透明の炭酸水がこくりと喉を通るのと同じくらいにぱちりと鋭児郎と目が合う。一通りの近状報告を終えて、改めてすこしがらんとした鋭児郎の部屋を見渡した。雄英が寮制度を導入することになったのは、もう3ヶ月も前のことだった。鋭児郎と会わなくなったのも同じくらいの時期からだ。西陽が差し込む窓を背に座るわたしを眩しそうに目を細めて見やる彼は随分と遠くの世界に住んでいるひとのように大人びて笑う。他愛もない話を何も考えずに繰り返して、ふと思う。もうホットケーキを焼いてとせがむ鋭児郎も、わたしを姉のように慕う幼い鋭児郎もそこにはいないのだわ。お互い何となく言葉を発さず、視線を交わしたまま、なるべく平常を保って、少しだけかしこまって問う。


「なあに」
「んー、なんも」


ふたりの時の鋭児郎は懐いた仔犬のようにあどけなく、それでいて時折すこしだけ無口だ。それは頭を真っ赤に染めてつんつんとさせた今も変わっていなくて、肩の力が少しだけ抜けた。しゅわしゅわと輝く炭酸の泡がコップの中で弾けるのを横目に、鋭児郎のたくましく育った腕をちらりと盗み見た。みるみるうちにたくましくなった身体はそれだけ会えない時間を知らせているみたいで悔しくなってそのまま行儀悪く鋭児郎のベッドに倒れ込む。鋭児郎は、わたしの気持ちを知らない。知らない場所のように当たり前にそこにある天井を見つめてから少し目をつむったら、はあとひとつため息が溢れた。スマホのディスプレイに鋭児郎の名前が映し出された時にはにやにやと溢れそうになる笑みを抑えるのに必死だったくせに。鋭児郎がわざわざ外出許可を取って部屋を片付けて招いてくれたのに、会えない間の鋭児郎のことを考えてこんな風にいじけてしまうわたしはなんて嫌な女になってしまったのだろう。


「…あーあ」
「急にテンション低いのな、久々に会えたっつーのに」
「んー」
「…そーいやクラスのやつらになまえちゃんの写真見せたら可愛いって言ってた」
「見せないでよー」
「はは、いいじゃん」


ねえ、鋭児郎。いつからそんなふうに目の奥にしっとりとした強さを蓄えていたの?スマホのニュースに鋭児郎もとい烈怒頼雄斗の活躍が載った記事、スクリーンショットをとって帰り道ほんのちょっぴりスキップなんてして喜んだこと知らないでしょう?会えない間も鋭児郎の隣をキープするおまじない、W鋭児郎の幼馴染みWの効力はあとどれくらいあるの?気になる女の子は、いたりする?浮かび上がる疑問はどれをとってもうまく伝わる気がしなくてお腹の中をもやもやと泳ぎ続けるだけだった。それでもやっぱり鋭児郎は鋭児郎で。さらにきつくなった西陽に目を細め、鋭児郎がカーテンをそっと引く。さっきより少し薄暗くなった部屋でもわかる輪郭の逞しさにきゅっと喉の奥が苦しい。


「……鋭児郎はさあ、かっこよくなったね」
「えっ?!お、俺?!」
「鋭児郎以外ここにはいないでしょ?」
「そ、だけどよ」
「もう、何でも守れちゃう男の子になっちゃったね」


いつの間にかベッドのふちっこに腰掛けた鋭児郎がわたしの顔をそっと覗き込んでいたから、どきりとはねる心臓に悔しくなる。だから、大人になりきれないくせに大人ぶって、本心にほんのちょっぴり毒を混ぜて吐き出した。ギシリとベッドのスプリングが鳴く。頭をかきながら少し口を尖らせた鋭児郎の脇腹を軽く小突いて起き上がる。


「いてっ」
「…帰るね」
「えっ?!まだ、」
「3年生だから、受験勉強があるの」
「…あ、なまえちゃんは進学希望、だったよな」
「うん、だから、今日はありがと」
「……おう」


玄関先まで送ってくれた鋭児郎の眉が下がるのを見て見ぬ振りをした。違う道を行くという現実を、垣間見たような気がした。寂しさに存在意義を託すなんて、なんて馬鹿なの。幼馴染みの枠に収まりたくないのに、行儀良く収まろうとするW近所のお姉ちゃんWで満足しようとしているずるいわたしを許して。


「待ってくれ…っ!」
「えいじろう、」
「あのさっ」


寂しいところ、手繰り寄せて、手繰り寄せて。鋭児郎の家が角を曲がれば見えなくなるというところまで来ていた。それなのに、簡単に呼び止められて、でも、鋭児郎の声がわたしの名前を呼ぶと、嬉しくって。振り返ったら、駆け寄ってしまうかもしれない。わかっていたのに振り返ってしまった。鋭児郎がほんの少し、息を乱してわたしの名前を呼ぶ。


「なまえちゃん!あのさ、アイスあるからさ、半分こ、しねえ?」
「……」
「……あの、?」


そうだ、そうだった。落ち込んだりもやもやを抱え込んだ時にはアイスを半分こしてたんだ。パキッと真ん中で割れる、ソーダ味。割った方が大きいと相手に譲り合ったあのアイスのこと。夏には溶ける溶けると慌てて食べたし、冬には寒い寒いと馬鹿みたいに凍えて食べた。その時わたしたちはいつだって馬鹿みたいに笑っていたんだった。日常に転がるそれ達を愛だなんて格好のいい言葉で呼んでもいい?


「なまえちゃん…?」
「…いーよ」


少し切ない顔をして、何か決意を固めたような真剣な眼差しで鋭児郎が、そのままわたしの手をとって歩き出す。手を引いて歩いていたのに、いつの間にかわたしが手を引かれる側になっちゃったね。けれど、昔と違うこと。小学生でもわかる、男の子と女の子が繋いだ手に込めたもの。ねえねえ、鋭児郎。同じ思いを抱いているって、自惚れてもいい?言葉には出さず、けれど手を離すこともない絡まったままの指。手を引く意味は、まだ伝えないまま。斜め後ろから手を引く鋭児郎の頬が夕暮れの色を映して優しさを乗せていた。



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