わたしは、かっちゃんのことをよく知っていると思う。知らずのうちにかっちゃんの習慣だとか性格だとかクセだとかが生活に染み付いて、当たり前になっていた。そりゃあそうだ。わたしは、かっちゃんの妻になったのだから。それでも。


「どうした」
「…ううん、なんでも」


小川のせせらぎのように穏やかなBGMが優しく静かに包み込む。いつの間にかそれに意識を流されていたらしい。かっちゃんに覗き込まれてはっと焦点を合わせると、またかっちゃんは書類に目を落とす。こんな穏やかな目をしたかっちゃんを見ることができる日がくるとは10年前のわたしは知らなかった。かっちゃんと、まさかこんなところに来る日がくるということも。


「結婚式、すっか」
「…………え?」
「んだよその間」
「いや、かっちゃんがそんな、結婚式なんて」
「悪ィかよ」
「悪いとかそうじゃないとかじゃなくって、なんか、意外で」


仕事帰りのことだった。春の夜は焼きたてのホットケーキみたいにふかふかとあたたかくて、芽吹く草木のいいにおいがする。アイスが食べたいというわたしの我が儘に付き合ってくれたかっちゃんとの帰り道、バニラとチョコレートが疲れた体に染みる。わたしが幸せに浸りながら二口目をかじった時、隣でソーダ味をかじるかっちゃんが突然発した言葉。嬉しいとか幸せとかそういう気持ちよりも、どうして?と意外だとか疑問だとかそういうものがわきあがる。結婚式、絶対しない派だと思っていた。わたしの中ではまだ、少しばかり時間が止まっていて、その中のかっちゃんは「絶っっっ対ェやらねえわ、晒し者なんて勘弁しろや!!」と厳かで神聖な空気に中指立てちゃうような、そんなふう。わたしとしても、ウェディングドレスに憧れがなかったわけじゃない。できなければまあそれでも、というくらい。かっちゃんと過ごすことは想像できてもかっちゃんと正装でああいう場所に主役として並ぶのは想像できない。


「…嫌かよ」
「もう、拗ねないでよ」


足を止めてひとり考え込むわたしにふいっと背を向けてかっちゃんはいう。可愛いと思う。普段はバリバリの武闘派ヒーローなかっちゃんもわたしの前ではひとりの男の人だ。オールマイトというヒーローへの憧れを真っ直ぐなまでに持ち続けた男の本質はきっと、純粋そのものだと思う。こんなこと、かっちゃんに言ったら怒られそうなのだけど。


「で、どうなんだよなまえは」
「…かっちゃんとなら」
「他にいるわけねェだろ、俺とだけだわ」


要領の良いかっちゃんは、あれよあれよと話を進めていった。結婚式場のパンフレットがテーブルの上に並ぶのが、なんだか照れくさく浮き足立つほどに、わたしも女だったんだとキッチンに立つかっちゃんの背中を見て思う。いくつか回ってふたりで決めた場所は、落ち着いたアットホームなゲストハウス式の式場だった。そして、打ち合わせをする今に至る、というわけだ。そっと盗み見たかっちゃんの横顔はずっと好きな横顔だった。はじめて見たかっちゃんも、そういえば横顔だった気がする。無愛想だけど、面倒くさそうな様子は無いところ、かっちゃんの優しさをひしひしと感じる。


「では勝己さんとなまえさん、試着に移りましょうか」


担当の方がわたしたちを案内する。ドキドキする、というとかっちゃんはただわたしの頭をひとつ撫でただけだった。階段を上がった先、思わず溜め息を溢すほどのそこは眩いまでのきらびやかなドレスの森。ウェディングドレスからカラードレス、ネックレスやヴェールにティアラ。丁寧に並べられたそれらに、結婚式を挙げることに対してものすごく積極的だったわけではなかったわたしの心が自然と踊る。ドレスひとつひとつに、そっと丁寧に触れる。照明に反射して、刺繍やビーズたちがきらきらと慎ましやかに微笑むのをただうっとりと眺めたらまた自然と溜め息がこぼれた。しばらく眺めていき、手を止める。わあ、と思わず声が溢れるほどであった。クラシカルなレースの袖は上品で、胸元の刺繍も文句なしに可愛い。腰のあたりに結ばれたリボンとすっと流れるような柔らかなレースのスカート部分も自分好み。一目惚れって、きっとこういうことだと思う。スタッフの方に案内されてフィッティングルームに通される。髪の毛をアップにして、手早くスタッフさんがドレスを着せてくれるのを、締まりきらない表情で見ていた。似合っているかどうかは置いておいて、やっぱり好みど真ん中だ。このドレスとセットであるというヘアアクセもバッチリ可愛い。


「勝己さん、なまえさんの試着終わりましたよ!」
「…どうも」
「か、かっちゃん…どうかなあ」
「顔だけしか出してなかったらわかんねえだろ、おら、出てこいや」


見せるとなったら、途端に恥ずかしくなった。かっちゃんの顔を見ないでフィッティングルームから俯き加減に顔だけ出したらかっちゃんの少し意地悪な声が聞こえる。かっちゃんも、タキシードを着ているらしいことが足元からわかる。ああ余計だめだ。込み上げる気持ちが引っ張られる腕と一瞬に加速する。わたしをフィッティングルームから引っ張り出して2、3歩離れたかっちゃんはにやにやと悪い顔をしていたのに、一瞬で呆けた顔になり口元を押さえて視線を逸らす。どうですか?とにこにこ笑う担当の方の言葉がひとつも頭に入ってこないのは、かっちゃんの見たことないような照れた表情とか似合い過ぎているタキシード姿だとかそういうものがわたしの頭の中をいっぱいいっぱいにしたからである。すっきりとしたシルエットのタキシードはかっちゃんによく似合っていて、贔屓目に見なくても直視できないくらいかっこいい。ああこの感情をいつの日か感じたことがある、気がする。偶然か否か、かっちゃんの胸ポケットにささっているブートニアはわたしの腰のリボンの色とよく似ていた。


「かっちゃん、似合ってたね。かっこよかった」
「当たり前だわ誰だと思ってんだ」


かっちゃんと手を繋いで歩いて帰る頃には、夕暮れの街並みがもうすぐ夜に沈むところだった。何となく気恥ずかしくてかっちゃんの目を真っ直ぐに見ることが出来なかったわたしの心を占領する初々しさ。そうだ、思い出した。試着の時に感じた懐かしいような感情とよく似た感情を持った日のこと。かっちゃんに何の色気もない告白をされたあの日のこと、はじめて「かっちゃん」と呼んだ日のこと、初めて抱きしめられた日のこと。そんなことばかりを思い出していたら、あっという間に自宅に着いてしまう。玄関を潜るといつものにおいがして緊張した肩の荷をすっと下ろして日常が戻ってくる。晩ごはん、何にしよう。今日はなんとなくお酒でも飲みたい気分だ。鯵の南蛮漬けにしようかな。パンプスを脱ごうとした時、ぐんっと腕を引かれそのまま壁に押しつけられるようにしてかっちゃんの腕の中に収まる。首筋に唇を何度も何度も落とすかっちゃんをみると、帰り道、口数が少なかったのはそういうことか、と腑に落ちる。キスの回数を見るに、気持ちが爆発していることが伺える。かっちゃんとわたしは、全然違う生き物なのに、こうも簡単に同じ気持ちを共有できる。


「なまえ」
「かっちゃ、ん」
「綺麗だった」


素直過ぎる、かっちゃんの言葉は何度聞いても慣れない。視線が重なった時、改めて思う。左手の薬指の意味。たまには抑えの効かない感情に流されたっていいじゃないかとそのまま唇を重ねるのだった。


欠片もきみと呼びたいのです


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