「別に、余っただけだから」


いくらなんでも酷すぎる1ヶ月も前のことを思い出して、わたしはげんなりしていた。それはそれは、可愛くない渡し方だったと自負するとほどであったし、もうやらかしたとしか言いようがない出来事だった。とっさに出た少女漫画のツンデレヒロインばりの言葉に、思春期かわたしは…と何度思い返してもじわじわと恥ずかしさは留まることを知らず、寧ろ溢れ返って収集がつかなくなっていた。そもそもバレンタインなんて可愛いイベントに乗っかろうとしたのが間違いだったかもしれない。その日は廊下を歩いても教室に入ってももちろん職員室もとろりと甘いカカオのにおいに包み込まれていた。意外に生徒人気の強い山田が生徒からたくさん貰ったと見せびらかしてきたのを肩パンしたことを思い出しながら生徒から提出されたプリントを纏める。そんなわたしの心の中も今さら例外なく学生時代のような心がむずがゆいような初々しさを感じていたのは、バッグの中のラッピングされた小さな箱が絶対にそうさせていたのだろう。人々に平等に訪れるイベントは当たり前にわたしにもやってくる。毎年浮かぶだるそうなあの顔を思い出して心を悶々とさせるくらいなら今年は可愛いイベントに乗っかってしまえ。雑貨屋の特設コーナーの可愛らしいラッピングの箱やリボンたちが背中を押した気がした。もう何年この思いを内側に抱えているのだろうか。もしかしたら、初めて雄英高校の門をくぐって同じクラスになった時からそうだったのかもしれない。結局、高校、プロヒーロー、高校教諭とここまでずっと一緒であったわけだけど、ブレることなく一途に思い続けているのは我ながら少し乙女すぎやしないか。そのくせ「はいどうぞ」と渡せるだけの素直さは持ち合わせていないところが自分で思う自分の面倒なところだ。結局あの男は手作りのバレンタインのお菓子たちを受け取ってくれたものの、感想を言ってくれるだけの気も回るはずもなく普段通りの日々を過ごすことが少し虚しいような安心しているような複雑な思いを抱いていた。ラッピングの奥の奥、本当の気持ちまでぐるぐると包んで開かないようにしてしまったみたいだ。担任の子たちの小テストに丸を付けながら思う。年を重ねるごとにひとはまるくなっていくものだと思っていたのに、下手くそな嘘ばかり覚えてしまった。誰もいないことを確認してぐう、とひとつ伸びをする。肩がバキバキに凝り固まっているらしく、小さく音をたてたら何だか情けない気持ちになった。


「おーお疲れさん」
「あ、お疲れ様」


重たい音を立てて開いた職員室の扉の向こうには悩みの種の相澤がいた。もう姿を見たくらいで動揺するほどに若くはない。丸をつける作業に戻ったわたしとわたしの隣の席に気怠げに座った相澤。何を話すわけでもなく、何かを話さないと気まずいわけでもなく、黙々と互いが作業をするだけの空間なのに心地よい無言の時間だった。職員室ではお互い示し合わせたわけではないが、W先生W呼びでなくてはいいのも気が楽だった。


「なあみょうじ、暇ならこの後メシ食いにでもいくか」
「ご飯?いいけど、相澤が、珍しいね」
「ああ、まあな」


椅子ごとくるりと相澤が此方を向いたのと同じくらいにまだ凝りのほぐれない背中を伸ばすようにぐっと腕を伸ばすが、わたしは平静を装えているだろうか。なぜなら相澤からWメシ行くかWなんてレア中のレアだからだ。いいけど、なんて気取った可愛げのない返事をしかできないくせに心の中は心臓が軽快に小躍りしている。嬉しい、嬉しすぎる。山田は確か、ラジオの収録があると言っていたはずだからふたりきり、だ。


「ほらよ」
「んん、?!」


突然ぐんと腕を引かれたら、椅子ごと相澤の方に引き寄せられて、そのまま口にぐ、と何かを押し込まれる。しばらくしてそれが飴玉だということに気付いて、舌先で転がす。甘酸っぱい檸檬の味が身体の芯から甘酸っぱく痺れさせた。久しぶりに感じたこの甘い疼きの意味を、長らく忘れていたような気がする。相澤の顔が、近い。相澤に掴まれた腕が、引き寄せられた身体が、じわじわと熱を帯びていく。


「ホワイトデーのお返しだよ」


ニヤリ、とニヒルに笑う。頭の中ではカカオのにおいの立ち込めたあの日に生徒と話した出来事が映像をより鮮明に映し出していた。そういえば、担任の子たちがわたしの周りに集ってこんな話をしたのだ。


『みょうじ先生、知ってますか?ホワイトデーのお返しの意味!クッキーは友達のままで、マシュマロは嫌い、キャンディは、』


あなたが、好きです。頭の中で生徒たちがきゃっきゃとはしゃぎながら頬を染めるのを「若いっていいなあ」なんて呑気に笑っていたのに、もう笑えなくなったではないか。生徒と同じ制服を着ていた頃とそっくりそのままの気持ちが蘇る。ちょうど舌の上で転がる檸檬味の飴玉とよく似た気持ち。この人と、恋人同士になりたい。この人を好きだという気持ち。真っ直ぐに曇りなき恋心で彼のことを見ていたはずなのに、踏み出す怖さを知ってしまった大人になったわたしは無理だとかそんなこと実現するわけないとか否定的な盾で守られている気になって踏み出さない理由を無理やり作っていたのだ。浮いた話のない彼の性格にも甘んじていたいたのかもしれない。素直になれない理由を彼に押し付けて、自分は傷つきたくない一心でいたのだ。檸檬味のそれがすうと鼻を通って爽やかな香りで胸を満たす。言葉や行動ひとつでこんなに揺さぶられるのはまぎれもなく相澤がいるからだ。すうとひとつ息を吸い込んだら、相澤の顔が少しだけ、近づく。


「失礼しまーす」
「なんだ」
「あ、相澤先生にみょうじ先生。これ、ノートの提出です。よろしくお願いします」
「おう」


ノックと同時に元気よく開けられる扉にぱっと離れる腕。何事もなかったのように生徒に対応する相澤は本当に合理的だなと感心した。いや、それに目を向けていないと心臓が破裂してしまいそうだった。もしもあのまま生徒が来ていなかったら、絶対、キス、してた。指先でそっと唇に触れたら、思っていたよりも熱くて、自分がそれに期待していたみたいで恥ずかしさがのしかかる。相澤がホワイトデーのお返しの意味を知ってか知らずか口に放り込んだ飴玉を少しだけ噛んだところで、いつの間にか生徒との会話を終えた相澤が何事もなかったように隣に座る。ホワイトデーのお返しの意味って知ってる?さっきは、何をしようとしたの?どの言葉も口から飛び出すことは出来ず、喉の奥かは出てこようとはしない。生徒のプリントに、また丸をつける作業に戻ろうとしたが少し震えてペン先が揺れる。


「なあみょうじ」
「……なに」
「生徒にな、ホワイトデーの返しの意味を聞いたんだよ」
「…それは、」


どういう意味?動揺を隠して相澤の方を向いたけれど、その言葉は最後まで言い切ることができなかった。その時には相澤にキスされていたからだ。小さなリップ音を残し、名残惜しく離れる唇は、また何事もなかったように前を向く。


「続きは、メシでな」
「あいざわー…!!」
「吠えるな吠えるな」


右側から手が伸びてわたしの髪をくしゃりと撫でた。今が夕暮れ時で良かったと心から思う。橙に溶け込みそうな燃える頬の色と息を吹き返した檸檬味のこと。兎に角、この後の仕事が手につかないことだけは明確である。小さく綻ぶ口の端を隣の愛おしいひとにさとられないように手のひらで抑えるのだった。


「ああ、バレンタインの」
「今度はなに…!」
「美味かったよ」


ああもう、大好き。



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