この世界が本来の自分の居た場所と違うこととかあの赤い目が怖いこととか考えることといえばそんなことばかりだった。荒く短い呼吸を繰り返して、なまえは全力疾走で駅から飛び出していた。右を見ても左を見ても、いつもと変わらぬ街のはずなのに何処か様子がおかしいのは気味が悪くて仕方ない。ぞわぞわと迫り来る焦燥感。どっちに行こう?でも、どっちに行けばいい?焦れば焦るほど何処に行って助けを求めればいいのかすらわからない。薄っすらと汗をかいて冷たくなった額にぺっとりと前髪が張り付いて気持ち悪かった。もしかしたら先程おかしくなっていたスマホも直っているかもしれない。何か少しでも情報が欲しくて、僅かな望みをかけてもう一度スマホを取り出した時であった。


「ハル!!てめェ、待てって言っとるだろ!!」
「ひっ、!」


先程の、男だ。なまえの目があからさまに恐怖に染まったのを見て男はチッと舌打ちをする。行くぞ、と腕を掴まれ、なまえは痛い、やめてと繰り返す。ぐ、と強く握られた腕がじわじわと鈍い痛みを浸透させていく。


「痛い、です、やめて、くださ、い…!」
「ア?!こうしてねェと逃げるだろが!」
「人違いなんです!お願いします、離して、ください、離して…!」
「ッ、違ェだろ?お前は、ハルだよなァ?」
「ちが、い、ます…わたしは、みょうじなまえっていう、名前なんです…!」


途切れ途切れで詰まりながらもようよう伝えたほんとうの名前。ギリ、と男はその形の良い唇を噛んだ。さながら子鹿のように震えるなまえの華奢な腕を容赦のない力で繋ぎ止める。本日何度目かわからない舌打ちをされた後、その男が何処かに視線を送る。


「あ、れ…」
「ちょっと頭冷やしとけや」
「…な、」


疑問を伝える前に、ふわりと甘い香りがなまえの鼻孔をくすぐる。その途端、なまえは心地の良い眩暈ととろりととろける思考に襲われた。これが一体何なのか、なまえには検討もつかないまま。滲み行く視界に映る薄香色と気味の悪い紅い月のような色を最後に、なまえの意識はぷつんと途切れたのであった。




「ん、」


おかしな夢を、みていたような気がする。いつもより重たい意識をゆっくりと目覚めさせる。今日の授業はなんだったかなあ。英語はそろそろ小テストがあるんだっけ。友だちの恋愛の話の進展を聞くのが楽しみだ。見覚えのない真っ白な天井に多少の疑問を抱きながらなまえはゆっくりと重い体を起こした。


「ハル!いつまで寝とんだ!」


夢だと思っていたものが現実味を帯びる。それは、もちろん悪い意味で。その瞬間なまえの曖昧な意識はぐんと手を引かれて急速に回復する。そして自分が見知らぬ部屋のソファに寝かされていたことに気づく。指先に感じる優しいブランケットの手触りが皮肉めいている。ぐるりと見回した部屋は、どうやら事務所のようなところらしかった。なまえを逃がすまいと囲むようにして、なんとも言えない気まずそうな表情の緑の癖っ毛の男性とさっきのボブの女性、ツンツンとした赤髪の人の良さそうな男性、そして、あの薄香色の髪の男性が立っている。ここはどこ?あなたたちは誰?聞きたいことは山ほどあるのに、なまえの喉はからからと渇いて言葉を発することが出来ないままであった。


「まあまあ爆豪、落ち着けって」
「落ち着いとるわ!!」


爆豪、と呼ばれたその男のみが怒ったように言葉を発するのをなまえがビクビクと肩を震わせて聞いているのを知っているのか知らずなのか、赤髪の男性は爆豪を困ったようにしながらたしなめる。爆豪の口からは、相変わらずWハル、ハルWと繰り返していて、なまえはそれを気味悪く感じていた。


「ハル、!」
「かっちゃん…!もう、」
「ッせェぞクソデク!!お前は黙っとけや、アァ?」


赤髪の男性を振り切ってなまえに詰め寄る爆豪を止めようとした緑髪の癖っ毛の男性が何かを言い掛けたのをわざと遮るかのようにドスを効かせて言葉を発する。誰も、何も言わないまま、爆豪という男の小さく息を切らす呼吸音だけが部屋に響いていた。


「わたし、」


なまえが乾き切った喉で精一杯絞り出した言葉に、一同がパッと振り返る。恐ろしいやら恥ずかしいやらでなまえは指先が小さく震えるのを感じていた。


「わたし、ハルってひとじゃ、ありません…っ」


静寂にシンと響く弱々しい否定の言葉。恐る恐る顔を上げたなまえの目に飛び込んだのは、やわく揺れる紅い瞳。はっとしたのもつかの間、爆豪はまるで八つ当たりでもするかのように爆発音を上げて壁を殴りつけた。ひ、と悲鳴にならない声を上げて頭を覆うなまえを他所に爆豪は「頭冷やせって言っただろが!!」とブチ切れて部屋を出て行ってしまったのだった。どんな超能力なのかなまえには到底想像もつかないまま、チリチリと微かな焦げ臭さを残したまま部屋は静まり返る。なんという理不尽なこと。なまえはまた自分の鼻の奥がツンと痛くなるのを感じる。なまえのその純粋無垢な瞳に張る薄い涙の膜はあっという間に溢れてブランケットにぽたぽたと落ちていった。静まり返った事務所内にテレビのニュースが流れる音となまえのしゃくりあげる声が響く。誰も何も言わない。


『さて、平成最後の春が訪れを告げましたが……』


ニュースキャスターが嬉々として読み上げた内容になまえはその涙に濡れた顔を上げて、ぽつりとこぼす。


「へい、せい」
「…平成がどうかしたのか?」


赤髪の男性が抜け殻のようななまえに問う。


「い、今、今の西暦は、何年、ですか?」
「今は2019年、平成最後の年だ」
「にせん、じゅう、きゅう」


サアッと血の気が引く。ドッキリにしては壮大過ぎるし、なまえの生きている時代とは違う時代だということもやけに現実味を帯びる。なまえは必死に頭の中で社会科の教科書のことを思い出す。平成。それは、W個性Wという超能力のような力を身体に宿した人間たちが当たり前のように存在していた、まるでアメリカンコミックのような時代。なまえの存在していた時代より、ずっとずっと、昔の、なまえのいた時代の300年ほども昔の時代のことである。地面がボロボロと崩れていくような危うい感覚がじわじわと侵食していく。なまえの周りを囲む人間たちが、大丈夫?とか顔色が悪いことを心配していたが、なまえにその心配の声が届くことはなく、耳を通り抜けていくのであった。

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