
ビルや店舗が敷き詰められたように建ち並ぶ道を不審に思われない程度に見回しながら駅から歩いて約10分。なまえは相澤から告げられた住所のメモと目の前に現れたビルとを何度も見比べて深呼吸をする。相澤からの提案があったのはなまえの思いを告げてから1週間経たないくらいのことだった。仕事内容は、そこそこ有名であるというヒーロー事務所の食堂での業務。なまえと暮らして早1ヶ月、彼女にはうってつけの仕事である、と相澤は思っていた。相澤の親戚という設定で通すが、当然上層部の一部はなまえが未来人であるということは知っている。あってはならないが、仮に敵になまえの存在理由がバレてしまった時に彼女をより守りやすい場所でもある。なまえはというと一瞬WヒーローWという単語にあの深い紅色を思い出したものの少し憧れていた食堂の仕事ということもあって心を躍らせた。ぶわりとなまえの背後から少しだけ湿った青葉のにおいを乗せた初夏の風が背中を押した。面接とはいえほとんど採用が決まったようなものだが、それでもやはり緊張するものである。大丈夫、大丈夫、大丈夫。なまえは喉元で鳴るような心臓の音をごくりと飲み込んで自動扉を潜り抜けた。
なまえの緊張をよそに思っていたよりあっさりと面接は終わる。「相澤くんから事情は聞いているよ」という言葉から始まった面接は終始穏やかに進んだ。特に問い詰められることもなく、興味本位から未来のことを言われるでもなかったことになまえはほっと胸を撫で下ろす。寧ろわたしの住んでいた時代と何も変わらないものだ。なまえたちが社会人になった時に指すであろうW一般企業Wというものとほとんど変わらないことに呆気にとられる程だった。事務所のトップを務めるヒーローに職場を案内してもらう。事務所、トレーニングルーム、そして食堂。食堂の扉を開けると美味しいにおいにふわりと包み込まれる。たくさん並ぶテーブルが、たくさんのヒーロー達を抱える事務所であることを物語る。昼前ということもありひとはほとんど見かけない。食堂の管理を務めているヒーローに挨拶も済ませ、明後日から来週からここが新しい世界のひとつになるのだとなまえは少しばかりの緊張と波のように押し寄せる喜びに握りしめた手のひらに知らぬ間に力が入るのであった。
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その日の晩、なまえはこの嬉しさを誰に伝えようかとソワソワした。将来はどういう形であれ食に関わる仕事がしたいと思っていた。ひとつの社会経験を重ねるという意味では寧ろ有意義なくらいではないか。それに、この時代のヒーローという職業はある意味自分のいた時代よりも安全かもしれないのだ。なまえはまだ帰らぬ相澤を待ちながら、ひんやりとしたテーブルに頬をつけるように突っ伏した。
「ヒーローかあ」
誰に言うわけでもなく発された言葉はぼんやりと曖昧な線のまま空中に消えた。今日面接に行ったヒーロー事務所の中には、なまえの知っている一般企業や学校のように食堂があり、その中で働いているのは、WヒーローWだと言うからなまえは尚更驚いた。この世界で生きる超人達に与えられた別の名をヒーローというのだろうか、と思うくらいにヒーローという存在は案外身近なものだとなまえは思う。実際ヒーロー事務所なんて、フィクションの中だけの尊く雲の上のようなものだと思っていた。が、プロのヒーロー事務所は当たり前のように乱立し、ヒーローを育成するという学校まであるのだ。それくらいヒーローとは身近なものであり、皆がこぞって憧れ、視線を奪うほどに眩しいものでもあるらしい。ぐるぐると頭の中を駆け巡る難しいこととそれを蓋するように迫る現実で起こっている出来事。ここ最近、人生で一番頭をフル活用したかもしれない。生きることがこんなにも難しいことだと思ってもみなかった。社会の教科書に書かれていた嘘みたいな本当に存在したヒーロー社会に、自分もいよいよ組み込まれようとしている。もう傍観だけではない。それが絶望となるのか、一筋の希望となるのか、なまえには見当もつかなかった。