「俺、メールとか面倒くせえからお前から送ってこない限り、待ってても来ねえから」


何馬鹿なこと考えてんだ?とでも言いたげな顔で、彼は当然の様に言った。それは突き刺すような夏の太陽が少し大人しく控え目になってきた、或る秋の出来事だった。さわさわと静かに揺れながら音を鳴らす木々たち。そんな癒やしの空間の中、小さな何かがぶちり、と切れる音がわたしの頭の中で響き渡った。わたしと彼、キッドはいわゆる彼氏彼女の関係だ。いや、今は「だった」の方が正しい。いつもならキッドを好きだという気持ちが優先されて、さらりと流していた上からものを言う彼の言葉。それがどうしても今日だけは許せなかった。いや今日だけではない。わたしはいつだって許していたわけではなく我慢していたのだ。先週だっただろうか。昼休みに聞かされた友達と彼氏のメールの惚気が羨ましくてただ単にキッドからのメールが欲しかった。それだけかと言われればそれだけなのだが、恋人でなくとも好きなひとからのメールが欲しいのは当たり前だと思う。そもそもキッドは恋人の意味を履き違えているのではないだろうかと常々思うことがあった。付き合って数ヶ月も経つのに、わたしの携帯には未だにキッドからのメールが来たことがない。いつもわたしが送ってばっかり。返信もまちまちしか返ってこないことの方が多かった。だから、キッドから一通でもメールが来るなら毎日していたメールを我慢しても良かった。なのにキッドときたら、我慢して、我慢して、我慢して。充電切れの為に限界になりつつあった3日目の今日言い放った言葉が冒頭の言葉だった。とうとう頭にきたわたしは、当然のように言い切った顔面に手に持っていた鞄を思いっ切り振り回した。狙った通り、わたしの鞄は彼のあごに斜め下からクリーンヒット。殴る瞬間がまるでスローモーション。目の前でふらふらと膝に手を当てた彼が視界に入り、わたしは生まれて初めて初めてキッドを見下ろした。


「てめ、いきなり何しやがる!」
「痛かった?」
「っざけんな!」


殴りかかりそうな勢いで立ち上がり詰め寄るキッドはすごく短気で我が儘だと思う。キッドからすれば理不尽なことで突然殴られたわけで今回は仕方ないとはいえ、この“キッド”という人間は普段から大したことないことで簡単にいつもイライラしていた。そうだ、ずっと言おうと思ってたんだ。イライラしたひとの傍にいることがどれだけ息苦しくて気を遣うのか、当のキッドにはわかるだろうか。それからこないだはわたしの目の前であったのに声も掛けてくれなかった。途中でわたしに気付いたくせに、見てはくれなかった。或る時は、女のひとの腰に手をまわしていた。折角緊張して電話しても「面倒くせえ」の一言で終わり。おやすみの言葉もなし。一緒に帰ってもわたしを置いてどんどん歩く。帰る約束だっていつもわたしから。思い出せばいくらでも出てくる不満は今日のことをきっかけに制御不能になり止まらなくなってしまった。そして最終的に辿り着いた疑問は、なんでわたし、こんなやつと付き合ってるんだろう?ということだった。目の前の彼にやけに他人事のように冷めた視線を向ける。なんでだろう。きっかけはどうあれ、たったこれだけのことで自信って根こそぎなくなってしまうものなのだろうか。それとも初めからわたしは彼の気持ちに不満があったのだろうか。勘の良いキッドはいつもと違うわたしを不審に思ったのか、立ち上がり腰に手を回して小さくわたしの名前を呼んだ。やわらかさを孕む甘ったるい砂糖菓子みたいな声がわたしの名前をゆっくり紡ぎ出すことにすら苛立ちを感じ、その声に重ねるように声を出す。


「送らなかったらメールしないんでしょ、ちょうどよかった。もう二度としないから」


背中を向けて視線だけでキッドを睨むと、そのまま背を向けて歩き出した。秋の風がびゅう、とわたしとキッドの空いた隙間を通り抜けた。冷たい風はわたしとキッドの心そのもの。とうとう言ってしまった。恋愛は形がないもので些細なことで辛くなり、気持ちが揺らぎ、相手が見えなくなる。そんな状態で付き合っているならきっと誰もが一度は考えることだ。別れてしまおうかと。だけど、ただ好きだという思いがその考えを現実に引き戻し、行動に移すことが出来ないでいるのが事実なのだった。だけども、わたしは言ってしまった。別れとも等しい取り返しのつかない言葉を。無心のままひたすら歩き馬鹿みたいにばくばく鳴る心臓に後悔しているなんて思いたくもない。あんな男にしてやるものか。それなのにわたしの足は前に進むことを止めて動かなくなる。キッドのいる場所から離れることを拒んでしまう。もう遅いのに、それどころか始まってすらいなかったというのに。わたしは負けたのだ。あの男を想う余りの自分の気持ちに。





「最近彼氏がうざいのよねえ」


春。桜は次々と舞い散り綺麗な買ったばっかりであろう服を纏った一年生がきゃっきゃ騒ぎながら廊下で笑う。そんな光景を横目にして春だなあ、なんてわくわくなるわたしに突然ナミちゃんが言った。あまりの春の雰囲気とかけ離れた言葉にごくり、と食堂のおかずを噛まずに飲み込んでしまい、わたしは慌ててお茶を口に含む。呆れた顔でわたしを見つめたナミちゃんは、ふう、と色っぽいため息をつくと、わたしの近くに肘をついた。どこか元気のないナミちゃんはぼんやりとしたまま視線を宙に向ける。その一点が定まらないナミちゃんの視線にわたしは苦笑いを零す。この手の話になると決まって思い出す。わたしは去年のあの日から、キッドに告げた通り一度もメールを送らなかった。期待を打ち砕くように当然の如くとキッドからメールが来ることもなかった。一方通行だった恋は、自然消滅という最悪な形を迎えてしまったのだった。そうして月日が流れ、わたしは恋をすることも、誰かを思うこともなくただ毎日を過ごしていた。わたしはぼんやりとしたナミちゃんに声をかける。


「彼氏って、サンジくん?」
「ん、そうなの」


見て、と溜め息まじりに目の前に差し出された携帯を見ると、連続ハートマーク付きの愛の言葉が綴られていた。わたしは思わず目を丸くする。ナミちゃんには失礼だが思わず吹き出しそうになった。サンジくん、って、あのサンジくん?もうちょっと、もうちょっとだけ、クールなひとなのかと思ってた。ハートマーク連続に好きだだのデートは何時からにするだの書かれたメール。機械的なメールの文章なのに、サンジくんの気持ちが伝わってくる。本当に、ナミちゃんが好き、なんだなあ。サンジくんの愛の言葉を見つめながら、わたしはナミちゃんのうざいという言葉が気になっていた。もしかしてあの頃、キッドもわたしのことうざいって思ってたんじゃないだろうか。今更過去のことで傷付くなんて馬鹿らしいと思う。そうだ、きっとわたしは未だに未練たらたらなのだ。


「…またメール」
「サンジくんじゃないかなあ」
「そうなのよねえ、サンジくんはさ、返信しないとすぐにメール送ってくるのよー」


たった今来たサンジくんのメールには、きっと愛の言葉が綴られているに違いない。携帯を見つめてうざいと思えず、羨ましいと思うわたしは、やっぱりキッドにとっても“うざい”存在だったのだろうか。読むだけ読んでそのまま携帯を伏せて返事を書かないナミちゃんがどうしてもあの頃のキッドと重なって無性に泣きたかった。


「本当、馬鹿なんだから」


ナミちゃんの言葉にわたしは携帯から目を離す。うざい、なんてサンジくんの文句を言いながら嬉しそうに微笑んでいるナミちゃんが目に入った。どきり、胸が鳴る。わたしはこの笑顔に見覚えがあった。いつ見たんだろう、ちらちらと記憶に見え隠れして思い出せない。見つけられない。


「んー…なまえだから言うけど、可愛くてうざいのよね。突き放しても追いかけてくるのを見てしまうとね、…可愛いと思っちゃう」
「え、そう、なの?」
「ま…わたしは変な所でプライド高いから好きよーなんて言われてから追いかけるだなんて無理無理!…恥ずかしいもの!」


サンジくんには内緒よ、とウィンクするナミちゃん。あれ、わたし、どうしよう。ちらちらと見え隠れする優しい笑顔が不意に重なった。


「そういえばなまえ、あんたキッド先輩と付き合ってたわよね」


そうだ、あの時だ。わたしが初めてキッドに告白したとき。少しずつ彼のことを知るたびに惹かれていって、積もり積もった思いがコップから溢れたあの日。付き合えるなんて思ってもなかったわたしに「良いにきまってんだろ、お前は今日から俺のもんだ」と告げ、くしゃりと頭を撫でたキッド。嬉しくて泣きながら笑うわたしに見せた、キッドの優しいあの笑顔。


「そういえばキッド先輩はああいう風ななりだけど、影じゃすごく一途で有名だったらしいわね。大変だったんじゃない?」


意外よねーと笑うナミちゃんの笑い声が遠のく。すうっと何かが溶け込むような感覚。傷付くことが怖くて逃げていたのはわたし。いつだって、いつだって、キッドは。ぴしぴしに張っていたバリアを解いてゆっくりと辺りを見回すと、真っ先に同じ食堂にいたキッドと目が合った。どくん。何ヶ月ぶりだろう。キッドを見るの。目が合ったことに驚いたのかキッドは挙動不審に視線をずらした。キッドと別れたあの日から、わたしはキッドを視界にすら入れないようにバリアを張って気を張っていた。見たくなかった。自分から離れていくキッドなんて。だけど今、緩めた心の隙間に感じるのは、キッドの真っ直ぐな熱い視線だった。どうして今まで忘れてたのかな。ねえ、わたし今すっごくすっごくキッドを好きになるところからやり直したいなあ。ぎゅうぎゅうにしぼんだままだった心は、なくなっていたと思っていた気持ちで溢れていた。わたしはあの頃、どうしようもなく子どもだった。今ではあの頃の彼の言葉も行動も不思議と可愛いと思える。わたしはキッドと付き合っていた時のことを全部ナミちゃんに打ち明けた。何で黙ってたのよ、ばか!と怒られて、好きなのに逃げても変わらない、と教えられた。正直なところ、キッドの気持ちなんて全然わからない。わたしはキッドじゃないしナミちゃんだってキッドじゃない。だけどあの時、わたしの精一杯の告白をなびいた髪の間から優しい目で受け入れてくれた時は、ほんの少しでもわたしを好きでいてくれたと思う。面倒だ面倒だと言いながらも、ちゃんといつも電話に出てくれていたキッドはわたしの気持ちを受け止めていてくれたよね。もう遅いかな。遅くたっていいや。一度真っ白になったわたしの心に今でも消えずにあるのは、純粋なキッドへのすきだけだった。





とん、と一歩屋上への踊場に控え目に足を踏み入れると、「あー、キラーかー」と懐かしい声がした。キッドと仲の良いのキラー先輩に場所を聞き出してわたしは放課後の彼らの集まる場所にやってきた。わたしをキラー先輩と勘違いしているのか、ドアを開けたわたしに目もくれず漫画を読むキッドはお前補習じゃねえの、つまんねえな、とかどうたらこうたらと不満じみた言葉を零す。そのすべてが懐かしくて、あんなに憎ったらしかったキッドが愛おしくてたまらない。


「おい、聞いてんの…っ」


振り返ったキッドが肩を強ばらせた。わたしを見つめたまま固まってしまったキッドにわたしは今度こそゆっくり近づくと彼の判りづらいサインを見逃さないように見つめる。


「何してんだよ、お前。放課後のこの場所は俺たちの場所だ」
「ごめん、でも、話があって」
「んだよ、今度こそきちんとした別れ話ー、ってか?」
「ちがうの」
「今更どうだって良い。帰れよ、うぜえから」


馬鹿にしたように鼻で笑うキッドの言葉に、不思議と傷付かないわたしがいた。あの頃のわたしが聞いてたら、ずたずたに傷付いてたのかな。わたしはほんの少し月日が経ってほんの少し成長したようだ。


「キッドは、なんでメールしないの」
「…は?」
「メール、嫌いなの?」


意味が分からないと言いたげな顔をしていたキッドだが、別れた時のことを思い出したのか少しだけバツの悪そうな顔をした。あんなに痛かった沈黙が気にならない。答えを待てなかった時間に余裕が持てる。なかなか口を開こうとしないキッド、強情なことは知っている。キッドはキッドなりにどれだけの言葉を飲み込んできたんだろう。その中にはきっと、意地で言えない言葉も恥ずかしさで言えない言葉もあったんだろう。


「わたしね、メール待ってたの」
「知らねェよ」
「キッドからのメールが欲しかったの」
「だからよ、俺はしねえって言ったよな?」
「それでもずっと待ってたのっ」


ああ駄目。ぽろぽろと言葉だけでは足りずに涙になって零れ落ちる。メールなんかじゃなかった。わたしが待ってたもの、ずっとずっと欲しかったもの。わたしはただ、キッドの気持ちが欲しかった。ただ、愛されてるって感じたかった。我が儘だ。キッドの愛が欲しかった。言葉で伝えようともしないで、キッドの思いを知ろうともしないで、ずるい女だ。すんすんと鼻を啜ると、不意に目の前に大きくてごつごつとしたキッドの手が伸びてきた。大きな手はゆるゆる揺れる視界を通り越してわたしの頭に乗っかった。じわりと温もりが体に伝染する。ゆっくりゆっくり近づくキッドの顔、伝染する唇の熱。そして沈められるキッドの胸元。優しい匂いがくすぐる。すぐ傍で聞こえるキッドの息と耳元で囁く心臓の音がびっくりするくらい早くて、切なかった。背中に回されたキッドの手が体と心を締め付ける。キッドのやわらかい髪が首もとをくすぐるのが心地良い。ここには、確かに愛がある。


「…なまえ、お前、遅ェんだよ」
「う、ん」
「どんだけ待たせたらいいんだ?……待ってたんだぜ」
「っ、うん…!」
「もう本気で、追いかけて来てくれねえかと、思った…!」


珍しく弱音を吐くキッドがどうしようもなく愛おしい。揺れる赤。わたしはまた恋に落ちる。




170331


ALICE+