Act,1




うーん、まずいなあ、非常にまずい。嫌な汗が絶望を知らせるように、背に一筋伝ったのに、名前の心は他人事のように集中出来なかった。敵出現の連絡を受けたとき、こんなに数がいるなんて聞いてなかった。勿論、敵がそんなこと丁寧に教えてくれるはずなんてないが。先程、敵の攻撃を掠めた左頬に汗が染みて、ツンと痛んで名前は顔を歪める。


「(こんなことなら冷蔵庫のプリン、食べてこればよかったなあ…)」


敵に囲まれているのに、ビルの隙間から見える空は能天気にも酷く青いし、考えることといったら冷蔵庫にある限定プリンのことだなんて、自分でも呆れてしまう。応援要請をかけたのに、運悪く誰ひとりとして来ない。もうダメなんだろうか。せっかく、ヒーローとして軌道に乗ってきたのに。名前の思考を知ってか知らずか、気味悪く笑う敵の視線に、ぐ、と膝に力が入る。


「大人数相手にやろうってか?」
「お前はここで死ぬんだよ、ヒーローさんよォ」
「女ひとりで何ができるんだよ」


浴びせられる罵声に返してやるだけの士気も残ってはいない。個性の発動も限界が近づいてきている。もう、ほんとうに、ここまでなのかもしれない。でも、ひとりでも多く捉えないと。ヒーローとしての使命を全うしないと。名前が覚悟を決めて個性を発動しようとした時、ひんやりと澄んだ冷気が頬を撫でた。振り返るのと同じくらいに、勢いよく地を這う氷が枷のように敵の足を捉えて離さない。


「また暢気なこと考えてたろ」


呆れたように見下ろすよく見知るその顔に、緊張の糸が少し解けてへらりと口端が思わず緩む。ビルの隙間風が、寝癖など知らないかのようなつややかな前髪を揺らした。氷が太陽の光を目一杯吸って眩しい。口から吐き出される二酸化炭素が冷気で白く漂って宙に消えていくのをぼんやりと眺めていた。さっきまで死ぬか生きるかを考えていたのがまるで悪い冗談だったかのように名前を安堵させる人。名前に近づくその間にも敵を凍らせて動かせなくするところ、さすが焦凍だ、と他人事のように感じていた。チリチリと凍っていく音が、ほんの少しだけ心地よかったと思う名前の心は完全に気が緩んでしまったようである。まさか、彼が来てくれるなんて。乾いた笑いが溢れたら、地面に着いているはずの足の裏が無重力のようにふわりと感覚を失いそうになった。一瞬、くらりと傾く身体をしっかりと支える腕。


「怪我ねえか」
「うん、……ありがとう」
「さっさと片付けるぞ」


名前から見た轟は学生の頃から十二分にプロヒーローのようだった。色んな意味で個性豊かなクラスの中で、彼と名前は仲良くやってきた方だと思う。口数こそ多くはなかったが、轟の隣は名前にとって、とても心地がよいものだった。


「約束、守ってもらうぞ」


突然の言葉に点と点が上手く繋がらない。名前は轟に向かって、疑問を示すように首を少し傾げてみせた。「やっぱりな」そう言う轟が呆れたようにこちらに近づいて、名前の唇から溢れる問いかけをそのまま塞いだ。息継ぎもできない。頬が燃えるように熱い。轟の左側にやられてしまったんだろうかと名前が目をまあるく見開いた。うまく働かない頭がようやく動き出す。




「相変わらずだな」
「ほんと、みんな変わってないよねえ」


雄英時代のクラスメイトが皆で集まることができるのは、年に片手で数えるくらいだ。それは、確か数ヶ月前に皆で久しぶりに会えた飲み会でのことだった、と思い出す。男子たちはどんちゃん騒ぎ、女子たちは恋愛話に花が咲く。ヒーローである以前に、皆が年相応の人間であると感じられると変に安心したり嬉しくなったりしていた。どちらにも属さず、みんなから一歩離れたところに轟と名前、ふたり。不思議とゆっくりと時間が穏やかに流れている。居酒屋のぼんやりとした光が焦凍の睫毛を艶っぽく灯す。


「名前は、彼氏とかいないのか」
「えー?いないよー」


突然だった。突然の質問を名前はからからと笑い飛ばす。聞いたのは轟の方なのに、そうか、と興味なさそうに視線を外す。焦凍はいつも落ち着いているようで、割と突拍子もないところがある。轟のそういうところに何度驚かされたか。轟は名前に対し、それ以上もそれ以下も問うことはなかった。二次会をふたりでパスして、(上鳴や瀬呂に茶化されたけれど無視した)ふらつく足でアスファルトに映ったネオンの光を踏んで下手くそなダンスを踊るように愉快に歩く。少し飲み過ぎた身体は火照って馬鹿みたいになっていた。そんなわたしの後ろを歩く轟の足取りが止まったような気がして振り返るのと同時に名前を見つめる真っ直ぐな視線。轟によく似合う気品のある宝石のような瞳が星空とネオンをいっぱいに吸い込んで、とても美しい。


「さっきのだけど」
「さっきの?」
「ああ。彼氏はいないのかってやつ」
「傷抉んないでよー、もう、ずっといないんだから!」
「悪ィ」
「それで、さっきのがどうしたの?」
「…次に会った時、彼氏がいなかったら俺と結婚してくれないか」


景色が加速して、膨らませた吐息がぱちんと弾けて桃色に散って現実になる。そうだ、そうだった。冗談でしょうと笑ったけど、轟がそんな冗談言うなんて名前が知る限り、ひとつとしてなかったのである。真面目な顔してとんでもないことを言い出す。敵に向かって行くその背がなんとも言えないほどに逞しくて、いつからこんなにも愛おしいものだったのだろう。それにしても、こんな大勢の、しかも敵の前でのプロポーズなんてなんて色気のないこと、とこの場にそぐわない腑抜けた笑いがひとつ花を咲かせた。今は戦いに集中しないといけないのに、名前の頭の中はどうやってイエスの返事を返そうか、なんてことでいっぱいになっていた。



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