朝陽に溶けてしまいそうな小さなあくびを、あつあつのコーンスープごと喉の奥に流し込む。こくりと喉が鳴るとじんわりと胸の奥に染み込んでいった。鼻先はきっとまだ赤い。休日の早朝の共有スペースは吸い込まれそうにしんと静まりかえっていて一面の雪景色を連想させた。手のひらで包んだカップを机の上に置いて、行儀悪くソファーの上で両膝を抱えるのと同じくらいに影が落ちる。


「おはよ、みょうじ」
「びっくりした…!瀬呂くんおはよう」
「そんなにびっくりしてなさそうだけどな。隣いいか?」


上を向くと、瀬呂くんがにっと笑ってわたしを覗き込んでいた。瀬呂くんがソファーの背もたれに両手をついていたせいでぐんと背中が沈み込むのが、少しだけ楽しい。そのまま隣にくる瀬呂くんは何をするわけでもない。ただ、寒いなとか課題やらねえとなとか日常に転がりすぎている他愛もない言葉たちにうんうんと相槌を返しながらまだあたたかいスープにまた口をつけた。


「あ」


瀬呂くんがこちらに手を伸ばして、そのままわたしの髪の毛を耳にそっとかけた。


「髪の毛、スープに浸かりそうだったぜ」
「ありがと、」
「いーえ」


瀬呂くんの指先がほんのちょっとだけ耳に触れて、先ほど喉を通っていったスープの温度より高くなる。ひらけた視界は良好。良好になった視界には、見えすぎるくらいに瀬呂くんの少し悪戯で余裕のある表情を映し出していた。瀬呂くんは、いつもわたしの心をほんの少しくすぐっていく。例えば、頭をぽんとひとつ撫でていくこととか、リュックに新しいキーホルダーをつけたことに気付いてくれることとか。


「みょうじ、前髪切った?」
「…うん!……変、かなあ」
「いーや、かわいいよ」

𓇠


「あと1ヶ月だねえ…」
「ん?…ああ、卒業な」
「うん、卒業」


3月に入ったというのにマフラーはまだ必要みたいだ。マフラーでぐるぐる巻きにしたら、言いたかった言葉まで一緒に閉じ込められたような気がした。吹き抜ける風が髪の毛をさらさらと掬っていく。ツンと鼻が冷たい。隣にいる瀬呂くんも同じくぐるぐる巻きのマフラーに口元を埋めていてふたりしてなんだか愉快だった。


「買い出し付き合わせちゃってごめんね、ありがとう」
「いいのいいの、気にすんな」
「でも、せっかくの残り少ない、休日だったから」
「俺が好きでやってんだからみょうじは気にすんなって」


瀬呂くんはまたわたしの心をくすぐった。A組の子たちはみんな強くて優しいのだけど、その中でもとりわけ瀬呂くんは優しい。膝を抱えてうずくまりたい夜にはあったかいココアをそっと差し出してくれて、無茶すると叱ってくれる。洋服だってお洒落で、女の子にも気を遣えちゃう年相応の男の子。今だって歩幅をあわせてゆっくりと歩いてくれていることにも気づいていた。けれど、この冬でこの関係も、おしまいなのだ。卒業すればわたしは地元にあるヒーロー事務所に、瀬呂くんも地元である都内のヒーロー事務所に就職が決まっている。あと少しだけ、瀬呂くんの優しいところに甘えていていたい。


「あ、電話……切島だ」
「……」
「…もしもーし、ん?ああ今?……今からファミレス?あー、」


ぴた、とわたしの足が止まる。きっと残り少ない学生生活を満喫しようと切島くんたちが瀬呂くんに遊びのお誘いをしていることが想像できる。わたしが足を止めたことに気づいたようで、瀬呂くんが耳にスマホを当てたまま振り返った。びゅうと浚っていきそうな風が背中を押すように吹いた。頬をぴりぴりと刺すほど凍るような風に思わずマフラーに鼻先まで顔を埋めてぎゅっと目をつむる。瀬呂くんは少し眉を下げて笑う。困らせたかなあ。でも、切島くんたちのところに行ってもいいんだよ、と声に出すこともできないわたしは相当我が儘で瀬呂くんに甘えてしまっている。


「悪ィけど俺パスで、……ん、わかってるって、…おー、じゃあまた寮でな」
「……」
「みょうじ?どした?」


なぜだか、泣きそうになっていた。それは、終わりゆく冬になのか、瀬呂くんの優しさになのか。じわじわと目の奥が痛くなって、手のひらをぎゅっと固く結ぶように握る。何も言わないわたしの顔を瀬呂くんが覗き込む。わたしの目に映る瀬呂くんが少しだけぼやけていて、けれど瞬きしたらきっとこぼれてしまう。


「…ご、ごめん、切島くん、からお誘いあったのに、わたし」
「あのな、みょうじ、俺は好きでやってるんだよ。そんな顔させたくて一緒にいるわけじゃねーの」
「瀬呂くん」
「どした?」
「…卒業だね」
「そうだな、卒業だ」


ねえ、瀬呂くん。わたし瀬呂くんのことすごく好きなんだよ。だから、すごくすごく寂しい。もうこの制服だって瀬呂くんの隣だって次の冬には存在しない。瀬呂くんの季節に、わたしはいられない。わたしだけが、この冬に取り残されていくのかなあ。本音を言えない喉に伝えられない熱がマフラーの奥の奥、じわじわと熱っぽい。そんなわたしのことを知ってか知らずか、瀬呂くんがわたしの右手をとった。


「みょうじ、今からふたりでどっか行こう」
「えっ」
「美味しいもの食べて、それからゲーセンとか行かね?」


顔を縦に動かしたらぽろりと一粒、あたたかい涙が頬を伝った。見られないようにさらにうつむいてごしごしと目元をこする。


「瀬呂くん、あのね」
「…嫌だったか?」
「ううん、……海もいこうよ」
「海?!はは、いーよ、行こうぜ。みょうじって時々大胆なとこあんのな」
「そんなこと、」
「かーわいい」


右手は握ったまま、歩き出す。冷たい風だってもう怖くはなかった。すらりと細くて、でも必要な筋肉はしっかりついている背中になら、今なら言える気がする。置いていかないで。この冬に、取り残していかないで。


「瀬呂くん、わたしね」
「うん?」
「わたし、瀬呂くんが」
「ストップみょうじ、先に言わせてくれ。俺も好き」


くるりと振り返った瀬呂くんが今までで一番優しい顔をした、ような気がした。テープでぐるぐる巻きにしなくとも離れていかない手のひらに自然と力が籠る。置いていかないよと応えるように瀬呂くんもぎゅっと返してくれた。わたしが足を止めたってきっとまた、今みたいに振り返ってくれるのだろう。来年もその先も、瀬呂くんの季節にいられますようにと願うわたしの心にぽつりぽつりと芽吹くもの。もう春はそこまできている。


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