どれくらい眠ったのか分からない瞼に、南国のパッションフルーツのような強い西陽が射し込んだ。どこか落ち着く薬品のにおいの染み付いた乾いたシーツにずんと沈んだ頭を少しだけ持ち上げる。壁に掛けられた日めくりカレンダーを見る限り、まだW今日Wで間違いないみたいだ。この時代には個性という名の非日常的日常が当たり前のように存在していて、それはわたしたちにとってW平穏WとかW普通Wとかいう言葉たちで飾られているものだ。それでもアメコミ映画さながらの平穏は、敵の襲撃によって吹き飛んだのである。
日常の崩壊なんて一瞬なのだと知った。悪意、というものがどういうものなのかを知った。実習で校外に出ていた時のことだった。相澤先生の振り返り際になびいた髪の隙間から見えた見開いた目と、「下がれ!!」の一言と心臓にずんとのしかかる爆発音。それは、プロヒーローであるならば当たり前に通る悪と対峙するということ。ニタニタと君悪く笑う口の端からどろりと汚濁した沼のような悪意が自分たちに向けられているのなんて高校生であるわたしたちにも安易に想像がついた。深淵から手招きするのうな怨霊の如く喉元に尖った爪が、ひとつ、ふたつ、と喉元に突き立てられていくような感覚。
「個性、使えねェ…!」
右斜め後ろにいた切島くんが、掠れた声で呟いた絶望の一言と横目に映った爆豪が小さく舌打ちをしたのが聞こえた。個性を発動しようとしていたらしい爆豪の左手が小さくパチリと不発の火花を散らす。敵の中に、恐らく相澤先生と同じような個性持ちがいるのかもしれない。弱点、隙、仲間との連携。駆け巡る思考はどうやら複雑には働いてはくれないみたいだ。相澤先生も自分を含め個性が使えない今、背後に生徒がいるとなっては下手に動けないみたいだ。足が震える。鼓膜がぴり、と震えて、背筋が下から這い上がるように戦慄く。
「明日の新聞は、雄英不祥事再び、生徒職員全員死亡、だなァ!」
ゲラゲラと下品に笑う男の声と衣服の繊維を引きちぎるような音と共に敵のひとりの背中から棘が生え始める。ああ、これは、まずい。額を伝った汗が睫毛をゆっくりと伝っていった。
「(あ、れ…)」
なんとも言えない、身体の中の血流が戻ってきたような、ふ、と緩んだような感覚に、個性の使用が可能であることに気づいた。力を込めたふくらはぎにくんと力を乗せる。「みょうじ、やめろ!!」相澤先生の怒号が聞こえた時には、もうみんなの前に飛び出していた。手を大の字に広げたところで、全員を守れるわけではないというのに。こんな悪足掻き。それでも指の先の先までぴんと糸を張るように伸ばす。
「だい、じょ、ぶ!」
「みょうじッ!!!」
「なまえ!!!」
みんなの悲鳴にも似た叫び声と絶望に鷲掴みにされたような目。それに気づいた時には引き裂くような、という表現だけでは足りないほどの痛烈な痛みが背中や手のひらを貫いた。ごぼり、と喉が鳴る。ぼたぼた地面に吸い込まれていく赤は、なんとも言えない不気味さを演出している。震える拳をぐっと手のひらに爪が食い込むほど握り締めて敵の方へ体を向ける。がくん。有りっ丈の力を込めていた片膝が落ちる。これは、まずいかもしれないなあ。個性の使用が可能になったクラスの面々が膝をついたわたしの横を駆け抜けていった。霞む視界と、交戦する爆発音やら個性がぶつかる音。だんだん遠くなる。目の前の現実が霞んで虚となる。
「なまえ!大丈夫?!しっかりしな!ねえ!」
「なまえちゃん!だめ、もどって、!」
響香とお茶子ちゃんがわたしの崩れ落ちる身体を支えてくれているのだけはわかった。ふたりの悲鳴にも似たわたしを呼ぶ声と徐々に薄れていく感覚。しんじゃう、って、こんな感じ?でも、よかったのかもしれない。わたしの命ひとつで、みんなが助かるのだから。よかった、よかったんだ。
「なまえッ、目、覚まして、良かっ、」
日常にぐんと手を引かれる音がする。目を覚ましてからは腫らした瞼と真っ赤になった瞳からボロボロと涙をこぼす両親の姿に、身体の傷の所為だけではないどこか奥の方が小さく痛んだような気がした。医者から話を聞いたところ、携わってくれた医者や治癒の個性を持つ人たちのおかげで命にも別状はなかった。1週間もすれば、学校にも戻れるらしい。マスコミ対策でわたしには家族以外の人間は面会謝絶が言い渡された。両親もまた明日、と少し安心に揺らいだ笑みを残して一旦家に帰った後、とっぷりと暮れる夕暮れをバンバン鳴るスマホを片手に見ていた。画面にはたまたまクラスの連絡グループの画面が映し出されていて、わたしの命ひとつ在ったことを喜び合うメッセージが幾重にも重なっている。死に一歩近づいた事実は、今まさにスマホを握りしめている片手にまだ感じているにも関わらず、案外死んでしまうことなんかあっけなく、それでいて簡単なことなんだと思う。ひしめき合うビルたちの明かりが灯りはじめる。そこにはそれだけの人間がいて、当たり前に命を灯している。溜まったメッセージにW生きているWの既読をつけた。
「…心配、かけたよなあ」
皆の文章が頭の中でちゃんとその人の声で再生される。クラスのグループを開くと、クラスのこのほぼほぼ全員からメッセージが来ていたことに申し訳なさと有り難さに胸がいっぱいになる。が、戦闘の際隣にいた爆豪からはメッセージが来ていないことに気づいた。爆豪は、きっとこういうヘマを嫌うだろう。林間合宿の時の爆豪を思い出したら、その話題を嫌ってブチ切れる爆豪が脳内に描かれて苦笑してしまった。目をつむったらこのままシーツに溶け込むようにとろりと眠気が襲う。難しいことを考えるのは、なんだか疲れた。
「みんな、おはよう。迷惑かけて、ごめん」
サイズの割に軽く開くクラスの扉を開けたら、1週間ぶりなのにまるで何年も会っていないようなクラスの面々が目をまあるくして此方を見ていた。さすが、治癒の個性で治してもらっただけある。ほぼほぼ怪我という怪我は残っていない。人間、個性で全て治してもらうと、人間としての組織が衰えてしまうらしく、少しだけ傷を残しているため頬やら腕やらには絆創膏やらガーゼが貼られているが。
「なまえちゃん!」
「みょうじさん、怪我、大丈夫?」
「もう大丈夫なのか?!」
「心配したんですのよ…!」
「いやあ、ほんと、ごめん」
「うちらがどんだけ心配したと思って…!」
わたしの周りをぐるりと囲む1Aのみんなと、半泣きの響香がわたしの肩を軽くはたいた。心配を掛けてしまったのに、へらへらと笑って誤魔化した。笑っていないと、なぜか泣いてしまいそうだったからだ。みんなの肩越しに、ばちりと冷ややかでどこか余所余所しさを醸し出すような視線を寄越す、行儀悪く机に足を乗せる爆豪とばちりと目が合ってしまった。その瞬間、立ち上がって顎をクイッと動かす。
「おいクソみょうじ、ちっとツラ貸せや」
「不穏だなあ、それ怪我人にいう?」
「てめェが勝手にやられたんだろが。さっさと来いや」
「かっちゃん、どこへ…!」
「部外者は黙っとけクソデク」
みんなの表情が複雑に絡まり合うの無理やり解く。大丈夫、とおちゃらけて手を振り廊下に出て行く爆豪の背中を追った。しばらく歩くと、人気の無い廊下でぴたりと歩みを止めた。首だけ此方に向ける。目つきの悪い目が、10倍くらい、より目つきを悪くさせてわたしを睨んでいた。
「な、にかある?」
爆豪とは、まあ割と冗談も言い合う(とは言ってもわたしが一方的にいうだけだけど)ような仲だと思っている。模擬戦で爆豪と組んだら爆豪には安心して背中を任せられるし、信頼もしている。普段の生活でも口を開けば死ねだのクソだの言っている爆豪だが、わたしのくだらない話に絶対何か言葉を返してくれる。彼なりの優しさだとわたしは感じている。悪態をつかれようがど突かれようが、わたしはなんとなく安心できるしどことなく居心地は悪くない相手だと思っている。まあ、爆豪ははっきり言って目つきが悪い。けれど、今までこんな冷淡な、深いところから睨みつけるような顔をしたことをがあっただろうか。
「なんであんなことした」
「だって、咄嗟に、」
「咄嗟に?フザけとんのか?」
「は?何がいいたいの?」
回りくどい言い方も爆豪らしくない。多少苛ついた言葉で返すと、ぐわんと脳が揺れる。胸倉を掴まれて顔をぐ、と近づけられていた。…これは、女の子に対する態度じゃあないよなあ。いつもの3倍くらい眉間にシワが寄っている。いつもなら、そのシワを笑えるほど簡単に軽口を叩ける。でも、今日は、ちがう。いつもの爆豪じゃない。冷静さと焦燥の間で絶え間なく揺れ動くその真紅のガーネットのような、やけに大人びた瞳。
「、やめてよ」
「死のうとしただろ」
「!!」
「あーあーあー、はっきり言ってやるよ。死んでもいいって思っただろ、って聞いとんだわ」
どん、とそのままよたつく背中ごと廊下の壁に押し付けられる。どくん、と心音が喉元に伝わるほど跳ね上がった。心臓が、いたい。唇を噛み締めたら、いつのまにか水分を失って乾いていた。
「命を捨てて盾になる?は?ンなくだらねェことが美徳と思っとんか?」
「そ、れは」
「お前の口から言ってみろや、なァ?」
爆豪は正しい。だからこそ痛かった。命をなげうつのを美徳としたふりをしたことを理由に、自分のやろうとした愚かな行為を肯定し、更には正当化しようとした。鈍った判断力で命を捨てるようなことをしようとした。ヒーローを目指す人間が選ぶにはあまりにも愚かで、あまりにも稚拙な行為。名ばかりの正義感。わたしだって、ヒーローを目指していた。目指していたのに。命を軽く扱うようなことをした。自分の命を軽く見るという緩みと甘さ。それは、わたしを支えてくれる人を悲しませるということ。咄嗟に他人の命すら同等に扱ってしまうかもしれないということ。ちがう、そうじゃない。爆豪は、殉職をバカにしているわけでも、誰かの為に体を張って守ることを悪いと言っているわけでもない。命を軽く見ようとしたことを正当化して、死んでもいいなんて思っていたことにキレているのだ。
「お前が死のうとしたこと、絶対ェ一生忘れてやらねえ」
「うん、それでいい」
「わかっとんだろうな」
「なにが?」
胸のつかえがすっととれた。吸い込んだ空気がすうと透明に肺を満たす。爆豪も言いたいことを言ったらスッキリしたのか、先ほどの冷たさは融け、真っ直ぐ、透き通るような尊い赤がわたしを射た。真っ直ぐな瞳の奥、わたしの影だけが不安定に揺れる。す、と爆豪の胸倉を掴む力が緩んだ。
「だから、なまえは死ぬまで俺の傍に居ろや」
「…うん、…て、なんて、今、」
「二度とやんなよ」
「爆豪、ちょっと」
「イエスで答えたよなァ?」
「ま、って」
「待たねェ」
「爆豪!」
「俺の隣に居させてやるって、なまえに言っとんだ」
そのまま迫る顔に思わず目をつむる。待って、と突き出した右腕はいとも簡単に掴まれてそのまま爆豪の意外と厚い胸板に引き寄せられた。とろりとその薄くて甘い唇は、突然の告白にも等しいその言葉ごと口内に閉じ込めた。唇が離れたら、なんて言おう。もう一回ってお願いしても、ブチ切れられそうだなあ。まあ、いいや。触れ合う睫毛のくすぐったさと爆豪の触れたところの温度に、何度でも、真っ直ぐに生きていくと誓えるような気がした。