
「大丈夫?」
例えるならば、トンネルの出口はもうすぐそこであるのに、出口がスウーッと遠ざかっていくような、終わりの見えない感覚。言いようのない不気味さがもやもやと渦を巻く。どうしよう、と自分に問うても答えが見つかることは依然としてなかった。
「大丈夫…?」
控えめな声色も、シンと静まり返った部屋には響かせるには十分であった。なまえは睫毛を濡らしたままハッと顔を上げる。その言葉が自分に向けられたものであると気づくのにしばらく時間を要してしまうほどに、この数時間でなまえは憔悴しきっていたのである。肩をこわばらせると、膝の上からブランケットがずり落ちた。それを拾おうとした深緑の髪をした男性の手が伸びる。
「や、っ」
「え?!」
ぱしっと伸びた手を振り払う。そのひとの親切心であるというのに、今のなまえには、その何気無い行動すら猜疑心を煽るものであった。憔悴しきると同時に植え付けられた恐怖心と猜疑心。もう何を信じて、何を考えればいいのかわからなかった。
「ごめん…!急に連れてこられて怖かったよね…自己紹介が遅れたけど、僕は、緑谷出久です。こっちの赤髪のひとが、切島鋭児郎くんで、こっちが麗日お茶子さん」
「よろしくな!」
「さっきは驚かせてごめんね」
三人の屈託の無い笑顔やそのやわらかな雰囲気に、幾らか肩の力が抜ける。
「わたしは、」
「もう、思い出したかよ」
なまえが自分の名前を告げようと幾らか解れた口元。また、それを遮るような扉の開く音。ああ、また。そちらに一斉に視線が向いたが、爆豪は怯む様子などひとつもなく近づいてくる。あちらもどうやら幾分かの落ち着きを取り戻したらしく、なまえに無理に突っかかってくる様子もなかったのはなまえにとってはまだ救いがあったのかもしれない。なまえをまだWハルWと認識しているような素振りがある限り、なまえの心は騒つくことに変わりはなかったが。
「なあ、ハル」
突然やんわりとやわらかな温かみを孕む声色に、なまえはハッと顔を上げた。けれど、顔を上げたのは失敗だった、とすぐさま思う。やはりその視線はなまえを本気でWハルWだと思っているような色をしていたからである。ハルと信じてやまないその男。なまえに向ける視線も声色も、自分に言い聞かせているのか、それとも本気で勘違いをしているのか。けれど、ひとつわかることがある。その優しさ、その声、全てがなまえに掛けられたものではないということ。その証拠に他の三人もやや青ざめた顔をして、視線はなまえに向けることもなく、黙ったままだ。肯定はしない。その代わり、なまえがWハルWであるということを否定もしてはくれない。ああ、このひとたちは。このひとたちは、わたしのことなんてこれっぽっちも心配などしてはいないんだ。心配なのは、WハルWの体と心なんだ。少し信用しても良いかもしれないという甘い幻想を抱いた自分が馬鹿みたいだ。先程伸ばされた緑谷の指先を思い出す。あれも、結局わたしに向けられた優しさではなかったのかもしれない。喉の奥から、どろりと黒い塊が込み上げてくる。
「わたし、」
「んだよ、ハル」
「だから!ハル、じゃないっ!」
なまえの大きくハッキリとした拒絶に空気が震えた。視線が一気になまえに降り注ぐ。しまった。そう思うと同時に恐怖がなまえの背後から腕を伸ばす。すうっと冷める頭。冷静になった思考回路を巡らせる。遥か昔の平成という時代だというここで、あんな怖い能力を持ったひとの仲間に、知らない事務所みたいなところに、しかも薬品だか能力だかでここまで連れてこられたのだ。誘拐?恐喝?それとも愉快犯?もしかしたら、ころされて、しまうかもしれないのだ。それでも言わずにはいられなかった。なまえという人間を否定されたのだ。半ばやけくそ気味だったが、ここにいると言う理不尽がなまえの思考を掻き乱していく。
「あなたたちは、なんなんですか…!知らないところに連れてこられて、わたしにハルとかいうひとの役割を押し付けようとして…っ」
「そんな、!」
緑谷が伸ばした手をなまえは反射的にぱしんと跳ね除けた。
「さっきから、爆発させたりしてるのって、個性、とかいうやつ、ですよね…!みんな、みんな個性があるんですよね」
「え?個性…?」
「てめェ、なに抜けたこと言ってやがる…」
「それは、ひとを、簡単に、傷つけたり、…こ、ころせる、力ですよね…!それを簡単に振り翳せるような、時代なんですよね…!」
なまえを除くその場にいた人間は、皆ひくりと喉を震わせた。W個性Wがあるのが当たり前だと思っていた。寧ろ、W個性Wが無いことをW無個性Wだ、と言う時代だった。しかし、なまえは違った。個性を知らない、敵を知らない、ヒーローを知らない。個性WとかいうやつW、W時代W。会話の端々に感じる小さな違和感。
この少女は、どこからきた?
爆豪を除く3人は何かを察していたし、流石の爆豪でさえ黙っていた。爆豪だけがうつむいて、その表情が何を思うのか誰にもわからない。子鹿のように震え上がったなまえは自分の頼りない足をギュッとつねる。夢ならば覚めてくれという願いと、この震えを止めなければという覚悟。平成という異質な時代に来てしまった。何がどうなってこの時代に来たのかすら分からなければ、帰り方も分からない。知り合いなんて勿論いない。居るとすれば言葉を少しだけ交わした目の前の人間だけ。ハルという身代わりでいれば、何かしらの情報を得られるのかもしれない。けれど、なまえがなまえであることを否定して誰かになりすましてしまったら、時代に埋もれてぱらぱらと崩れていきそうな気がした。今はなまえも爆豪たちもどうすればいいのかなんて分からなかった。必ず帰ることができるという希望にも似た願望だけが、なまえの瞳の奥で不安定に揺れていた。