「心操くん、ヒーロー科への編入決まったらしいよ」


頬を突き刺すような冷たさが纏わり付く如月、心まで凍ってしまったのだろうか。普通科からヒーロー科への編入への可能性はゼロではないとはいえ、そう頻繁にあることではないゆえに、それを成し遂げるだなんてよっぽどの努力が無いと有り得ないことだった。雄英高校のヒーロー科に在籍すると言うことは一流のヒーローになるチャンスがより巡ってくるということなのだ。今の心操は、普通科の星だ。体育祭での心操の活躍からクラスの評価は鰻登りであったのに、今回の一件で心操の周りにはいつも人が集まっていたのを、なまえは後ろの席から眺めることしか出来なかった。いつだってそうだった。気の利いた言葉ひとつ掛けられないで、ただ後ろの席から眺めるだけ。


「ねえ、なまえ?ボーッとしてどうしたの?」
「えっ、な、なんでもない…」
「ここんところ何か変だよ?」
「、そうかなあ」


あまりに遠くを見つめていたなまえを不審に思う友達が視界の前でひらひらと手を振るが、よく働かない頭では言葉に詰まるばかりだった。ひんやりと冷えた窓ガラスの向こう側には、桜の木が葉っぱを纏わぬ姿で寒そうに震えている。この花が満開を迎える頃には心操くんはもう前の席には、いない。あの藤色の癖っ毛を眺めることもなくなる。

もしかしたら、一目惚れだったのかもしれない。はじめてクラスで自己紹介をした時、大抵の場合、名前、そして個性を聞かれるものである。今回も例外なくそうだった。皆の思うヒーロー像と掛け離れた個性に周りは当然騒ついた。多少気怠そうにする心操は、きっと何度もそういう場面に出くわしてきたのだろう。それでも、曇りなき眼でヒーロー志望であることをハッキリと言ってのけた姿になまえの心臓は鼓動を早めた。尊敬と憧憬に高鳴るのをまだ馴染まない制服の上から抑え付けたのだった。心操への恋心を確信したのは、青葉が生い茂り、太陽の強さが増した夏、制服の衣替えをした頃であった。普通科に在籍しているなまえもヒーロー志望であるが、控え目な性格が仇となり思うように成果を出せないで足踏み状態だった。放課後、誰も居ない教室でスカートのプリーツがぐしゃぐしゃになる程握り締めて惜しむこともなく涙を流すことも少なくはなかった。悔しい、悔しい、悔しい。声はなるべくあげないように食い込むほど噛み締めた唇にから時々漏れる嗚咽に余計腹が立つ。


「えっ、みょうじさん…?」
「し、し、しん、そ、…くん、!」
「ごめん、忘れ物して」


突然開かれた扉に慌てて顔を上げて絶望した。それはそれは、酷い顔だったと思う。夕暮れで薄暗くなっていたことだけが唯一の救いだったかもしれない。涙を止めなきゃ。ぐりぐりと目元を乱雑に拭うが、こういう時に限って涙は止まることを知らないのがもどかしい。何よりも、心操くんにこんなところを見られたくなかった。今のわたしの姿を見て、心操くんはどう思うだろうか。わたしは、恥ずかしい。こんな汚い顔を見られることよりも、強化系の個性を持ちながらもただ自分の気の持ちようというどうしようもない理由で上手く出せないだけだというのに。心操くんの足元にも及ばない努力しかしていないというのに。なまえのお腹の中でぐるぐるとマイナスな感情がとぐろを巻いて顔をもたげて飲み込もうとしていた。ここから逃げ出してしまいたいし、怖くて顔が上げられない。


「っ、」


気配を感じて上げられなかった顔を持ち上げたら、心操が前の席に座ってなまえの顔を見ていた。ただでさえ整った顔立ちだというのに気になるひとなものだから、なまえの心臓はもう限界だった。押し込めていた気持ちごと飛び出していきそうなほど、足元から頭の天辺までどくんどくんと脈打つ。


「俺は、頑張ってると思う」
「しんそうく、ん、わたし、」


くしゃり。なまえの前髪辺りにやわらかな熱を感じる。それは、撫でられているのだと気付くのに時間は掛からなかった。そっと、そっと、優しく触れられたら、芽生えたものに曖昧な名前は必要なかった。菫の砂糖漬けのような、瓶の中に少しだけ飾ったような顔をして残しておきたいような脆さと小さな特別感。多くを語らない心操なりの優しさが抉れて傷付いた心に染みていく。ああ、わたしはこのひとのことが好きなんだ。優しくされたからではない。人間の本質みたいなものに強く惹かれているのだ。


「駅まで送ってくよ」
「心操くん」
「うん?」
「その、…ありがとう」


泣かないでとも元気出してとも言わないその優しさがただただ嬉しい。心操はなまえが落ち着いた頃合いを見計らって立ち上がる。夕陽もすっかり顔を隠してしまっている。夕闇が来ても心操の髪は飲まれることなくただ何も知らなかったかのように凪いだ。


「本当に、ありがとう。また明日」
「うん、ばいばい」


駅までの道のり、多くはお互い語らないものの何となく流れで連絡先まで交換してしまった。しまりきらない口元を心操の連絡先の入ったスマホで隠す。「ありがとう」と一言メッセージを送るとゆるい猫のスタンプが返ってきて、無重量で地面から足が離れてしまいそうなほどほくほくと心と頬が高揚した。

・・


もしかしたら、これが最後になってしまうかもしれない。わたしのノミの心臓では、有名人揃いのヒーロー科になんてわざわざチョコを渡しに行くなんてこと出来ないだろう。そもそも、そういう関係まで至らないだろう。少しだけ開いたリュックの隙間から夜な夜な焼いて、手こずりながらラッピングをしたカップケーキたちが今だ今だとなまえを急かした。甘いものがあまり得意ではない、と以前心操から聞いたなまえは甘さを控えたカップケーキを選んだのだ。プレーンとチョコチップ。その意味をネットで見つけた時にはもう引き返せないところまで来てしまっていたのだ。地味な感じに仕上がってしまったように感じるも、何だか自分らしいような、と虚しくなるやら何やらである。一方、とっつきにくかった刺のある部分が少しずつ削がれた心操の周りには当然今日という日を待ちに待った女の子たちが休み時間になる度集まってきていた。「ヒーロー科行くんだよね?頑張ってね」「これ、貰ってくれないかな」どの女の子も陽に透かしたビー玉みたいに目をキラキラさせたり頬を苺みたいにほんのり染め、なまえから見てもチカチカと眩いくらいだった。心操はいつもと変わらず、「ありがとう」と受け取っている。チクチクと勝手に胸ばかり痛んで、踏み出してもいないくせに心操に向けられる沢山の好意を喜べない。どうしよう?次の休み時間にしようかな?と思えば思うほど喉の奥が固まってつっかえてしまう。どうして素直に「頑張ってね」と言えないのだろう。可愛らしく頬を染めて愛想のひとつもふりまけないのだろう。心操がヒーロー科に行ってしまう現実に向き合えない理由なんてとっくの前に分かっていたはずなのに踏み出せない自分に胸が軋む。予鈴が鳴る3分前、皆が自分の席に戻り始めて慌ただしく椅子と床がぶつかり合う音が響く。ああもう、また、逃げるのなまえ。自分に叱責するように心の奥で毒づいたところで何も変わらないというのだけど。なまえが誰にも聞こえないほどの小さな溜め息をつくと同じくらいにくるり、と前の席の心操がなまえの方を向いた。吸い込まれそうな菫色がやわくあたたかな色合いで此方を見ている。


「俺、来年からヒーロー科に編入するんだ」
「……うん」
「みょうじさんは、どう思う?」
「それは、その、すごいなあって」
「……」
「あのね、でも、」
「俺は、すこし寂しいよ」
「えっ?」
「みょうじさんと、離れてしまうから」


固まった喉の奥につっかえた一言は、いとも簡単に心操の口から溢れた。そしてその言葉は、ざわざわと騒がしいクラスの中に居てもはっきりとなまえの鼓膜を震わせる。真っ直ぐな、自然だった。1秒も逸らすことなくただなまえを映すその瞳の美しさ。予鈴が鳴るまで、あと1分。


「あのさ、みょうじさんからはあったりする?バレンタインの」
「あ、あるっ」
「放課後、俺に時間をください」


放課後なんて、この授業が終わったらすぐではないか。予鈴が鳴る。返事をする前にくるりとそのまま前を向く心操。なまえはまたリュックの中のカップケーキに思いを馳せた。自分ひとりで、しょっぱい味のカップケーキを食べなくて済みそうだ。心操の優しさなのだろうと言い聞かせるも、片思いだと思っていたなまえが告白じみたその言葉に鈍感なふりをすることもできるわけもなかった。頬が熱い。カップケーキの中のチョコチップすら溶かしてしまいそうだ。特別な思いを彼も抱いてくれているというのだろうか。自惚れても、いいのだろうか。心操の背中はやはり何事も無かったように前を向いていた。ずるいなあ、でも、本当に、好きだなあ。頬を両手で押さえて、入ってもこない教科書の文字の羅列に視線を飛ばしたのだった。しかし、なまえは知らない。この時の心操の頬が隠さないといけないほどに赤く色付いていることも、なまえのほんのすこし潤んだ瞳と真っ赤な林檎のように色づく頬に両想いだと確信して安堵している心操の指先が小さくガッツポーズを決めていることも。心操の真っ直ぐな愛の告白にふたりがお揃いの頬の色になるまで、あと1時間。



back.
ALICE+