
緑谷はどこから切り出そうか迷っていた。いつか聞かれるだろうと思っていた。いつか話さなければとも思っていた。緑谷にとってWハルWを語るのは容易いことだった。けれどもなまえの立場になってみればどうだろうか。赤の他人に仕立て上げられたうえに、一瞬であってもそれを取り巻く人間になまえという存在すら肯定してもらえなかったのだ。『君の個性じゃないか!!』こんがらがった頭のすみっこで、いつか轟に投げかけた言葉を緑谷は思い出していた。轟がエンデヴァーではないように、なまえもハルではない。しかし自分はどうだ。なまえ=ハルと否定もしない代りに、爆豪の気に気圧されてそうではないということも言わなかった。一瞬でもなまえはなまえだということに目を逸らしたのだ。押し付けて重ねられた他人のことなどどうして知りたいなんて思えるだろうか。爆豪のことも頭をちらついて尚更気が引けた。込み上げる後ろめたさとか申し訳なさとかが冷や汗となって額を伝うのを見たなまえは緑谷を困らせたことに気づく。
「あの、緑谷さん、わたし何かまずいこと、」
「いや!そ、そうじゃなくて!なんで、なまえちゃんが、その、ハルちゃんのことを」
「知りたいのか、ってことですか」
「……うん」
「WここWに向き合う覚悟ができたっていうのは、理由になりますか?」
まだ100パーセント、覚悟があるわけじゃないんですけど。そう付け足してなまえが困ったように眉を下げて笑う。ああ、ハルちゃんを思い出す。
「ハルちゃんは、僕たちの幼馴染みだったんだ」
気付いたら、緑谷の口からぽつりと雨粒が一粒落ちるように溢れていた言葉。初めて聞いたハルの話に、なまえは何も言わない。その表情は、緑谷の瞳の奥を見透かすようにも微笑んでいるようにも見えてまるで聖母のように尊く慈しみ深い。なまえはハルではない。けれど彼女たちは確かにどこか似通ったところがあるのだ。
「ハルちゃんは同じ団地の女の子だったんだ。中学まで、ずっと一緒だった。高校は別のところだけど僕たちと同じヒーロー科のある高校に進学したんだ。かっちゃんにとっても僕にとっても、彼女は大切な友達だった」
「……」
「彼女が笑うだけであったかい気持ちになって、誰かの為に直向きに笑顔をたやさない子だった。かっちゃんとも対等に張り合うし、昔無個性だった僕にも平等に接してくれた。名前の通り、春みたいな女の子だったよ」
窓の外に視線を外す緑谷の目は少し細まり、懐かしむように微笑む。からん、と氷が溶ける音が波紋を広げるように世界を揺らした。
「こんなことを言ったら、なまえちゃんは嫌がるかもしれないけれど、ハルちゃんとなまえちゃんは、よく似ているっていうのも事実なんだ。顔は瓜二つとまではいかないけれどどことなく似ていて、性格が丸ごと同じというより纏う空気感が同じというか表情のつくり方がよく似ているというか……あっ、あの、嫌だったらごめんね…!」
「いいえ、大丈夫です。それで…ハルさんは、今」
「ハルちゃんはね、もうこの世にはいないんだ」
「………あ、」
緑谷の目が少し潤んでいる、ような気がした。口元は確かに笑っているが、下がった眉がまだ喪失感を表しているように感じる。軽率だったかもしれない。けれど、そんなことって。なまえは自分の口元を手で覆う。
「暴れ回った敵が放った個性が、たまたま、本当にたまたまそこにいたハルちゃんに当たって、亡くなったんだ。高校3年生の時だった」
「そ、んな、す、すいません、わたし…」
なまえはなんとも言えない気持ちでいっぱいいっぱいになった。正直にいうと、なまえはハルという人物が爆豪の元カノとかそういう類の人物なのではないかと推測していた。だから執拗に追いかけ回してその役割を押し付けようとしているのではないか、と。こんなこと、思ってもみなかった。自分のいた世界がいかに平和だったかを思い知る。教科書の中だけに存在していた魔法のような世界は生温い御伽話のようななものではなかったのだ。少しだけ好きになれそうだったこの時代がまた恐ろしいものに姿を変えてなまえの背中を戦慄させた。やろうと思えば、そこに存在するだけでひとを殺めたり、建物を破壊したりができてしまう社会なのだ。実力行使で物事を解決することが当たり前の社会が途端にたまらなく恐ろしくなった。そして次に、今の自分と同じ年齢で生涯を終えた女の子のことを考える。そして、爆豪のことも。死んだ人が生き返らないことなんて子どもだって知っている。それでも爆豪はなまえをハルと呼んだ。皆が爆豪の行為を否定するのを躊躇ったのは、いたたまれなくなったからなのだろう。死んだ人間の代わりなんて、普通に聞いていれば気味が悪い。それなのにこの悲痛な思いが溢れて止まらないのはどうしてだろう。顔も見たことのない他人の話であるのに、どうしてこんなに胸が痛むのだろう。恐怖とか嫌悪とかは不思議とわいてはこなかったし、そんな風にはどうしても思えなかった。数ヶ月前のなまえならもしかしたら否定的にしかとらえられなかったはずだ。成り代わることもなく、役割を押し付けられられることもなく、なまえがなまえとしてこの話を聞けたこともなまえの頭を冷静にさせるには十分だった。初めて会った時以降、いや、初めからずっとそうだったのかもしれないが、爆豪の口ぶりを思い返すと、なまえ=ハルでは無いことは分かった上で言葉をぶつけていた。それは、ハルの死に未だ向き合えていない爆豪の願いだったのだ。
「緑谷さん、話を聞かせてくださってありがとうございました」
「なまえちゃん、こちらこそありがとう」
彼の両の目に薄っすらと貼った膜が透き通る。緑谷の御礼の意味。ただ懐かしく、思い出話ができたことが純粋に嬉しかった。心の奥底の底に仕舞い込んで複雑に鍵をかけていた思い出たち。大好きだった。かけがえのない幼馴染みだった。それなのに、いつの間にか禁句のようになって口に出すこともなくなって。さらに複雑化した爆豪との間に懐かしんで話すことなんてできるはずもなかった。久しぶりに言葉になった思い出は変わらず優しい。
「じゃあ、またね」
「はい!お仕事頑張ってください」
なまえを駅まで送り届けた緑谷は変わらず無垢ななまえの笑顔に釣られて笑う。なまえの背中が見えなくなるまで手を振り続け、見えなくなるなったところでようやく目尻をそっと拭った。少しだけ伸びをしたら、凝り固まった何かが動き出すような予感がしていた。