
「部屋はひと部屋空いてるから、ここを使ってくれ。風呂はあっち、トイレは風呂の横だ」
「わかりました!ご丁寧にありがとうございます」
説明らしい説明も要らない、強いて言うなら普通、という言葉がぴったりの街を歩いた。それは、なまえがいた街とよく似ている。なまえの住んでいたもっともっと先の未来と然程変わらない街並みだった。少しばかり歩くと、とあるマンションに辿り着いた。そこの一室のロックを解除して中に入ると、自分の家ではない、他人の家のにおいがなまえの鼻にすうと染み入る。なまえがスニーカーを脱いでいる間にも、相澤はてきぱきと合理的に説明していく。あっさりとした対応ではあるが、冷淡な感じはしない。先ほどとは打って変わり、髪を軽く纏め、全身黒色のラフな格好の相澤のやや丸まった背中を眺めながら、W大人Wってこういうひとのことを言うのかもしれないとなまえは考えていた。
「WこっちWにきて疲れただろう。しばらく休んでから、買い出しに行こう。出発は1時間後だ」
「はい」
案内された部屋をぐるりと見回す。ベッドとローテーブル、時計に本棚、ワードローブと観葉植物ひとつ。必要最低限、という感じだ。そして、既に運び込まれたたったひとつの荷物、学校用のバッグだけが自分が今ここにいると言うことを証明しているようにぽつんとそこに座っていた。でも、なまえを証明するものはこれしかない。そう思うと文字通り世界から切り取られたようで、どっと孤独がなまえの背中にしがみつく。その孤独に気付かないふりをしてなまえは窓枠から外の世界を眺めた。なまえの純度の高い透明を宿すその目が、案外未来と変わらない、何となく見慣れたような光景を映し出した。
「わたし、どうなるんだろう」
ぽつりと呟いた不安は、誰にも拾われる事なく、ことりと音を立てて地面に落ちた。学校は?家族は?いつ帰ることができる?それに、未来へ帰ることが出来たとして、浦島太郎のようにそれこそまた世界に取り残されてしまったら?はたまた、先ず帰ることすら出来なかったら?沢山のWもしかしてWがなまえの脳裏を埋め尽くす。過去、それも英雄時代と呼ばれたW個性Wを持つ人間が大半の超人的社会に来てしまった。しかも、見ず知らずの男に見ず知らずの他人に間違われ、挙げ句の果てに今日知り合ったばかりの男の家に居候することになるなんて。普通だったら有り得ないことの連続に、なまえは自分の感覚が麻痺しつつあることに苦笑を漏らした。
「(でも、)」
なまえは心の中でワンクッション置いて、おかしくなってしまったスマホをポケットから投げ捨て、そのまま他人のにおいのするベッドに行儀悪く寝転がった。知らない天井が酷く遠く感じる。窓の外にはみずみずしく澄んだ青と柔らかく空を覆うようなうす雲。春先のたっぷりとした陽気が窓枠越しに伝わってくる。蜂蜜のような甘ったるいとろけるような日差しがなまえの瞼をとろりと重くさせる。
「(今は、今できることにひとつずつ、向き合っていかないと)」
ベッドのスプリングがなまえの寝返りに合わせてひとつ、小さく軋む声を上げた。今日がまだ、半日程しか経っていないのに酷く長く感じる。寧ろ一日を終えることの方が怖く感じた。
・
コンコン、と軽いノックの音が頭に響く。目を開けまいととろとろと落ちる瞼を必死に持ち上げたら、先ほどよりふた回りもした時計の短針が目に飛び込んだ。しまった。どうやら、眠ってしまった上に、2時間の大遅刻らしい。
「すっ、すいません!」
「かまわん、疲れてたんだろう」
手櫛で髪を整えて気を紛らわせるが、申し訳なさと恥ずかしさが込み上げる。そんななまえにほら、と相澤がスマホを手渡した。なまえのものではない。
「みょうじさん、これを持っておいてくれ。連絡手段が必要な時があるだろう」
用意周到な相澤に驚きを隠せないまま、なまえは小さく御礼を言い受け取る。両親の名前も大好きな友達の名前もない。今まで撮った写真もない、空っぽの箱。涙と寂しさごとポケットにしまい込む。そのまま玄関に向かう相澤の背中を追いかけながら生活に必要なものを買い出しに行くことを聞いた。街は橙から紫へ、なまえの居た時代と何ら変わらぬグラデーションを描き出している。パニックになっていて周りへの意識を持つことが出来なかったなまえは改めてじっくりと辺りを見渡した。そうすると、意外にもW現代Wとさして変わらないものなのだと知った。違うのは、人間だけ。この時代を構成する人間の違いだけで、寧ろ自分の居た時代の方が退化しているように感じるほどである。そもそも未来が退化しているのか、元の形に還ったのか、なまえにはどちらが正しいのかなんて分からなかったが。
「みょうじさん」
「はい」
「みょうじさんは、俺の親戚というていでしばらく俺のところで預かることになった。あと、」
「あと?」
「みょうじさんは、必ず、W別の時代Wから来たという事実を話さないでほしい。俺がなぜこういう事を言っているかわかるか?」
「…」
「みょうじさんの知り得る情報が、もしかしたらこの世界、いや、この先の未来に影響する恐れがあるからだ。敵にそれが知れたら、みょうじさんの身に危険が迫ることもあり得る」
人の波間を泳ぐように縫って進む。隣を歩く相澤の言葉たちがぼそぼそと、しかし確実になまえの肩にのし掛かる。ひやりと凍る背筋。橙が掠れて、深海のようなどろりとおぞましいような紫が空の大半を占めていた。今のなまえは、空にきらめき始めた小さな星々の輝きのような希望に縋ることしか出来なかった。流されないように、沈んでしまわないように。