ピピピ、ピピピ。機械的なアラーム音がなまえの耳に届く。まだ残る眠さで落ちる瞼を擦れば、くあ、とひとつ小さな欠伸が出た。今日は、なんの授業だったっけ。体育があるなら、体操服を用意しないと。ぼんやりと働かない頭で考えれば、なんとなく見覚えのあるような無いような部屋がなまえの記憶を叩き起こした。そうだ、そうだった。昨日の濃すぎる出来事が、排水口に勢い良く吸い込まれる水のようになまえの脳に鮮明に蘇る。


「(そっか、わたし、過去に、)」


ぶわっと襲う寂しさを払いのけるようになまえは小さく頬を叩いた。相澤さん、いや、わたしは彼の親戚というていで過ごすのだから、苗字はおかしいのかな、だったら、消太さん、でいいのかな。友達だって苗字呼びから名前呼びに変えるのは気恥ずかしいもの。お茶子さんたちは、まだ年齢が近かったからか名前呼びに変えるのはなんとなくスムーズになったものの、大人の男のひとを、名前で呼ぶのはなんだかこそばゆい。ひとり心の中で自問自答を繰り返して、部屋の扉を開ける。なまえの、この世界にきての二日目が始まった。


「なまえ、おはよう」
「あい、あ、消太、さん?おはようございます」
「なんで疑問系なんだ」
「あ、いや、 ちょっと恥ずかしくて」


なまえが頬を染めて、困ったように笑う。高校生だというのに、綺麗な笑い方をする女の子だ、と相澤は思う。存在自体がなんというか、透き通る純粋な白そのものだ。頬を染めあげる薄桃は、まるで乙女椿の花弁をそのまま頬に写したようでもある。なんというか、不思議な子だ。その風貌で、案外肝も座っているようだ。そんなことを思いながら、なまえに座るよう促しあたためたトースターをお皿に乗せて手渡す。


「今日俺は仕事にいく。なまえは家で休んでてくれ。家具や食材は好きに使ってくれて構わない」
「ありがとうございます。できることって、ありますか?」
「特に無い。疲れてるだろう、ゆっくりしてくれ。昼メシは、近くにコンビニがあるから悪いがそれで済ませてくれ。机にお金が置いてある」
「何から何までありがとうございます。…いってらっしゃい」
「…いってくる」


見送られるのも、悪くないもんだ。




一方なまえは、トーストをかじりながらソワソワとしていた。じゅわっとバターのほの甘さが舌に広がる。先程牛乳をいただこうかと見た冷蔵庫の中身は必要最低限、といった様子。ゼリー飲料だけがやたらと充実している冷蔵庫は、彼の口癖のW合理的Wを表しているようだった。ご飯を食べたら、洗濯くらい回そうか。スマホの地図アプリを開くと、近所にスーパーもあるようだ。家に居候させてもらっているのだから、何か家事くらいお手伝いしないと。未来でのなまえは、両親が多忙なこともあってか家事は得意な方だった。洗濯なんて、寧ろ好きな方なくらいだ。今日は簡単だけど、カレーにしよう。いつのまにか食べ終わって空っぽになったお皿をささっと洗って、買い出しの準備をするのであった。


「近くのスーパーくらいなら、いいよね。外出がダメだって、言われたわけじゃないし、」


玄関を開ける前に、誰がいるわけでもないのに確かめるように言葉に出す。少しだけ、怖くなったのだ。相澤は、なまえの正体がバレるということは危険が伴うということだと言った。実際のところ、なまえの見た目が皆の思う未来人のような近未来的なスーツを着ていたりだとか想像の中だけの宇宙人のような触覚があったりだとかするわけではないので、自ら明かさなければわかるわけもないのだが。寧ろ、なまえのイメージでは現代の方が未来っぽいのでは、と思うくらいだった。なんとなく悪いことをしているような気にもなったが、自分がヘマをしなければいいだけだ、と思いきって玄関の鍵を緩めた。大丈夫、大丈夫だ。ガチャリ。扉を上げれば、直接眼球に光が差し込んで反射的に目をつむる。麗日たちと歩いた時はなんてことなかったあの道が、何処と無く知らない道のような気がして心臓がバクバクした。顔だけは冷静を装って歩く。


「(つ、ついた…!)」


徒歩5分ほどの場所にあるスーパー。朝一ということもあってか人はまばらである。ひと通りの買い出しをしながら改めて思う。本当に、案外今も昔も変わらないのだな、と。確かに、スマホも大なり小なりおおきさはあるがさして使用方法も変わらない。3Dホログラムで浮き上がったりする機種もあるが、案外プライバシーが守られないものであるため企業には浸透したものの、一般世間には普及しなかった。いろんなものが薄っぺらくなったり機器の読み込みやスムーズになった。家やマンションの防犯などだって、この時代よりも当たり前に発達している。教科書を思い返す限り、この時代にはない様々な科学が発達して、AIや人型アンドロイドが生活に馴染んで当たり前のように生きてはいるが、元はと言えば科学者が命を吹き込むので、色々な基礎はやはり人間のままである。なまえが生まれた時には、AIや人型アンドロイドが当たり前のように普及していた為、それらを見て驚くことはなかったが、この時代でいう異形型の人たちへの驚きはやはり隠せなかった。それは、ロボットの発達が霞むほどでもある。やっぱり、W個性Wというものの方がなまえには刺激的で、発達した未来のように感じる。何はともあれこの時代は多少のアナログ感はあるものの、それでもなんとなくの基盤は同じのため、なまえが生活するに当たって困ったことはなさそうだ。そんなことを考えながら、支払いを済ませた野菜たちを袋に詰め込んでなまえは考える。よいしょ、と小さく声を出しながら袋を手にぶら下げてスーパーの自動扉をくぐった時である。


「ア?」
「ひっ、!」


どうして、こんなところで会ってしまうのか。平穏な風が吹き始めていた野原にに真っ赤な火種がひとつ。それは一瞬で飲み込んで焼き尽くすようだった。ちいさな悲鳴を飲み込んで落とし込んだ頃には燃え尽きるように燻っていたのである。真っ赤な火種、もとい赤い目を睨みつけるように此方に向けた爆豪が、ふてぶてしくポケットに手を突っ込んで此方を見ていた。初めて会ってしまった時には、マスクのようなものをつけていたが今日はオフの日なのかこれから出勤なのか、素顔そのものだった。それでも、その猛禽類やら肉食動物のような獰猛で食らいつくかのような鋭さを持った、大方ヒーローとは遠いような瞳を一度見ただけで忘れるひとなど居ようものか。あんな、自分を誰かに重ねられるほど気味が悪く恐ろしい体験は二度としたくない。かと言ってこのまま逃げたらこのあいだのように追い掛けられるという切羽詰まった状況も、こわい。どうしよう。


「おい」


ぐわんぐわんと耳鳴りがする。恐ろしさとは時間を止めてしまう感覚に陥るほど、体を動かなくするものなのか。びくりと肩を震わせる。


「……話は聞いた。でも、俺は認めてねェぞ」
「、えっ…」
「認めねェって言っとんだ」


こわい、こわい、こわい。このひとは、まだわたしを、WハルWというひとだと、信じてやまないのか。なまえを崖から蹴落とすような絶望感。思わず顔を上げてしまった。上げなければ、よかった。憎しみと悲しみの入り混じった眉間のシワ。それなのに口元は釣り上がっていて、無理やり笑おうと筋肉を使っているようで、更に気味が悪い。太陽を目一杯浴びたやわらかな稲穂のような髪色がその苦しみにも似た表情の違和感と気味悪さを際立たせて、ゾワリと鳥肌を立たせた。その瞬間にはもうその場に居ることなんてできなかった。追い掛けられる恐怖もあったが、あの目に見られる方がなまえにはしんどかった。マンションのエントランス前まで辿り着いた、のに。エントランス前に来た時には、もう追いついていた。体力、体格の差など歴然としていた。肩で息をするなまえと、軽く息を整える爆豪になまえは絶望した。


「おい!!」
「ひ、!やだ、こ、こないで…!」
「ア?んだと…」
「いや、やだ…助け、て…消太さ、お茶子、さん…!」
「ア?!誰を呼んどんだ!ハルは!ハルはそんなこと言わねェだろが!」
「だから!ハルじゃないっ、」
「ッ、」


いい加減にしてくれ。なまえはその名前を出すたびに掻き乱される自我にイライラとし始めていた。飲み込んだはずの黒い塊が渦を巻く。


「貴方は、わたしにその人の役割を押し付けてどうしたいんですか、!」
「黙れや!」
「貴方、WヒーローWなん、ですよね…!それなのに、こんな、ひとりの人間の存在すら押し潰すようなことして、それが、ヒーロー、なんですか!」
「てめェ、言わせておけば、」
「…知ってますか?ヒーローなんて、この世から無くなるんですから…!ヒーローと言う名のエゴを他人に押し付けて、人助けをするのに名前をつけて、賞賛を合理的に受けることができる、ヒーローって、そういうものだと嘲笑うひともいるんですよ!貴方のような、貴方のような権力を、振りかざすようなことをする人がいたから、っヒーローなんて、!ヒーローが、そんなにえらいんですか!」
「ん、なことあるかよ!!」


有りっ丈の黒い感情は溢れ出て止まらない。威嚇する猫のように肩を震わせて吐き出した途端、ガンッと背中に衝撃が走った。なまえの細腕を壁に縫い付けるように、爆豪の筋肉質の腕が捉えてそのまま身体ごと壁に押し付けられていた。ドサリと無慈悲にも地面に叩きつけられたビニール袋の中で、野菜たちがぶつかり合う音。太陽の光を吸い込んだマンションの壁がジリジリとなまえの背中を熱く焼いていく。余計なことまで、ぶつけるように言ってしまったかも、しれない。このひとは、一応昨日の関係者に当たるだろうけど、未来を匂わせるようなことを外で言ってしまった。ゴクリと唾を飲み込む。


「お前言わせておけばよ…調子乗ってんじゃねェぞてめェ!!」
「ッ、」
「ハルみてェな顔して、クソみてえなこと言っとんじゃねえぞ!」
「やめ、」
「黙れやハルもどきのクソ女がよォ!」


ぐ、と顎を掴まれると、カンカンと警鐘が鳴り響く。この人にだって、何か複雑な事情があるのかもしれないが、WもどきWだなんてあまりにも酷いじゃないか。なまえはなまえでしかなくて、ハルはハルでしかない。こわい。こわいはずなのに、なまえは爆豪の瞳の奥の微かな揺らぎがどうしても気になってしまっていた。なまえの真っ直ぐな瞳に、珍しく爆豪の足が一歩後ろに下がったのは、ハルに似た女の子に見つめられたからなのか、何か見透かされそうだったからなのか。どこか懐かしい海辺の浅瀬のどこまでも透明な青と頭を冷やしていくようなピリリとした心地の良い冷たさを宿すなまえの真っ直ぐな瞳が爆豪の頭を急激に冷ましていった。


「クソ、ッどっかいけや!」


捨て台詞を吐いて爆豪が頭をかきむしる。どっかいけや、と言われたって、ここはなまえの居候しているマンションなのだ。一歩、また一歩と小さく後ずさりしてスーパーの袋を持ちあげたら、なまえをひと睨みした爆豪が背を向けて歩き出す。殴りかかってこないかとハラハラしたがそんな様子もないらしい。そのまま去って行く爆豪の背中が、今までより何故だか小さく見えた。

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