「っ、ごめんなさい!」


7時24分。駅の時計がそう主張していたことを左にスローモーションで傾きながらなまえは記憶していた。駅前の雑踏、トンッとなまえの肩が見知らぬ誰かとぶつかってよろめく。意外と当たりが強かったのか、当たりどころが悪かったのか、振り返って謝罪をする前に身体が傾いていった。なまえがギュッと目を瞑ったと同時に、思ったよりも強い勢いでアスファルトに膝をつくと、当然ながらなかなか痛い。膝小僧の小さな擦り傷が憎らしい。その痛みに顔を顰めながら顔を上げると、なまえを奇妙な違和感が襲った。いつもと同じだけれど、何かが違う。なんとも形容のし難いふわっとした違和感。


「お嬢ちゃん、大丈夫かい?」
「ありがとうございます…転けちゃって恥ずかしいです」
「いいや、そんなことないさ。突然敵が現れてびっくりしたろ?」
「え?敵…?」


手を差し伸べてくれた見知らぬ男性の口から発される耳に馴染みのない不穏なワードに、なまえはスカートの砂をパンパンと払いながら思わず眉をひそめた。ぼんやりしている場合ではない。学校に行かないと。理解し難いワードを無理矢理飲み込んで理解したふりをして男性に会釈をし、駅に向かおうとした時であった。大きな爆発音が聞こえてなまえは頭を抱え、小さく悲鳴を零す。頭上を恐る恐る見上げると、巻き起こる爆風やら煙幕の渦の中にビルの三階ほどの背丈の人間のようなものがいたのでる。


「な、に、あれ」


掠れた声がぽろりと落ちて人々の歓声に掻き消された。緩やかに雲の流れる平和的な青空に物騒な爆発音を立てて、それに似合わないやわらかな薄香色の髪の男の人が飛び込んでいった。人々の歓声が彼に向けてのものであるとなまえは瞬時に理解した。ああ、そうか、そういうことか。これは映画の撮影なのだろう。人だかりの中心にいる大きな人間のようなものも作り物で、薄香色の彼もワイヤーアクションか何かなのだろう。カメラは見当たらないが、どこかに隠れて撮影でもしているのだろう。それならば合点が行く。


「きました!!期待の新星、W爆心地Wです!!」
「爆心地ー!!」
「いいぞ爆心地ー!!」


ばくしんち?何とも想像のつかないワードになまえはまたもや首を傾げることとなった。人々の歓声と拍手。なまえはリュックを背負い直して先ほどの男性に恐る恐る声を掛けた。


「あの、映画の撮影か何かですか?」
「え?何を言ってるんだい?彼は今人気上昇中のヒーローだよ!」
「ヒーロー?」
「あァ!もしかして爆心地のことを知らないか?今人気の若手ヒーローだよ。顔は整ってるからな、俳優さんと間違うのも仕方ないか」


噛み合わない会話。ヒーローだの敵だの聞き慣れぬ単語。皆が当たり前というようなことがなまえの知る当たり前と全く違う。なまえの背中に冷や汗がツウ、と伝う。ダメだ、ここには居られない。なんだかおかしい。先程感じた違和感の正体は分からないが、けれどまだそれが消え去った訳でもない。群衆から一回り離れた時なまえの背中をまたもや歓声が叩く。


「キャー!爆心地ー!」
「やっちまえー!」


人混みの中から、爆音を上げて爆心地と呼ばれる薄香色が飛び出した。その時である。


「 」


爆心地と呼ばれる男と目が合ったのである。その瞬間、その澄んだ紅色の瞳がゆっくりと大きく開かれる。そして、何かぼそりと口を開いたのをなまえは見逃さなかった。確かに彼はわたしに何かを言った。なまえは確信していた。けれど爆心地という人間をなまえは知らない。そのまま爆心地は大きな男に両手を爆発させて突っ込んでいった。なまえは嫌な予感を感じていた。兎に角ここから逃げてしまおう。そうだ、そうすればいい。あの男性もエキストラで、やっぱり映画の撮影だったかもしれない。見なかったことにすれば良い。心を決め、駅の方へ足を早めたなまえは顔を上げた途端、小さく上がりそうな悲鳴を飲み込んだ。先程の違和感がじわじわと現実味を帯びて迫ってくる。行き交う人々が、今まで見たことのあるW人間Wという概念を覆されるような姿格好をしていたからである。ツノの生えた人間、肌の色が見たこともない色をしている人間、身体が大きい人間など、まるで異世界に来てしまったような面々。見た目で人は決まるものではない。それでも突然人間とは形容のし難いものがたくさんいる。よく漫画やアニメで、異世界に来てしまった人間がすぐ順応する、という話を頭の隅っこで思い出していたが、なまえは至って普通の女子高生である。簡単に受け入れられるほど、それは容易くはない。こわい、こわい、こわい。なまえの頭の中をぐるぐると駆け巡る畏怖。慌ててスマホを取り出すも画面が乱れており、それが更に恐怖を煽った。先程の爆心地という男と大きな人間らしきもののことを思い出す。何か超能力みたいなものが当たり前にある世界なのか?ぞくりと背筋が粟立つ。みんな、あんな力を持っているというの?あんな、恐ろしい力を?ひとを、傷つけたり、下手したら、ころしてしまうような、力?そう感じた途端、先程声を掛けてくれた男の人も、当たり前のように周りを歩いている人もなまえには恐ろしい何かに見えた。じわじわと侵食する恐怖になまえは「やだ」「こわい」と身体を震わせて、小さくか細く繰り返すのみであった。一瞬目を瞑っただけで書き換えられてしまった世界。膝小僧の傷が今更になってジクジクと痛み、これが夢ではないということを嘲笑っているかのようだった。


「大丈夫?」


突然そっと腕を掴まれ、咄嗟に振り返る。宇宙服のようなスーツを着た茶色いボブヘアの自分より幾分か年上であろう女性。なまえの驚きように少し困ったように笑った。大丈夫です、とは言えなかった。張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れて思わず一粒、なまえの大きな目から真珠のようにしっとりと溢れてアスファルトに染みを作った。その様子に慌てたのか、女性が慌ててハンカチを取り出してなまえの目尻にそっと当てる。「怖かったよね」と頭を撫でる女性の手のひらのあたたかさを薙ぎ払うように「おい!!」と怒号が飛び交う。


「ハル!!てめェなに逃げとんだ!!」
「ちょ、爆豪くん、やめたげて!」
「は、離して、ください…!やだ、やめてください、っ、人違いです…!」
「しらばっくれとんなや!」


突如なまえの腕を掴んだのは先程人々の注目を集めていたあの男であった。なまえをハルと呼んだその男がなまえの腕を捉えて離さない。


「ハル、てめェどこに、行っとったんだ…!」
「だからわたし、ハルってひとじゃない、!」


なまえの瞳を見ているはずのその瞳は、自分じゃない誰かを見ている。その奥の奥が、小さく震えているような気がした。その小さな綻びすらなまえには恐怖の対象でしかない。WハルWと呼ばれることを拒否したことでできた小さな隙。ほんの一瞬できた力強い腕の緩みを振り払ってどこへ行くとも決まってすら居ないのに駆け出した。「まって!!」突然のなまえの行動に驚いたような女性の声を振り切るのは多少心苦しかったが、それでもなまえは振り返ることもしなかった。スカートが風を含んで翻る。逃げなきゃ。本能がそう言っているような気がして、喉の奥がツンと錆びたように痛もうが、リュックの中身の水筒がガチャガチャと音を立てて背中にぶつかろうが、なまえの足は走ることをやめなかった。逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ。狼のように鋭いあの紅い瞳を思い出してなまえの心臓はゾワゾワと粟立つような感覚に襲われていたのであった。

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