「えっと、7階…」


メモとボタンを交互に見比べて、間違えないようにしっかりと押す。なまえの左手の保冷バッグにはぎゅうぎゅうにおかずの詰まった弁当がいくつか重ねて入っており、ずっしりと左肩が下がるほどの重量であった。今日は人が出払っているらしく、同じビル内のヒーローの事務所まで弁当を届けてほしいという依頼が入ったのだ。3、4、とエレベーターの表示が変わっていくのを眺めながら、ヒーローの事務所とはどんなものなのだろうと少しばかりの好奇心をなまえは抑える。


「失礼します」


エレベーターの扉をくぐり抜け、目的の部屋の扉を軽くノックする。返事の返ってこない部屋を控えめに覗き込めば、そこは事務所というより休憩室のようなところであった。少しずつ視線を奥にやるなまえの目に飛び込んだ人物になまえは思わず息を飲み込んだ。どうやら相手も此方を見て少しばかり驚いているのが伺える。ぱちりとぶつかる視線の先にいるその人。相変わらず人を射るように尖った視線を産み出す紅色はなまえの足を竦ませたが、やっぱりその瞳とは相容れない陽射しに透ける柔らかな薄香色は優しい色をしている。なまえの脳裏にこの間のニュースの映像が鮮明に流れてなんとも言えない感情が湧き上がったのは、爆豪の纏うヒーローコスチュームから覗く腕が傷だらけだったからなのか、当初より漸く少しばかり和らいだ恐怖からなのか。複雑に絡み合った幾つかの出来事が思考を難しくさせて未だに答えには辿り着けないでいた。


「何か用かよ」
「これ、お弁当です」
「…その辺置いとけや」
「あっ、はい…」


固まった空気を破ったのは爆豪であった。が、事務的に進めた会話ですら未だぎこちない。手近なテーブルに弁当を置くと、重さと一緒に肩の荷が降りたような開放感からすぐ爆豪に背中を向けたなまえであったが、腕や頬に残る生々しい傷跡のことが頭から離れずにいた。このひとと同じ空間に居るのは決して居心地が良いものではない。逃げ出したい。関わりたくない。それでも、職業柄当然なのだとしても爆豪がなまえを守ったのは紛れも無い事実であった。くるりと振り返ると、爆豪がなまえの方をまだ見ていたことに少し驚く。


「あの、」
「あ?」
「この間は、まもってくれてありがとう、ございました」


振り返って絞り出した御礼の言葉。初めてちゃんと、真っ直ぐ彼の方を見ることができたような、気がする。心のどこかで固結びになっていたものがほんの少し、本当に少しだけ緩んだ気もした。わだかまりを飲み干せたわけではないが、なまえの胸につかえていたものが少しだけ胃袋に収まる。少し驚いたような顔をした爆豪は不思議と怖くはなかった。脳裏に焼き付いていた腕の傷はやはり見間違いなどではなく、間違いなくその肌に痕を残している。部屋の窓から初夏の晴天が差し込んでその髪を眩しく反射させていた。なまえのいた時代と何ら変わりのない瑞々しい夏。そういえば、こないだ通りがかった花屋には、弾いた雫に薄紫や水色を映した紫陽花が並び始めていた。そんな関係のないことが脳裏を巡り始めると同時に、なまえの足は無意識にゆっくりと爆豪に近づこうとしていた。予想もしなかった行動に爆豪ですら目を丸くする。


「な、ッんだよ!」
「傷が、」
「んなもん治癒の個性持ちが治すわ、てめェが気にしなくたって、」


なまえの細く、傷ひとつない指先が傷痕にそっと伸びる。彼に対する嫌悪感を抱いていたのだとしても、以前にとても酷いことを彼に言ってしまったことに対し、物凄く大きな後悔の波が押し寄せる。教科書には載っていなかった、大袈裟に言えば生と死が隣り合わせの現実。ヒーローという職業や異質と呼べた時代を憶測だらけの議論が飛び交う現代の教科書。ヒーローを名乗る者、皆が皆迷いも無く人の前に立てるだろうか?賞賛が欲しいだけで、エゴだけで、これだけの傷を身体に刻み命を賭して人の命を迷いもなく救うことが出来ようか。ヒーローの本質を知らずしてナイフのように尖った傷つける為だけの言葉を放った自分をなまえは恥じた。出会った頃の爆豪の行動は正直に言って異常だった。死んでしまった人間が甦るなんてどんな技術を持ってなお、なまえの存在した時代でも到達できなかったことである。それでも、何の迷いもなくなまえの前に立ち盾となった爆豪は純粋になまえのヒーローだったのだ。


「ごめんなさい」
「、は?」
「でも、ありがとうございました」


少し困ったように悲しげに眉を下げたなまえの目に窓ガラスを通して反射した光と少し視線を泳がせて動揺を見せた爆豪が映る。突っぱねて腕を振り払ったってよかった。でも、出来なかった。なぜそうなったのか、爆豪自身としてもWこれWと言った明確な理由もよく分からないままでいた。ハルの面影が勝手に重なって振り払えなかったのか、それとも当たり前にハルではない少女が傷ひとつない真珠のような目であまりにも真っ直ぐ爆豪のことを射抜いたからなのか。思い出になりきっていないあの頃のままの幼馴染みが「馬鹿ね」とどこかで笑っている。


「(…なあ、ハル)」


名前を呼んでしまいたかった。喉の奥でつっかえたそれの代わりになまえの頭に自然と手が伸びる。それは、なまえに対しての行動だったのか、はたまたなまえの向こう側に見えるハルにだったのか。


「っ、」


なまえの前髪に指先が触れるか触れないかというくらいの時、ほんの少し後退り我に返ったような吐息を飲み込むような呼吸音とギュッと目をつむった眉間の皺。それらから自分の行動が彼女を怖がらせているのだと気付いたのは、傷痕をあたたかな温度でじくじくと包んでいたなまえの指先の熱が消えかけた時だった。なまえギュッと力強く閉ざした瞳に何となく悪いことをしているような気がして思わず手を引っ込めた時にはもうなまえは扉まで早歩きで遠ざかっていた。


「ごめんなさい」


ガチャリ、と無機質な音を残して扉が閉まる音が双方の耳に届く。互いが複雑でよく分からない感情の渦のど真ん中で静かにもがいていた。なまえがエレベーターに飛び込んだ時に、漸く冷えかけた頭がW自分はどうしてあんなことを?Wと問い掛ける。なまえ自身にも訳がわからなかった。恥ずかしさと気まずさで溶けてしまいそうだ。名前の付け難い感情に振り回された数分間。ヒーローとしての揺るぎない信念を抱えた爆豪と人間くさく感情に揺れ動いた爆豪の姿。まだ火照りの収まらない身体と浮き足立つような心ではあったが、前ほど爆豪をこわいと思っていない自分がいたことを不思議と感じていたのである。

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