その日は廊下にいても寮にいても食堂にいても、むせ返るほど甘ったるいにおいが立ち込めていた。バレンタインなんざこれっぽっちも意識したことはなかったが、馬鹿どもが騒ぎ立てる理由が、少し、本当に、少しだけわかったような気がした。そういう気持ちにさせる原因といえば、たったひとつしかない。みょうじなまえのことである。がやがやといつにも増して騒がしい食堂で、パッと上鳴が俺の方を見やる。


「なーなーばくごー、今日バレンタインだなあ!みょうじから貰える見込みあるん?」
「うっっせェな!黙っとけアホ面!」
「俺フツーのこと聞いただけなのに…」
「ま、貰えるといいな、愛しのなまえちゃんに」
「醤油顔もアホ面もまとめてぶっ殺す!!!」
「爆豪まあまあ」


振りかぶった俺の腕を切島がまあまあと押さえる。自分の気持ちに気づいていないわけじゃあない。寧ろ、嫌というほど感じているくらいだ。その理由が分からねえほど腐っちゃいねえが、かと言って素直になれるような性格でもなかった。フン、とムカついた気持ちを吹き飛ばすようにカレーをひとくち、口に運んだ。まだ上鳴たちはバレンタインの話題で盛り上がっているが、俺からいうことは何もない。ただ、なまえは誰かにバレンタインのチョコなんかを渡すのだろうか、と喉の奥に押し込めて気にしていないふりをした。

・・

「みんな一日お疲れ様ーっ!お待ちかね、バレンタインの時間だよーっ!」


全ての授業を終えて一日が終わろうとしている今、共同ルームは皆が勢揃いしてわいわいと騒がしかった。透明女の浮き上がった服だけがぴょんぴょんと飛び跳ねている。俺には関係ねェ。フンっと立ち上がるとちょんちょんと背中を突かれる。


「爆豪くん、もう部屋行っちゃうかな」
「あァ?くだらねえしうるせえから部屋に行く」
「じゃあ、先に渡してもいい?」


はい。俺の手のひらに押し付けるように渡された小さなラッピング。ピンクとか赤とかじゃなくて、水色のチェックなところがなんだかなまえっぽいなと思う。にこにこと目を細めて笑うなまえを可愛いと思わざるを得なくて、これ以上いたら頭がおかしくなりそうだと余裕ぶって頭をがしがしとかく。ふつふつと湧き立つ感情を抑える方法はひとつも思いつかなかったのだった。


「……貰っとく」
「うん、ありがとね」


そのまま自室に戻って、扉が閉まると同時に抑えていた何かを解放するように大きな重たい溜め息を吐き出す。胸がいっぱいで苦しかった。どうして、あいつのことがこんなにも、こんなにも胸から離れない?いや、それは、あいつに好意を寄せているからなのだというのは分かっているのだが、それでもどうして、ここまで俺の心にあいつの存在が居座る?腰を下ろしてラッピングから手作りであろうそれを取り出してぱくりと口に入れる。胡桃の香ばしさと、ビターチョコレートの甘さ、それとコーヒーのほろ苦さが口から鼻に通り抜けていくように広がった。美味い。まあどうせ、他のやつにもやってんだろ。そう思うと、少し悔しいようなムカつくようなわけのわからない感情に飲み込まれそうだったが、その甘さが喉を通っていくたびに甘ったるい感情が蓄積されていくのも事実だった。

・・


「爆豪くん、ブラウニーどうだった?」
「甘ェわ」
「ううん…爆豪くん、甘いの苦手って聞いたから、コーヒー入れて甘さ控えめに作ったんだけどなあ」


甘いのは、お前のせいだわ。その言葉を飲み込んで、デクみてえにぶつぶつと繰り返すなまえの眉間のシワをぱしっと叩いてやった。痛いなあと額をさするも、動じることもしないなまえのさっぱりとした態度は本当に重くもなく、俺が好意を寄せるポイントのひとつだろうと思う。キャンキャンうるせえのは好きじゃねえ。けれど、少しだけ眉を下げるなまえに、このままはいさようならと会話を終わらせるのは、なんだか違う気がした。


「不味くは、なかった」
「ほんと?…嬉しいなあ」


簡単に頬なんか赤くして、単純なやつ。気づかないうちに結んだ口が緩むのに気付いて慌てて閉じる俺も、馬鹿なやつ。なまえはまだ知らない。俺がこの頃にはなまえに好意の思いが溢れ出しそうになっていることを。そして俺もまだ知らない。この甘酸っぱくも苦い思いをあと十年程患うことになることを。



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