「先生…?相澤先生ですよね?」
「お、おお、みょうじ、か…?」
それはなんの前触れもなく、突然訪れた再会の日であった。梅雨も後半、夏が迫っているような蒸し返すような夜のことだ。たまたま仕事の関係で、いつもよりふた駅分ほど離れたコンビニエンスストアにふらりと立ち寄った時のことである。鈴蘭の花が頬を寄せ合い転がるような優しい声色。振り返るといつかの教え子が大人になって此方を見ていた。いや、元教え子と言った方がいいのだろうか。なぜかというと、みょうじなまえという生徒を俺は入学して一年足らずで除籍処分にしたからである。制服を着ていたみょうじの姿が、あの頃よりもずっと落ち着いて大人びた表情をした目の前のみょうじに一瞬重なって弾けるように消えた。
「お元気、ですか?」
「おう。みょうじも、」
「はい、元気です。先生、変わってませんね!すぐに、気付きました」
ひと息ひと息、時々間を空けるような間延びした話し方、そのくせどこかしっかり一筋差し込んだ光のような芯の強さをどことなく感じさせるのは当時と変わってはいないことは何故だか妙に思い出せた。それからは今どうしてここにいるのだとか、何を買っただとか、お互いの今に踏み込むような内容はひとつとしてその場限りで終わってしまうような話をした。ふたり同じようなタイミングで会計を終えたら、先に自動ドアをくぐっていたみょうじが、「あ、」と短く声を出して振り返った。
「先生、今度ご飯でもいきませんか」
それからのことはどうしてだかあまり覚えていなかった。ただ、連絡先を交換したことだけは覚えていて、相変わらずまめなみょうじから連絡が来たのはその日の夜であった。懐かしくて声を掛けたこと、全然変わっておらずなんだか嬉しかったこと、そして、改めてもし俺が良かったらご飯でも食べに行かないかということ。連絡先を業務連絡以外で誰かと交換するのなんて久しぶりだ。こみ上げるなんとも形容し難い感情。恋をしているからとか、懐かしさで、とかそういうものとは少しだけ違うような気がした。高校の時もクラスメイトの女とこうやって連絡先を交換したことがあったなとなぜかその光景が脳裏に浮かんだのである。お店を予約し、時折連絡をとる。以外と気怠くはない名前のつかない関係。ほんの少し、少しだけ、なんとなくあたたかみが芽吹くように口もとが緩むことがあった。毎日それの繰り返しを重ねれば、その日はあっという間にやってくる。
「先生、今日はお時間頂いてありがとうございます」
「いや、大したことじゃあない」
みょうじと待ち合わせした駅から徒歩約15分の落ち着いた喫茶店。みょうじのいきつけだという。BGMにしてはおとなしいオルゴールの音と湯を沸かすコポコポという音。磨りガラスを通した光が、みょうじが揺れるたびに合わせて揺らいだ。水滴を纏うガラスのコップからポタポタと雫が落ちる。スカートの染みを気にすることもなく、みょうじはレモネードの海に漂う氷山たちをストローでかき混ぜ、涼しげな音を立てた。それは、不浄を知らないかのような伏せた長い睫毛とやわく緩めて微笑みをのせたその唇が絵画の中の聖母のように美しいものであった。
「みょうじ、お前除籍な」
もう数年前、みょうじに言った言葉を思い出すのと同じくらいに、レモネードをひとくちこくりと飲んだみょうじが、その水晶のように澄んだ瞳を真っ直ぐに向けた。
「せんせい、」
「…」
みょうじの学生時代の頃のことを今一度振り返ろうと思う。みょうじは俗に言う、ヒーロー家系に生まれ育った。彼女の父親も母親も確立した事務所を持ち、世間的に名の知れたヒーローであった。当然、みょうじもその道を歩むものと思われていた。そんな約束されたような未来を絶ったのは、紛れもなく俺なのであるが。成績に対しても個性の扱いに対しても、どれをとっても文句のつけようのないみょうじをどうして除籍処分にしたのか。
「相澤先生?」
「なんだ」
「ありがとうございました」
「…何の話だ」
昔を思い出していたら、一瞬ぼんやりとしていたらしい。わかりきったような顔をしてみょうじの真っ直ぐな視線を再度見やると、ああやっぱりこいつは除籍にして正解だった、と思う。みょうじの瞳の奥の奥にある信念が変わりなくそこに灯されていたからだ。理由は何であれ信念無き者にヒーローは勤まらない。みょうじに信念はある。しかしどうしても、その先にヒーローという未来は宿されていなかったように感じた。何度も振り返って、足を止めて、生まれている迷い。みょうじがヒーローを目指していないのは明らかな事実であった。
「先生、わたしを除籍にしてくれたの、わたしの夢を叶える道を作ってくれるためですよね」
「さあな」
「へへ、でも、先生のおかげなんです。レールの上を歩くことしか出来ず、かといって脱線する勇気もない。意気地なしで優柔不断なわたしの背を押してくれました」
みょうじがちいさく肩を揺らして笑う。こんなことを思うのはガラでもないとは思うが、やっぱり、そよそよと風に揺れる鈴蘭の花を思い出した。みょうじと再会したはじめての夏のことであった。
「わたし、夢だったお医者さんになれました」
「せんせい、」
次にもしも、もしもだ、相澤先生に出会うことがあれば伝えようと思っていた。ひとくち飲んだレモネードはいつもよりも酸っぱく感じる。相澤先生の表情の外っつらからは十数年間と変わらずその思いは読めない。除籍をした生徒などと会いたくはなかったのかもしれないし、そこまでの感情に至るまでもなく数いる除籍処分されたいち生徒というくらいでどうとも思っていないのかもしれない。けれど、わたしは相澤先生の厳しくも優しい決断をきっかけに憧れていた医者となれたのだ。だから、会えたら伝えようと思っていたのだ。
「ありがとうございました」
まさか、再会してから3年ほどもこの関係が続くとは思ってもみなかった。相変わらずわたしはこの喫茶店を気に入ってたびたび足を運んでいた。以前と変わったことといえば、向かい側の席に相澤先生がいることだった。意外にも相澤先生はわたしのお誘いを断らずにいてくれているのである。また、わたしが相澤先生を誘い続けるのにも理由ができた。
「(かっこ、いいなあ、)」
コーヒーを飲みながら小説を読む相澤先生の伏した目がちらりと長い前髪から見える。かつて教師だったひとにこんな感情を抱くのは間違っているだろうか。わたしの誘いを断らない相澤先生の優しさに、わたしはまた甘えてしまっているのだ。名前のつかない関係にとぷりと浸かる。相澤先生は、どう思っているのだろう。幾度となくこの感情を否定しようとした。かつてわたしが医者になるという夢を否定しようとしたように。何度考えても、あの頃のわたしや除籍処分を言い渡した時の先生、それに、除籍されてから自分で敷いたレールにひたむきに向き合ってきた自分が、それで良いのかと何度も何度も問いかけてきた。今の自分だってそうはさせてくれなかった。
「そろそろ行くか」
「はい」
何回繰り返しても寂しさは大きくなって心にぽとりぽとりと山を積み重ねる。夕焼けの空に相澤先生のすらりとしたシルエットが伸びていく。先生を好きになった理由にこれといった明確なものはない。先生の纏う空気が驚くほどに優しく、肌に触れると潤うように弾けて綿菓子のような甘さに包まれる。ただ隣を歩かせてもらっているだけで、心臓が愉快に鼓動を打ち鳴らす。他愛もない話なのに、耳がそれを限りなく覚えている。夕暮れによく映える黒猫のような飄々とした背がこれほどまでに男の人として愛おしいものであるなんて。
「せんせい」
「なんだ」
「好きです」
「……は、」
振り返った瞬間、思いがけずぽろりと零れ落ちた言葉。相澤先生だけに向けた言葉。重たい瞼をくいっと持ち上げて驚いたような相澤先生が足を止めて固まった。夕暮れに溶けていく2人の影。ああ、思わず言ってしまった。あまりにも、愛おしかったから。けれど、相澤先生の返事は思わしいものではない、のかもしれない。突き進むと決めたら後悔はしない。あの頃そう信じて進んできたのに、いざ玉砕を目の前にするとその影に溶け込んでしまいたくなる。
「あれ、相澤先生…!?お久しぶりです!」
「先生誰っすかその綺麗なお姉さん!」
「もしかして、恋人、ですか…!」
はっとぼやけていた視界が戻る。相澤先生を知っているかのような口ぶりに振り返る。見たことある子達だ。ここ数年でプロヒーローデビューした、デクと烈怒頼雄斗とウラビティだ。ヒーローコスチュームに身を包んでいるところ、見回りとかだろう。どうやら相澤先生の教え子らしい。会話こそ聞かれてはいなかったものの、状況を考えると恥ずかしさと気まずさでいっぱいである。相澤先生の表情なんて、見られたものではなかった。「あー、」小さく相澤先生が気まずそうな声をあげた。
「ああ、これからなる予定の人だ」
「ええええ!」
「まあそういうことだ。お前らさっさと仕事に戻れ」
「ちょ、先生!今度詳しく聞かせてくださいよー!」
す、とわたしの腕をとる相澤先生と呆気にとられるやら騒ぐらやらのプロヒーローの子達。その子たちに小さく会釈をして相澤先生の歩調に合わせた。肩で呼吸をするほどに、飲み込みない現実と何度も何度も繰り返された言葉。それって、それって。
「先生、」
「なんだ」
「わたしのこと、その、恋人にして、くれますか?」
「ああ。好きだよ、なまえ。先に言われたがな」
短い返事。他人から見れば愛想のない素っ気ない返事。それでもその数文字がひどくわたしの心を揺さぶる。絡めた腕と指の先まで全部全部相澤先生のものになりたい。相澤先生もわたしと同じ思いを、心に宿してくれていた、というのだから。ぴったりとくっつく影があまりにも仲良さげに見えて、そっと、ほんの少しだけ肩を近づけた。もう少し、このまま腕を組んで歩いて、それでいて近所の公園なんかに寄ったりして、そうしたらもう一度、相澤先生に思いを伝えてもらうのだ。