通形という男は本当にわけのわからない男だ。泡立てたホイップクリームみたいに跳ねた髪はいつでも陽気で、レモンソーダみたいにしゅわしゅわとした透明感でわたしの前に立ちはだかる。口角はいつもくいっと上を向き、一点の曇りも無い海の色をしたビー玉のようなくりっとした目で、いつも突き抜けるように真っ直ぐな目を向けるのだった。陽だまりそのものみたいな通形は、わたしには眩し過ぎる。
「やあ、みょうじ」
「っあひゃあ!!」
「あはは、面白い!」
「面白くないし人の机から生えてこないで…!」
「なに、通形とみょうじまたやってんの?」
「わたし好きでやってるわけじゃないし…」
「俺は、大好きでやってるんだよね」
「だってよ、みょうじ?」
通形が文字通り机から生えてくるのはこれで何度目だろうか。入学してしばらくした頃からやられ続けているのに慣れなさすぎる自分にもうんざりする。茶化されるのも、迷惑だ。そう思いながらも口には出せずにいて、机から生えている通形の頬をぐうっと押すと、するりとその個性で机からぴょこんと弾かれた。通形のことが、別に嫌いなわけではない。ただ、本当にわけがわからないのだ。どうしてわたしなんかに毎日毎日毎日毎日、飽きずに関わってくるのか。教室でも食堂でも寮でも、通形は飽きることなく関わってくる。わけがわからない。授業が始まってなお、プリントを後ろの席に回す通形と目が合ってにっと笑いかけられるのすら素直にはいはいと受け流すこともできないでいた。全ての授業を終えて寮にひとり向かう。リュックの中がずしんと背中からわたしの憂鬱にのしかかる。三年生だと言うのに、気合いが入らないのはまずい。友達はみんな、就活に進学とそれぞれの道に向けて動き始めていてなかなかタイミングが合わず忙しない日々だ。
「あっ、!」
すかんと足が地面を踏まない感覚。まずい。ふわりと身体が浮いて、今から落ちるんだ、と確信した。スローモーションでふわりと浮かぶ身体に自分の身の入っていなさに情けなくなる。身体が、ぶつかる感覚、とは違う優しい温度にずんと沈み込んだ。
「みょうじ、大丈夫かい?!」
「と、通形…なんで」
「みょうじが階段から降ってきたからびっくりしたよね!怪我はない?」
「な、ないよ、ありがとう」
落ちた。そう思って目を閉じたのに、通形の両腕に抱きとめられていると気付いたのは目をつむって3秒後だった。それに気付いてお礼を伝えて慌てて無理矢理身体をよじって地面に降り立つ。その時にわたしの手の触れた先が、通形の傷だらけの筋肉質な硬い腕で途端に恥ずかしさが舞い上がる。自分の身体が決して細いわけではなくて、通形の身体が、れっきとした男の人なのだ。自分を軽く受け止めるだけの力が備わっていて、顔も頭ひとつぶん以上上にあって、声もわたしよりずっと低い。まじまじと通形の顔を見て、はっとする。通形が、男の人の目を、している。
「ねえみょうじ、俺さ」
いつもにこにことしている通形の凛々しい眉が神妙に少しだけ下がったのに気付いてしまった。あ、これ以上は、だめだ。なにがだめなのか、自分でもわからないけれど、何かだめなのだ。こくりと唾を飲み込む音だけが緊張感に糸を張る。通形の指先がぴくりと動いてこちらに伸びるのと同時に一歩、後退りをしたら何か言いたげな通形の口がきゅとつぐまれた。どうしてそんな悲しそうな顔をするの。どこも怪我なんてしてないのに鼻の奥が少しだけツンと痛いのはどうして。
「通形は、なんでわたしにかまうの」
「そりゃあ」
「なに?」
「みょうじに笑って欲しいからなんだよね」
その後は、どうやって寮に帰ったのか、通形とどんな形で会話を終わらせたのかも覚えていなかった。自室に慌てて飛び込んでそのままベッドに飛び込んだらひんやりと頬に擦れるシーツの冷たさと当たり前に自分のにおいがして緊張がようやくほぐれた。それなのに、先ほどまで触れていたところが、通形のにおいがしてひとり唸りながら枕に顔を埋めたのだった。心臓はうるさかった。
「ねえなまえは誰かにチョコあげる?」
「えっ、何の話?」
「はあ?!あんた最後の学生生活なのにバレンタインも忘れてるの?!いるでしょ!あげる人!」
「……わ、忘れてた」
友達にばしっと背中を叩かれた場所がじくじくと熱っぽく痛む。どれだけ強く叩いたの…!と睨むものの「はいはいそんな顔しない」と小突かれて理不尽だった。1週間後に控えるそのイベント。特別器用でもなく、得意というわけでもないわたしの頭の中は空っぽに等しい。ただ、通形の檸檬みたいな髪の色のことだけを思い出していた。頭の片隅の隅っこ、レモンソーダに似た通形の後ろ姿が不健康にしゅわしゅわと音を立てて消えた。通形とあれから特に気まずいとかそういう気持ちは生まれず、いつも通り通形は机から生えてきたり、至って普通に話しかけたり、飽きるほど繰り返した日常が当たり前にそこにあり続けた。しかし通形の意味深な言葉にあれからわたしはモヤモヤとし続けたものの、彼のヒーローネームを思い出して、大勢の中のひとりにかまっているだけなのだと無理矢理飲み込んだら何だか胸の奥がキシキシと軋んだ。自分だけがきっともやもやしているのだろうと。
「(結局、買ってしまった…)」
慎ましやかな小箱はしっとりと深いチョコレート色の包装紙に包まれて、よく映える橙色のリボンでおめかししている。ビターチョコで半分包まれたオランジェット。ピンクやハートなんていう甘い色をしていない甘酸っぱい果実の色はわたしの心境によく似ている、と思う。友達用に買ったものとは違うそれ。今更、気づいてしまったのだ。お店のW特別Wなひとへ、というよくあるキャッチフレーズに彼の笑顔が浮かび上がったこと。友達の一言と胸の奥に居座ったままのもやもやの原因が見事合致してしまったのだ。もう悠長にはしていられない。来年は、この学校生活はもうないのだから。共同ルームにはわらわらと人だかりが出来ていた。男子も女子もソワソワとし浮き足立っている。無論通形もその輪に混じっている。今更なんて言えばいいのだろう。なんとなく、通形のことを直視できずにいたわたしはそっと中庭に足を運んだ。共同ルームから死角になった場所でチョコレートごと膝を抱え込んで座る。ツンと寒さに晒される鼻先の痛みを感じ始めたら泣きたくなった。いつだって、わたしはタイミングを逃すのだ。いつでもあっけらかんと真っ直ぐな通形が羨ましいわたしは天喰くんの気持ちの方がよくわかる。冗談だったであろうW大好きWという言葉をもっと早く意識していれば。素直に受け止めて頬を赤らめていれば通形も100人いるうちの1人のわたしを意識してくれていただろうか。
「みょうじ?」
「通形、」
「いなくなったから、びっくりしたよね」
「あのね」
「どうした?」
「通形に、これ」
「俺に…?ほんとに?」
わたしの横にそっと腰を下ろす髪をセットしていない通形に自然と心臓が早く動く。わたしがいないと気づいてくれたことがただ素直に嬉しかった。もう意地をはったりムキになって否定することもないのだ。通形の大きな手のひらの中では小箱はより小さく見えた。リボンを解く通形の手が意外と繊細で見惚れてしまう。共同スペースから差し込む柔い光が解かれた箱の中でオランジェットはきらきらと光を受けて艶やかに主張する。そのままオランジェットを一口かじる通形の口元が緩やかに口角を上げた。
「うん、美味しい。ありがとう、みょうじ」
「ねえ、通形、本命って言ったらどうする?」
膝を抱えたまま、通形の方を見て言う。唐突。あまりに唐突にするりと滑るように溢れた言葉に通形はまあるい目をよりまあるくしてこちらを向く。おまけに口までぽかんとまあるく開いていて何だか笑えた。今まで通形に好意を示したことはなかった。それが突然、こんなことを言われたら通形だって戸惑うだろう。少しだけ、しまったと思った。冷気に晒された頬が次第に熱を持つ。少しだけ視線を下にやったその時だった。通形の身体がこちらに近づくのを確認した時には、彼の腕がわたしに向かって伸びてそのまま頭ごと手のひらがわたしの体を引き寄せていた。「とおがた」名前を呼ぶ間もなく奪われた唇が何度か、触れ合う。目をつむると通形の鼻先に睫毛が触れてくすぐったい。存外はじめてのキスなど簡単なものであった。ドラマのように感動的なBGMが流れるわけでもなく、檸檬の味がするわけでもなかった。微かに残るカカオの甘さだけがはじめてのキスの味だった。甘酸っぱくしかなれないわたしと、甘く包む通形がオランジェットみたいで、恥ずかしくなる。名残惜しく離れる手のひらがぽんぽんと軽くわたしの頭を撫でてから、通形が噛み締めるように声を絞り出す。
「やっと、やっとだよ」
「とおがた、わたし」
「待って、俺に先に言わせてほしい。ずっとずっと、好きだった。今も、ずっと」
わけがわからないというふりをしていた。本当は、通形の真っ直ぐでわかりやすすぎる言葉と恋慕の思いに向き合うのがこわかった。通形が人の気持ちを弄ぶようなからかい方をするわけもないのに、WからかっているのではWと決め付けた。卒業を目前にして気づいた好意に、終わりを重ねて泣きなくなった。通形がわたしによく言うW大好きWの意味の解釈違いをしていたらぽかんと心に穴が空くことをわかっていた。こんな胸いっぱい溢れるほどの思いを通形も抱いてくれていたと言うの?それも通形は怖気付くことなく真っ直ぐに思ってくれていたというの?そっと通形の肩に頭を乗せると遠慮なく肩に手を回す指先の熱っぽさと小さな震えに愛おしさが爆発しそうだ。ふ、と口元が緩む感覚。嬉しいんだ、わたし。通形の鼻先がきっとわたしと同じように赤くなっていることだけで愛おしいと思うほどの、恋をしている。
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