地球上の7割は海だという。そんな地球にも発達した人類の過程においても愛されたような個性がW海Wというクソ強ェクラスメイトの女がいた。ひとをいつでも真っ直ぐに見据えるエメラルドグリーンやらターコイズブルーやらをかき混ぜた深海に光が差し込むような色合いがなんとも言えないくらいに網膜に焼き付いていた。水系の個性は救助でも対敵でも重宝される有能だ。その中でも、とりわけ神秘的な個性だった。まあそんなことはいいとしてだ。それだろうと負けているつもりなんざさらさら無かったのだが、俺の目から見てもなまえは技術的にも個性的にも強かった。それ以上になまえが当時から強かったのは、どの相手にでも手を抜かないからだ。舐めプ野郎みてェに相手によって変えることなど一切せず、手なんざひとつも抜かねえ。そういうところを気に入っていた。学生の頃、一対一の対人練習の時あと一歩というところで負けたことがある。運悪く足元を海水で絡め取られ、波飛沫がごうごうと音を立てて俺の身体を包み込んで拘束した。口から出た悔し紛れの罵声はそのままごぼごぼと音を立てて水中で泡となって弾けて散った。その時、視界いっぱいに広がった見覚えのある色は、あああいつの目の色だなあと悔し紛れに考えていたことを覚えている。俺とは相容れないような色のそれは酷く美しいものであった。そんな女に久しく会ったのは、俺たちが中堅と呼ばれ始めた頃のことである。


「あれ、勝己」
「アァ?…ん、なまえじゃねえか」
「ん、久しぶり」


海の見えるコーヒースタンドで並んでアイスコーヒーを待っている時のことである。背中をとんとんと叩かれて振り返ると、懐かしい光を目一杯受けた海中のような目が俺を見ていた。前に会ったのは確か一年半ほど前であったか。俺はその頃から気に掛かっていることがある。左手の薬指に光る指輪のことである。なまえには、その頃から付き合っている彼氏がいるようであった。一度街中でも見かけたことがある。声はかけなかったが。優男、というような男であったがどこか胡散臭い笑みの男だった。なまえにべったりな様子は見て伺えた。俺の勝手な偏見ではあるが、大人になって簡単にペアリングを贈る男を俺は信用できねえし、何よりもなまえの瞳の奥が濁って疲れたような色と困ったように下がる眉がどうにも引っかかったのである。


「お前まだ付き合っとんのか」
「…失礼だなあ、付き合ってるよ」


砂浜を蹴ったら、澄んだ海に泥が広がり渦を巻くようになまえの目の奥が、一瞬だけ濁った。

***



「クマやべえぞ」
「、はは」


濁りを感じたあの日から奇しくもなまえと現場が一緒になることが度々あった。同じ現場が続いた何度目かの仕事でのこと。何匹熊飼っとんだというくらいになまえの目の下が真っ黒であった。ああたぶん、どうせ。


「今日は帰ってさっさと寝ろや」
「うん、でも勝己だけに報告書まとめさせるのも」
「ぶっ倒れられたら困るわ」
「…….ああ、うん、そう、だよねえ」


のろのろと立ち上がるなまえの足元が一瞬ふらりとぐらついた。ボールペンを放り投げてなまえの細い腕を掴む。


「ごめん、立ち眩んだ」
「ッ、ぶねェな!」
「勝己、もうちょっと、ここにいてもいい?ほら、また倒れちゃいそうだから」
「…帰れねェ理由でもあんのかよ」
「…!!」


黙るなまえの顔を見ることもなく、ボールペンを拾い上げてまた走らせる。なまえからの返答はない。紙とペンの擦れる音だけが響いていた。これ以上追求して声を掛け続けるのも違う気がして、書類に意識を集中させた。ぽたり。机の上に、ひと雫、小さな小さな水たまりが出来た。それはあっという間にもうひと雫、またひと雫と重なって広がっていく。ゆっくりと、顔をあげたらその綺麗な瞳をいっぱいいっぱい潤ませて、堪え切れない雫をこぼすだけのなまえがいた。ガキみてェに小さくしゃくりあげながら肩を揺らすなまえに舌打ちをすると同時に体が勝手に動いて、腕の中になまえを閉じ込めていた。何やってんだよ俺。掛けてやる言葉も見つからねェままだったが、対等に肩を並べ続けてきたこの強い女が傷付けられるのが妙に悔しくて苛立った。


「帰れんのか」
「うん、…ありがと」


ぱちんと事務所の電気を消したら、「ねえ」と後ろからなまえの声が呼び止める。


「わたしさあ、疲れちゃったのかもしれない」
「…」
「悪いひとじゃないと思う。浮気とか、そういうのはなくって。でも、やっぱり、愛だって言って都合の良い解釈をされ続けるのって、しんどいなあ」
「W悪いひとWじゃねェだと?ンなぬるいこと言っとる場合じゃねえだろがよ」
「…」
「情に絆されとんじゃねえぞクソが」
「かつき、」
「なまえのこと、傷つけとんだろが。てめェの気持ちを踏みにじって都合のいい解釈で押し付けとんだろが。それがお前のいうWいい奴Wかよ」


暗闇に目が慣れて、なまえの唇がふるふると震えるのが見えた。月明かりがぼんやりと照らす。海中で酸素を吐き出しすぎたみたいに苦しい。先程腕に閉じ込めたなまえの冷たい肌の感触が蘇って妙に頭を冴えさせた。俺は、こいつと対等に肩を並べてきた。深海から見上げて、光が差し込むようなやわい光を持つその瞳を純粋に美しいと思っていた。ああ俺は、この女を。

***


気まずいという思いを抱くほど俺は繊細ではないようだ。寧ろ、なまえにイライラとしていた。勿論、相手の男にもだ。俺の言葉で自分の中の辛いという感情を肯定されたことが分からないほどなまえは物分かりの悪い女ではない。それなのに、それなのに、だ。なまえの左手の薬指にはなお平然と指輪が佇んでいた。ハア?と思った。結局なまえは変わってしまったんだろうか。変わっていくことは当たり前なのだが、知らねえ男になまえが傷つけられとるのがクソムカついた。何故クソムカついているのかというと、あれから麗日や芦戸とたまたま現場で会った時になまえの彼氏とやらのことを聞いたのだ。なまえの彼氏とやらは、まあよくいる優男らしい。が、如何にもこうにもいけ好かねえやつらしい。なまえの愛情を盾に自分の悪意を肯定したり、正当化したりするようだ。なまえと飯を食いに行った時も何度か電話が掛かって来ることなどよくあることで、その度に電話の向こう側からまくし立てるような男の声に幾らかの違和感を感じたようだった。なまえに心配の言葉を掛けても、「大丈夫」の一点張り。別れを切り札にするようなことも少なくはなかったということも聞いた。陰湿な男だと思う。俺はなまえと男の間にある積み重ねてきたものを知らない。知りたくもない。けれど、なまえの透明度がこれ以上くすんで失われていくのを黙って見ていられるほど冷静にもなれなかった。この感情をどうしたものか。ぐずぐずとまだ火種を残す感情。そんなことを考えていたら、クソでけェため息が出た。

***


苛立ちはなお、俺の中に沈んだままだった。そんな時に偶然にもなまえに会ってしまった。あのコーヒースタンドでのことだった。なまえがアイスコーヒー片手に海を眺めている後ろ姿が目に留まった時に、潮風に穏やかな波のような髪が軽やかに凪ぐ。


「よォ」
「えっ、勝己、なんで」
「通りかかっちゃ悪ィかよ」


気づいたら近づいて声を掛けているほどに俺の中で切羽詰まったような、どこかもどかしいような感情が喉元につっかえて息苦しい。なまえの隣になまえがしたように柵にもたれかかって無愛想な返事をした。視界に少しだけ映されるゆるりと回る観覧車と菫色の空に点灯され始めたイルミネーション。ドラマならロマンチックに違いねェ。俺たちの間にはロマンスのカケラもなく、少し潤んでいるなまえの瞳と睨みつける俺の無言の視線が交わされる。わけがわからない。そんな顔をしたなまえのきゅっと結ばれた唇に少しだけ視線を落とす。


「また帰らねェ理由作ってんじゃねえのか」
「、っ」


真っ直ぐに強くて、誰かを助けるのには躊躇いなんてひとつもしねェくせして助けてほしいなんて一言も言えないような強がりで、そんな女が目の前で喉元まで出掛かったエスオーエスを飲み込んでいる。辛ェんじゃねえんかよ。そういう視線を送ったつもりだったのに。なまえが不意に左手の薬指の枷みてェなそれに小さく触れた。


「ねえ、かつき、」


絞り出したなまえの声がぼんやりとした海と空の境い目に消えていく。それと同時になまえのポケットの中のスマホが震えた。ハッとするなまえの目の奥と、いかなきゃ、と微かに、本当に微かに呟いたなまえの唇。ブチっと俺の中の堪忍袋が切れる音が確実に聞こえた。


「行くんじゃねェ!」
「だ、だって、また、」
「また、なんだよ?!てめえそんな弱い女だったンかよ!!彼氏とやらに何されとんだよ!!」
「わかれるって、また言われちゃうから、」
「縛られとんじゃねえぞ、そんな枷にも、言葉にも!何を簡ッ単に、傷つけられとんだ馬鹿なまえ!」
「かつき、わたし、どうしよ、どう、したら」


海が、溢れる。薄暗くなった空でもよく透き通るそれはどうしようもなく美しい。へにゃりと情けなく、頼りなく、口をへの字に曲げて、眉をこれでもかというくらい落としたなまえの子どもみてェな顔に胸の奥がぐるぐると疼く。す、と頬に触れるのと同時に生暖かな水滴が指先をしっとりと伝った。


「勝己、たすけて」


そのまま抱きしめたい程の切ないような息苦しさが喉の奥でくすぶった。俺の手を包み込むのかという程流れるそれは人の数倍塩辛いんだろうか。こつりと額をくっつける。それを拒否しないなまえは俺のことを男として見てくれているのだろうか。それなら、だ。


「怖ェなら、一緒にいってやる」
「うん、…うん」
「だから、俺のために笑えや」


なまえがきゅっと俺の服の裾を控えめに掴んだ。頬に少しだけ触れた唇をかすめた涙は、ああ、やっぱり塩辛い。


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