あ、そういえば、なまえ、今日、ラビが、」
「っ、アレンくん上!」


手合わせに取り掛かろうとしたその時である。AKUMAの襲撃だった。アレンくんが何か言いかけたのだが、その言葉を遮ってしまうようにわたしの悲鳴にも似た叫び声が響いた。


「こんな時に…っ!イノセンス、発動!」


アレンくんが戦闘体勢を取る姿が見えると同時に体が吹っ飛ばされる。口の中に鉄の味が広がる。わたしが弱いことを知っているのか、野生の勘というものは恐ろしい。イノセンスを発動させようとするが、打ち所が悪いのか足に力が入らない。まずい。そう感じた時には激痛と共に目の前が真っ暗闇に包まれていた。どくん、どくんと響く脈が生々しく響いていた。ぼやけていく世界にわたしはこのままこの世界から消えてしまうのかと唇を噛んだ。わたしは、まだ、何も、何も、伝えては、いないのに。「何の騒ぎさ!?」「  !」「なまえ!」懐かしい声がわたしの名を呼ぶのが聞こえた。


「なまえ、!」


抱きかかえられるような感覚、身体がふわりと宙に浮いた。


「俺、まだ、何もなまえに   !」


どんどん遠くなっていく声がラビのものだとわかった。聞き間違えるはずがない、愛しいひとの声。ラビの声。もしもこれがわたしの最期ならば、最後の最期にラビの声を聞けて良かった。ほんとうに良かった。





次に目を覚ました時には真っ白な天井、新しいシーツ、薬品が鼻をつくにおい、機械の無機質な音が耳に届く。ここが医務室だと気付いて身体を起こそうと腕を動かしただけで身体中に激痛が走った。


「なまえ、大丈夫?」
「アレンくん…」


わたしはAKUMAの強烈な一撃を喰らい、気を失っていたらしい。ラビの声が聞こえていたのに、そこに彼の姿はなかった。リナリーやユウ、いろんなメンバーが勢ぞろいしている。(リナリーは泣きそうな顔をしているし、ユウはぷいっとそっぽを向いてしまった)アレンくんは申し訳なさげに首を垂れ、わたしに謝罪をするがここで生きていく為の力がなかったことをわたしは呪うべきだった。生きるも死ぬも実力なのだ。ここはそういう場所だ。「みんな席外してくれる?」とコムイ室長が突然皆を部屋から退室させる。あまりのことに頭にハテナマークを浮かべるわたしにコムイ室長はどこかもの悲しげに笑う。


「なまえ、君が無事でほんとうによかった。ただ、君は傷が完治したら異動になるからね」
「え、コムイ室長?!ど、どういうこと…っ!わたしが弱いから?ラビを怒らせてしまったから?わたしには、わたしにはここしかないのに!」
「ラビにね、そう頼まれたんだよ。新しい君の生きる場所は、別の支部。潜入捜査を続け、そのままそこで生きる」


痛む身体に力を入れたおかげでズキンと身体中が悲鳴をあげた。けれどそれ以上に痛みで心が叫んだ。


「…ラビがね、そう言ったんだ」
「でも!」
「君をこれ以上傷つけたくないんだって」
「わたしは黒の教団で生きていく為の覚悟は出来てる!そんなもの遠い昔からわかっていたことだもの!わたし、死ぬのなんかっ」


死ぬのなんか。死ぬのなんか“こわくない”?わたしは死ぬのなんか本当にこわくないのか。言葉に詰まる。死ぬのは、怖い。でもラビが死ぬのは、もっと怖い。答えをの意味が、今なら素直によくわかる。


「死なせたくないし、傷ひとつ付けさせたくないんだと。君のこと、大切に思ってるから」
「…」
「君から、沢山貰ったんだって」


噛み締めた唇がふるふると震える。じんわりとコムイ室長の黒髪が水面を揺らいで零れ落ちそうだった。


「なまえがね、ラビの存在を助けて肯定してくれたんだよ。君が体温を分けたから、君がいつかのラビの手のひらを握って助けたから、いつ死んでも構わないと思うラビを助けたんだ」


俺な、なまえの存在しない世界なんて考えられないんさ。ラビがそう言ってくれていた。そう、間違いなくラビは言ったらしい。


「君に貰ったんだって。なまえから、ラビが知らかったくらいの大きな愛を」


コムイ室長のやさしい手のひらがぽんと頭に置かれるのと、ほとんど同時くらいだった。抑えていたものが一気に押し寄せて、わたしは子どものようにわんわん泣いた。わたしはラビに何もあげていない。わたしは貰ってばかりで、何一つラビに伝えられないでいたのに。それでもラビが初めての感情を持ったんだとラビは言う。やさしくやさしく、壊れ物を扱うような手のひらで泣きじゃくるわたしの頭をリナリーを撫でるのと同じくらい優しくコムイ室長は撫で続けてくれたのだった。





イノセンスのおかげで傷はわりと早く完治することが出来た。傷を負う前と何ら変わりもない。わたしの向かう先はただひとつだった。


「ラビっ!」
「なまえ…!?さよなら言いにきたんか」


久方ぶりにラビの部屋に訪れたわたしの姿を見たラビは驚いたように目をまあるくさせてから背を向けた。そんなラビの背中だって、今のわたしには愛せる。その背中に追いついてみせるといつかのわたしは自分に誓ったのだ。


「わたし、ラビとさよならしたくない。わたし、貴方に伝えてないことが沢山あるんだ。さよならよりも、もっと伝えなければならないことが」


ラビが額に手のひらを当てて首を横に、少し振る。そして、ゆっくり、ゆっくりと振り返る。その目尻はやわらかいエメラルドをたずさえて微かに微笑みを讃えているようにわたしには見えた。


「別の支部とか、あの指輪の男とかと生きる方が幸せかもな?」
「ラビ!!」
「ごめん、嘘。俺だって同じ過ちは繰り返さないさ」


ラビが大きく両腕を広げて、にこりと笑った。その顔には迷いの表情などは無く、晴れた空のように澄んでいるように思える。わたしはもう飾らなくとも偽らなくとも良かった。そのままラビの腕の中に飛び込みユー様の背中に腕を回した。微かに香るあまさは、着飾ることも気取ることも無く、わたしの胸に浸透してゆく。


「ただの人間を抱きしめて、幸せと感じる日が来るとは思わなかったさ。…俺、今、すっげえ幸せだ」
「わたしも幸せ」


ラビ、もうこの手を離さないで。ラビの胸の中で呟いたら、手だけじゃなくて、全部離さなねえかんなと悪戯っ子のようにラビが笑った。


「ラビ…、ただいま」


わたしの場所は確かに此処にある。さよならをする為の言葉も逃げ出す為の足も拒絶する為の腕も、もうわたしには存在しなかった。すり抜けたラビの透明な鱗はいつの間にかわたしを包み込む花弁となっていた。包み込む指先にも、貴方の可愛い笑い声にも、悪戯っ子な言葉にも、愛は宿る。幸せはいつだってここにあるのだ。


「おかえり、なまえ」


(朝の白いシーツのような青に、きみは世界のすべてを見たような瞳で微笑む 170319)

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