「なまえちゃん、日替わり定食ね!」
「はい!」
「後でこっちの小皿のセットもお願い!」
「分かりました!」


なまえは至極充実していた。忙しいのも悪くはない。ほんの少し、大人ってこういう感じなのだろうかと背伸びした気分になる。そう思いながらトレーに盛り付けた金平蓮根を並べていった。なまえの働くことになったヒーロー事務所がそこそこ有名であることは相澤から聞いていたが、ニュースに取り上げられているようなひとを何人も見かけたという事実を目の当たりにして尚更それを実感する。なまえのいる時代で言えば、芸能人の出入りするテレビ局の食堂のようなものか。カウンター越しに見える大人たちは、まるで映画の中でのような衣装に身を包み、嘘のような本当の社会で敵と戦い、市民の安全を守っている。一時的だとは信じたいが、そんな世界の一部として組み込まれてつつある自分の存在。強いて言えば自分は映画の中のエキストラみたいなものだろうか。皿洗いを始めたなまえの手のひらの中でかちゃかちゃとお皿がぶつかり体を寄せ合い軽快な音を立てた。ふと手を止めてカウンター越しに食堂を賑わせるヒーローたちに目をやる。個性のある色鮮やかな衣装に、相澤に緑谷、麗日や切島を思い浮かべた。そして、あの爆豪という男のことも。そういえば、久しく思い浮かべることもなかったような気がする。陽炎の中で弱く揺れたあの瞳の奥の意味は理解し得ないまま、蜃気楼の輪郭のようにぼやぼやとなまえの記憶から薄れていったのであった。


「なまえちゃん、遅くなったけどお昼食べてね」
「ありがとうございます、いただきます」


時計の短針がいつの間にか2を指そうとしている。ヒーローたちもほとんど居なくなった食堂の端のテーブルを選んで手を合わせる。今日のまかないは、親子丼と茄子の揚げ浸しだ。大きな窓から澄み渡りる爽やかな青空がなまえの視界一面を奪う。この世界で今を生きている人間ではないたったひとりの自分とこの時代を生きている数多多くの人々。改めて襲う喪失感のような虚無感のような淡墨みたいに消えてしまいそうな感情。個性事故とやらについてが解決しないと帰ることが出来ないことはもう何度も何度も自分に言い聞かせて、仕方ないのだと納得してきたつもりだった。なまえはまだたった17、18の女の子なのだ。それらを背負うにはあまりに小さく、か弱い。いや、大人だってそれを割り切る人間など少ないだろう。茄子の揚げ浸しをぱくりと口に運んだら、母の手料理を思い出してしまう。今頃、お父さんやお母さんはどうしているのだろう。友達は?学校は?わたしがいないことをみんな気づいた?別に居た時代に不満があったわけではない。消えてなくなりたい理由もない。寧ろこれからというところだったのに。受験勉強に奮闘し、時に笑い、時に泣き、進学したらもしかして、恋人なんか出来たりもして。その先の幸せをどう描くかは分からないが、今のなまえには想像もできないことだった。


「(……でも、)」


この世界から帰ると言うこと。それは、ここでお世話になったひとたちにはもう、二度と会えないということ。きっと個性W事故Wというくらいなのだから、あちらからこの時代にきた時のように、いつか呆気なくお別れをする日が来るのだろう。自分に向けられた優しさを「はいさようなら」と簡単に切り捨てることも出来ないほどにこの世界に存在した時間がなまえのうなじあたりを引っ張る。まあ、帰ることができるのかも、わからないのだけれど。


「!!」


焦点も合わせず、ぼんやりと親子丼を頬張るだけのなまえの右斜め前のテーブルに突如トレーを叩きつけるようにして置いた音にハッと現実に引きずり戻される。驚いたのは、それだけではない。とくんとくんと心臓の響きが徐々に大きくなって、身体の末端までも鼓動が伝わるほどに大きくなる。あの程よく色付いて揺れる麦畑のような髪。背中の方しか見えなくてもわかる。間違いない、あのひとだ、あの、男だ。どうして?いや、彼もヒーローなのだから、ここにいたっておかしいことはない。この事務所の所属しているなんて知らなかった。怖い、怖いけれど、あの瞳は今何を映しているの?まだ、ハルというひとをわたしに重ねている?なまえの頭をぐるぐるとまわる色々なこと。自分のことだって上手くなだめられることなど出来てはいないのに、こちらをこれっぽっちも肯定してくれないこの男の気持ちなど理解できるものか。幸いにもお皿はほとんど空っぽになっている。さっさと食べて、カウンターの内側に引っ込んでしまおう。なまえがスプーンを持った時であった。


「おい」


こちらを向くことはない。それでも、その言葉がなまえに向けられているものだと言うことは分かった。返事は出来ない。どう返事をしたらいいのか、どんな顔をしたらいいのか、どんな気持ちになればいいのか、分からない。真っ白なテーブルに窓ガラスを反射したプリズムが散らばって揺れる。


「俺は、認めねェ」


ああ、やっぱり。落胆と慨嘆。最後に見た目の奥の弱い震えも、見送った日感じた少し小さくなった背中も、数ヶ月の間、何ひとつこのひとの心は変わっていなかったというの。わたしを否定することが、いや、WハルWであると言うことがそんなに大切だというの。わたしを誰かの偽物だと言ったあの日からずっと、ずっと。偽物だと分かっていながらそれを飲み込んで、その役割を押し付けられ続けるのなんてまっぴらごめんだ。わきあがる嫌悪感に掻き毟るように腕を抱く。もう、離れよう。答えることもせず、応えられるわけもなく、唇の奥をぐっと噛み締めたら涙が出そうだった。それ以降、爆発したような感情を推してくることもなかったのが幸いだったが、ずっとそっぽを向いていたから結局のところ、どういう表情をしていたのかは分からない。分かりたくもない。なまえの中で、ぼんやりと気になっていた瞳の奥の揺れのことなんてもうどうだってよくなってしまっていた。それからなまえは爆豪が昼食を終えるまで厨房の奥の奥に引っ込んでカウンターの外側に一切目を向けることはなかった。けれど、けれど。


「あのひとの腕、傷だらけだった、」


色白の筋肉質の腕が、擦り傷や青痣を多く作っていたことだけが頭に残る。暫くの間、沢山のヒーローたちと触れ合う機会があったが、どのひとよりもあの腕は傷だらけだった。多くを守ってきたあの傷のひとつひとつは、たぶん誰かを助け続けてきた故に出来たものだとしたら、あのひとは、多くを守ってきたひとなのだ。あんな風貌でも、なまえには理解し得ないことを押し付けてきたとしても、あのひとは誰かのヒーローなのだ。わたしを傷つけるあの男は、誰かにとって英雄。なんとも居心地の悪いおかしな感情がぎゅうぎゅうに胸を詰まらせて苦しくした。吐き出した溜め息や心のやりどころは誰に届くこともなく、着地点もない。とりあえず、帰ったら消太さんに抗議だなあ。

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