ハルのことを少し知ったことで何となく、少し、ほんの少しだけ、なまえはこの世界のことを受け入れられたような気がしていた。怖いと思っていた個性社会も時間が経てばその恐怖も緩和され、毎日過ぎる平穏な日々にまたなまえは馴染んでいく。朝の食堂はひともまばらでしんと静かだ。


「事務所の前の掃除いってきます」
「なまえちゃん助かるよ!いつもありがとう」


仕込みやら整頓やらの準備を終えて、なまえは事務所の前の掃除に取り掛かる。まだ朝の柔らかな光に自然と鼻歌が溢れる。朝の日差しはなまえのいた世界と同じように変わらず優しい。アスファルトを履く手を一旦止めてふと顔をあげる。この世界も、随分と見慣れたものだ。朝陽を目一杯に吸い込む街路樹の葉、事務所の前のプランターの花の蕾がふくふくと膨らむ姿、都会的な街並みを行き交うヒーローや一般市民。今日もちゃんと生きている。この世界に組み込まれつつあるのか、それとも仮の存在としてここに立っているのかどちらなのかは分からないままだけれど、なまえをなまえとして認めてくれているひとがいる限りなまえはここでちゃんと生きているのだ。箒の柄をぎゅっと握りしめ直したその時、なまえの耳に平穏を切り裂く悲鳴が突き刺さった。「敵だ!」「ヒーローは?!どこ?!」「逃げろ!」ぐわっと押し寄せるひとの波になまえは一歩後退りする。西の方で爆発音ともやもやと立ち上がる煙、遠くで上がる爆風がなまえの髪の毛をブワッと逆立てるように迫り来る。爆発音は、近づいてくる。SF映画さながらのシチュエーションになまえは足を竦ませた。一歩、一歩と後退りをするなまえに容赦なく迫る爆音。こんな大規模な敵の襲撃に遭遇したのははじめてのことであった。なまえは普通の女子高生である。こんな時に物語の主人公さながらに機敏に動くことなど出来ないのがなまえの世界での普通なのだ。恐怖で瞬きもできず、肩で息を吐き、狼狽るなまえを見つけた敵が、ニタリと笑っていることをなまえは知らない。爆発音が聞こえてから1分と経ってはいないが、なまえの頭のなかでは恐怖と不安に数時間以上にも換算されるほど疲弊していた。どうしよう、どうしたら。事務所の入り口まで数十歩で辿り着けるはずなのに、なまえの足は頑なに動こうとしない。


「っ、きゃあ!!!」


なまえの悲鳴は、突然巻き上がる爆風と爆発音に掻き消された。突然のことになまえは両腕で顔を覆い、体に痛みなどがないことに気付き恐る恐る閉じた瞼を持ち上げた。もくもくと立ち上がる白煙にの中に浮かび上がるように見えたたくましい背中に思わず息を飲む。白煙に浮かぶ金色の美しいこと。それはまるで、額縁の中に閉じ込めたように美しい生と死の狭間のような情景。束の間ではあるが、なまえの中の恐怖がすっぽりと抜け落ちたようであった。なまえは気付く。


「ぼさっとしてんじゃねえ!」


なまえは、今あの男に守られていることを。怒鳴りつけるように発された言葉に相槌だけうち、叱咤された体を無理矢理動かす。ようやく動き出した足で事務所のエントランスまで駆け出す。入り口には同じ場所で働く仲間たちが青ざめた顔でなまえを呼んでいる姿が見えた。


「怪我は?!」
「…ありません。あのひとが、守ってくれたから」


敵を追い掛けていったらしく、爆豪の姿はもうそこにはない。白煙と瓦礫を残した場所を改めて見たら、ぞわりと背中が粟立つ。なまえはへにゃりと崩れ落ちた。衝撃で跳ね飛んできた小石などがなまえの腕を小さく傷つけていたものの、大事に至るような怪我をすることはなかった。その後放送されたニュースで敵連合に感化された人々がテロを起こしたということ、そして敵逮捕に貢献したWヒーロー爆心地Wの活躍が大きく映し出されていた。アナウンサーの言葉にぶっきらぼうに返す爆豪の頬に傷があること、画面からフレームアウトしていく爆豪のコスチュームがぼろぼろであることになまえの胸の奥の奥がぎゅっと締め付けられた。なまえが今こうして命があるのも爆豪があの時身を挺して守ってくれたからだ。その事実が大袈裟なんてことはない。幸いにも重症の怪我人はいなかったものの、敵の攻撃で傷ついたビルたちが映し出されたテレビ画面に、あの時の光景を思い出しひとつぶるりと身震いをした。あんなのに巻き込まれていたら、しんでいたかも、しれない。あのひとは、嫌な男だ。けれど、あのひとはあの時、確かになまえのヒーローだったのだ。

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