
しんと静けさの広まる一部屋の沈黙を破ったのは、突如開いた扉を開く音であった。無精髭の気怠そうな男と草臥れながらもその眼差しの奥底に凛と有る強さを持つ男。やはり皆アメリカンコミックのヒーローさながらのコスチュームのような服を見に纏っている。なまえには、既に見慣れた光景になりつつあった。誰だと問う気力も起こらず、騒つく部屋の中、ぽつんと取り残されたような、自分の周りだけが文字通り知らない世界なのだ。なまえ以外の皆が口々に話す為、只でさえ混乱しているなまえの憔悴しきった脳では到底処理が追いつかなかった。耳をすり抜けていく聞き慣れないワードたち。
「…お前ら、少し席を外せ」
「ア?!ンでだよ!」
「ちょ、かっちゃん…!いこう、ね!」
怒り狂う爆豪を半ば引きずりながら緑谷たちが扉の向こうに消えていったのをただ黙って見送るしかできなかったなまえの思考を叩き起こすように、無精髭の男がチラリと視線を送る。
「…随分と騒がせたな。俺は相澤だ」
「私は八木だ、よろしく」
「単刀直入に聞く。お前は、どこから来た?」
「相澤君…!」
「俺は合理性に欠けることは嫌いだと貴方も知っているはずですよ、オールマイト」
どうやら緑谷たちから連絡が入っていたらしい。相澤のあからさまに突き刺すような視線になまえは居心地の悪さを感じると同時に、なまえをなまえ本人であると認識して接してくれる大人に何故だか安心感をいだいていた。突然現れた、W個性Wを知らない少女。それも、かつての教え子、とびきりの問題児で飛び抜けてセンスの良かった、そんな頭一つ突出した爆豪が混乱するほどに別の少女の影を背負った少女。相澤は少しどんな人間なのか、と興味があったのだが、それがごくごく普通の少女だったものだから少し拍子抜けしてしまったところも少なからずあった。
「わたし…わたしは…」
「ゆっくりでいい」
「…うーむ、そうだな。まず、君の名前を教えてくれるかい?」
「!!…わ、っ、わたし、わたし、みょうじなまえって、いう、名前で、はる、ハルって、ひとじゃ、」
八木と名乗る男のなんとも言い難い包容力が、なまえの緊張を決壊させた。信じていいのかはわからない。けれども頼る人間がどこにいるのかもわからない。なまえの生きた時代ではないことだけはわかる。この世界に、なまえひとりだけ。ぽろぽろと大粒のビー玉のように透き通る雫が流れ出る度になまえの抱える不安を軽くしていった。八木がそっとなまえの肩に手を置く。ただそれだけのことなのに、形を失いかけていたなまえの心の輪郭が取り戻されていくような安心感を生み出す手のひらに、今はただ嗚咽をもらすことしかできなかった。
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「それで、みょうじ少女は、未来から、それも、300年という未来から、来たというのか…!」
「俄かには信じがたいが…ま、あり得なくもない」
「し、信じてくれるんてすか…!」
「あァ」
「みょうじ少女は、なんらかの個性事故に巻き込まれた、という可能性が一番高いだろう」
「…こせい、じこ?」
こんな話を信じてなんてもらえないだろうと、ましてやなまえ自身が半信半疑である事実を何度も詰まりながら伝えた。相澤も八木も驚いてはいたものの、それを案外すんなり受け入れてくれたことは意外だった。個性事故というものが何なのかはわからない。事故と称しているのだから、たぶん、よくないことなのはわかる。が、今まで散々否定していた人間のW個性Wとやらが存在するおかげでタイムスリップしたであろう事実を受け入れてもらえたのはラッキーだったのかもしれない、となまえは思う。こんなこと、現代で言おうものなら好奇の目を向けられて変人やら不思議ちゃん扱いで終わってしまうのだから。一息ついて、八木が話し始める。
「個性事故、というのはね、例えば今回の場合であれば時間を操るような個性持ちの人間が、何らかのきっかけで個性が暴走してしまい、融通が利かなくなってしまうようなことを言うのだよ」
「つまり、わたしは、誰かの個性事故に巻き込まれてしまった、ということですか」
「確実にそうだとは言えないが、そういう類のものである可能性は高いだろう」
「…というか、知らないのか?そもそも、みょうじさんの居る時代にW個性Wはないのか?」
核心を突くように、相澤がなまえに真っ直ぐな視線を寄越す。説明をしてくれた八木も、どうやら聞けずにいたようだ。
「わたしのいた時代に、W個性Wというものは、存在、しません」
「なっ、!」
「わたしのいた時代から200年程前に、W個性Wというものは無くなりつつあった、と歴史ではそうなっています。それが何故なのか、未だに解明されていません。英雄時代、と呼ばれていますが、逆に言えばこの時代だけが、なんというか、異質というか、そんな風に扱われて、います」
あからさまにショックを受けたような顔をした八木と、ポーカーフェイスを保っていたさすがの相澤も言葉を失った。この時代を生きる人間は、この先の未来が色々と進化していくものだと信じてやまなかったのだろう。未来で自分たちの意思を継ぐ英雄たちが世の中を守り続けているのだと誰しもが想いを馳せたり、希望を託したりしていたのだろう。それが、まさか、W個性Wが消失しているなんて誰が想像しただろうか。人類にとって寧ろW個性Wが有ったということが特異だった。薄い氷にヒビが入るような緊迫した雰囲気が、窓の外で春の訪れを告げて軽やかに凪ぐ青葉の爽やかさとはかけ離れた不安定さで揺れた。
「あっ、でも、個性事故、というものであれば、またその事故を起こした人に会って原因を解明すれば、わたしは、元の時代に帰ることができるんですよね…?」
「今のところ、個性事故が起こったという情報が入ってきていない。…まず、個性事故というのが余り起こらない。そもそもその情報を得たところで、解決することが難しいのが個性事故だ」
「そ、んな…」
絶望感にも似た重みが肩をがっくりと落とさせる。帰ることができないかもしれないというの?なまえのあからさまに下がる眉が更になまえに悲壮感を纏わせた。同時に相澤と八木はハッと顔を上げた。可愛らしいが、そこそこ至って普通の少女がこの時代の悪と呼ばれる者の手に渡ってしまったらどうなるのか、未来の情報を握っている彼女がどういう存在になり得るのか、なまえはまだ気付いていない。
「みょうじ少女、正直解決するのはいつになるか私たちでは断定できない。だから、みょうじ少女は私たちで保護させてもらいたい」
「へ、保護、ですか…わたし、そんな大した人間ではないんです…でも、行くところもないしお金もそんなにありません…どうしたら、」
「信頼の厚いヒーローのところで保護するのが最善だろう。みょうじさんが未来から来たという情報漏えいを最低限防ぎたい」
「みょうじ少女の身の安全は守ると約束しよう。兎に角、今日一人でここに泊まりなさいというのは心細いだろう。うーむ、そうだな、女の子同士である麗日少女のところに、」
それまでうんうんと聞き分けのいい幼子のように首を縦に振っていたなまえの眉がぴくりと動いた。麗日はなまえに優しく接してくれた、この世界で数少ない人物だった。穏やかではつらつと笑う、たぶん誰にでも優しいひとなんだとなまえは理解していた。理解していたのに、先程なまえがWハルWではないと否定はしてくれなかった。爆豪というひとがとても怖かったから、麗日もなまえと同じように怖かったのかもしれない。それに、爆豪と麗日は知り合いのようだった。だから、なまえをWハルWと信じてやまない爆豪が来たら?考え過ぎなのかもしれないが、今のなまえは追い込まれていた。
「わたし、あの、…迷惑を言っているのは分かっています…!今日だけでいいんです、お二方のところへ…えっと、その、」
俯きながらぽつりぽつりとこぼすなまえの意味になんとなく相澤と八木は察した。自分のことを自分だと言ってくれる守ってくれる大人の懐はなまえを安心で包んでいた。泣き腫らした瞼も、キュッとスカートのプリーツにシワができる程握りしめた指先も、そして小さく震える肩もなまえがどれだけ孤独で、どれだけ不安の崖っぷちに立たされていたかということが痛いほど伝わってくる。相澤も八木も、女子高生を家に泊めるということが自分たちの中の倫理観的にどうなんだ、と問うところではあったが、二人はきちんと大人である。
「うーむ、そうだな…」
「どうするんです、オールマイト」
「よし今日は相澤くんのところに泊めてもらうといい!相澤くんは無愛想ではあるが、信頼のできる男だ!」
「なっ、!」
「ほんとうですか…っ、ありがとうございます…!」
ぱっと顔を上げたなまえの頬が僅かな希望に触れたかのように、微かに緩んでいた。相澤は、2、3年ほど前に受け持ったクラスの生徒たちのことを思い出していた。其奴らにも何かしら関わることがありそうだ。軽く溜め息を吐いて頭をぽりぽりと掻く。…仕方ない。
「…じゃあみょうじさん、荷物を持ったらとりあえず行こうか。色々と買うものとかあるだろう、それに疲れただろう。合理的にさっさといこう」
「相澤さんっ、!ありがとうございます、ありがとうございます!」
ぺこぺこと頭を下げるなまえの頬が微かに緩む。警戒心がゼロというわけではないが、まるで人懐っこい仔犬のようなまあるい目。この少女にも、かつて人々が平和の象徴に縋ったように、今は心の拠り所が必要だ。結局のところ、相澤はお人好しであった。八木もウンウンとうなずくのを相澤は少しだけ睨みつけたが、まあ、仕方ない、となまえのバッグを肩に背負った。
「みょうじさん、行くぞ」
「…!!はいっ!!」
「オールマイト、奴等には伝えておいてください」
「了解したよ」
「あのっ、八木さん!」
「うん?」
ぱっとなまえが振り返った。スカートのプリーツが円を描いて純粋に揺れ、その艶やかな髪がさらさらと肩に掛かって、汚れなど知らないというようななまえの目がやんわりととろけるように細くなる。
「八木さん、ありがとうございます…!」
「お節介はヒーローの本質だからね」
「それでも、ありがとうございます」
「みょうじ少女、君、笑ってた方がずっといい。君が笑えるよう、君を守る。それに、君を元の時代に帰す方法を必ず見つけると約束するよ」
なまえという少女。どこにでもいて、この時代にはいなかった少女。不安の渦中にいるにも関わらず、薄桃の花弁がしっとり開くような艶っぽさとあどけなさをたずさえた笑顔だった。なまえもようよう腹を括った。涙を流したら、重さで沈んでしまう前に、水底から浮上して息ができた。当たり前に呼吸をするように、生きている、という実感をするくらいになまえの目前は広大に開けていた。それでも大丈夫、ちゃんと、生きている。なまえは目尻に浮かんだ水珠をぐいっと拭ったのであった。