勝己くんが、恋人になった。だからと言って砂糖を舐めるように甘ったるいことはなくて、けれど勝己くんの不器用過ぎるほどの優しさに何度も口もとを緩ませた。半ば強引とも言えるキスはあの日だけで、あの後勝己くんの口から飛び出した余りにも真っ直ぐな「好きだ」という言葉はわたしの心にストンと着地した。勝己くんは思っていたよりもずっと優しかった。あの遠慮を知らない口ぶりで、もっともっと強い言葉を掛けられるのだとばかり思っていたから少し拍子抜けもした。半月も経たないうちに、わたしは勝己くんのことを大好きになった。例えば、骨ばった男の子の手のひらは個性のせいだからかいつも熱いところとか、太陽の下に出ると髪の毛一本一本が陽に透けて、光を目一杯に吸い込んできらきらと反射する波みたいでとても綺麗なところとか。ふたりの時、少し落ち着いた声色でなまえ、と呼ばれると、自分の名前が特別素敵なものに感じるくらいに勝己くんのことが好きだ。



「あの、勝己くんいますか」
「あれ…?!みょうじ先輩?!」
「わあー!みょうじ先輩だ!」
「こ、こんばんは」


勝己くんが珍しく忘れ物をした。インターン先で忘れていったタオルを洗濯をして1年生の寮に届けにきたのだ。緊張でドキドキする心臓の辺りをぎゅっと掴んでA組の寮の扉を開けると一斉に振り返る顔にどんどん俯きがちになる。声をきちんと出せたのかも分からないほどに右肩下がりの声量に情けなくなる。失敗したなあ、と思った。今年の1年A組は、何かと有名で3年のわたしたちのところにもいろいろ話が届いている。勝己くんは、その中でも話題性は抜群に高い子のひとりだった。岩肌にぶつかる荒波のように粗暴なところもあるのに彼の生まれもったカリスマ性は兎に角ひとを惹きつけた。そういう星のもとに生まれたひとなのだ、勝己くんとは。そんなことを考えながら視線をやや上にあげると、ネットニュースやCMで見た子たちが目に飛び込む。決して派手やら華やかとやら言えないわたしとは違って、どの子も華があって、そして、可愛い子も、たくさんいる。ざわざわとわたしに詰め寄る子たちの言葉にどう返していいのか分からないまま、ガチガチになったわたしはなぜか片言の挨拶をするくらいしかできない。勝己くんに先輩扱いされなかったのも今なら素直にうなずける。


「なまえ」
「おっ、ばくごー!彼女きてるぜ!か、の、じょ!」
「黙れアホ面爆破すんぞ!」


低くてもちゃんと鼓膜に届く勝己くんの声にはっと顔をあげると金髪の男の子に突っかかる勝己くんの横顔が見えた。タンクトップ姿の勝己くんはなんだか新鮮だ。それに、ちゃんと、彼女だって言ってくれてるんだ。勝己くんに会えた嬉しさとW彼女Wだと知らせてくれていたその気持ちが素直に嬉しい。わたしはいつも勝己くんにしてやられる。不意に手を繋がれたことも、校内でわたしよりも先にわたしの姿を見つけて声を掛けてくれることも、こんなわたしをなんの恥ずかしげもなく彼女だと堂々と言ってくれることも。火照りが登ってくる頬を両手でぐっと押さえつけた。


「ここじゃうるせェ、部屋行くぞ」
「え、…えっ?!」


タオルを渡しに来ただけだったのに、何やら大事になった気がする。勝己くんの言葉をまだまだ飲み込めないまま、1年A組の子たちの波間をかき分けてずんずんと引っ張られる。ぱっととられた腕は掴まれたところだけがやけに熱く、少し冷たくなってきた空気が気持ちいいくらいに感じる。それは、先程自分の部屋で飲んできたココアの温度によく似ていた。すたすたと歩く勝己くんの後を追って、そのままエレベーターに乗り込んだ。


「勝己くん。タオル忘れていったから、それだけ」
「……」
「あの…?」


黙ってついてこいということなのだろうか。そのまま勝己くんの後ろを歩いて、部屋に通される。小さくお邪魔します、と呟いた声は勝己くんに聞こえていたのか聞こえていなかったのかは分からない。勝己くんの部屋にこんなに簡単に入ってしまった。ん、と指差されたベッドの前のフロアクッションに座ったら勝己くんのにおいが鼻先をくすぐる。喉元で鼓動を強く感じるほどに力強く脈打つ心臓丸ごと勝己くんのことでいっぱいみたいだ。窓の外が、蜜柑色と紺青色に混ざり合って、溶け合っていく。


「…ちっせェ手」


いつの間にか勝己くんがわたしの後ろに回り込んで、そのまま抱きすくめるようにわたしの手のひらを握った。ひとつになってしまうほど、近い。ギシ、と勝己くんの座るベッドのスプリングがちいさく音を立てた。ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に勝己くんがわたしの手をあまりに優しく握ったものだから、後ろにいる勝己くんの存在をより強く意識してしまう。かつきくん。名前を呼ぼうとしたのに、喉が砂漠みたいにカラカラに枯れてしまったみたいだ。タンクトップから伸びる意外に色白なのに男の子を意識させるほどのしなやかで逞しい筋肉質な腕。


「…なまえのにおいがする」
「勝己くん、あの、」


わたしの首筋にすんすんと鼻先を埋めたら勝己くんの髪が頬に触れてくすぐったかった。唇が首筋に触れているのか、くすぐったさが背筋をのぼる。勝己くんと付き合ってわかったこと。勝己くんは意外と寂しがりで甘えただ。体育祭の後日放送の画面越しやインターン先で見た勝己くんはいつも負けん気が強くて、後ろなんて絶対に振り返らない。目の前のことだけでなく、その先の先まで見越して絶対に目を逸らさない勝己くんの背中はいつも逞しくて、真っ直ぐで、透明に透き通っていて、わたしは密かに憧れていたのだ。けれど、ふたりの時の勝己くんは時折大型犬が甘えるようにぴたりと体を寄せたり、口数こそ少ないものの触れようとしたり、普段の導火線にいつ火が着くかわからないような勝己くんとは違う。


「……会いたかった」
「えっ、!?」
「クソ!毎回毎回一回で聞き取れや!二ッ度と言わねェ!」


思いがけない言葉に思わず振り返る。あんなに苦手だと思っていた鷹のような鋭い赤い瞳が今ではこんなに愛おしい。勝己くんの頬っぺた、わたしと同じくらいに赤い理由、思っていたよりも自惚れてもいい?わたしの顔が緩んでいたことに気付いたのか「んだよ!」と口もとを押さえながらいう勝己くんはちっとも怖くなくて、年相応の男の子だった。ふたりの時の勝己くんが完全無欠の男の子じゃないといい。勝己くんが、あんまりかっこよくなりませんように。



勝己くんと初めて迎えた春は、別れの季節だった。まだ蕾のままの桜たちがほんのり冷たさを残した春風に揺られてこそばゆく体を寄せ合う。深緑のプリーツが歩調に合わせて高らかに動いて愉快で、胸元を彩る花たちは門出を祝福する鮮やかさで笑っている。わたしは都内にあるインターン先にそのまま就職を決めたし、仲の良い友達とは離れ離れになるものの皆志したヒーローデビューを目前に未来への期待を高めた。わたしだって控え目ながらそう思っている。それでも心のど真ん中に鎮座しているたった一人の人間に後ろ髪引かれてばかりなのはどうして?卒業式も終わりかけてクラスのみんなと涙ぐみながら談笑をする頃、ポケットで静まり返っていたスマホが揺れる。差出人は心にずっと居座る勝己くんだった。おめでとうでもなく寂しいでもなく、「中庭」と一言だけ残されたメッセージには最早愛おしさしかないほど、わたしは勝己くんが特別みたいだ。


「なまえ」


身体を通り抜け、透けるような中庭の緑が眩しい。そういえばあの日もこんな風に緑が輝く日だったなあ、と思い出す。相変わらずつんけんとした目が新緑によく映えて綺麗だ。ポケットに突っ込まれた手をそっと出してその手をこちらに向けて腕を引かれる。勝己くんの心臓の音とやけに温度の高い頬だけが世界だった。おめでとうとは言わない不器用さに勝己くんのだらしなくはみ出したカッターシャツの裾ごと抱きしめたら少しだけ鼻先がツンと痛くなる。勝己くんは多くは語らない。


「勝己くん、さみしい?」
「……んなわけ、」
「わたしは、さみしいな」


勝己くんは多くは語らない。多くは語らないけれど、心臓や頬っぺたは素直で、飲み込んだ言葉の多くの裏側に大きな思いを持って生きている。勝己くんが言えないぶんをわたしが伝えられたらいい。さみしい、さみしいな。ちょっとだけ、涙が出た。


「すぐ追いつく」


甘ったるい言葉のひとつも言えない勝己くんのかわりに、わたしの頭ごと抱きしめた手のひらが大人びたふうに撫でる。今日だけは気取って丁寧に編み込んだ髪の毛のことを気にかけて撫でてくれていることも、勝己くんの指先が少しだけ気付かれないように震えていたことも、言葉の端っこがちょこっとだけ弱いことも、同じ気持ちだって自惚れてもいいかなあ。勝己くんと初めて迎えた春は別れの季節だった。木苺のジャムみたいに甘酸っぱくて、飲み終わりのコーヒーみたいに寂しい。それでもわたしは勝己くんを選んだのだ。寂しい気持ちが育って姿を変えて、わたしの中に強く強く芽生えた愛情をずっとずっと守りますように。



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