「蕎麦ひとつ、冷たいやつで」
「かしこまりました」


首を振る扇風機の風が興味なさそうに外を向いた白と赤の前髪を軽やかに揺らす。同じ高校の制服を着た、轟焦凍くんという同級生の男の子である。裏路地にひっそりあるお蕎麦屋さんでバイトを始めてから、彼の存在を知ったのは一ヶ月ほど経った時だった。彼の通った道にはピンク色のうっとりとしたため息と小さくあがる黄色い悲鳴。頭もよくてルックスもいい。そして、あのエンデヴァーの息子さんなのだとクラスの女の子が教えてくれた。わたしがバイトを始めてしばらくしてからずっと通ってくれているけれど、当然の如く店員とお客さんというやりとりくらいしかなく、それすら烏滸がましいような雲の上のようなひとだった。


「なまえちゃん!今日はちょっと早いけどもう上がっていいよ!まかない食べておゆき!」
「わあ!ありがとうございます!」


バイト終わりにいつも美味しいまかないを食べさせてくれる店長さんとその奥さんの好意が、一人暮らしのわたしにはとてもありがたかった。お蕎麦屋さんとはいえ、定食やおかずも数多く取り扱う。今日のまかないは、とろろうどんと豆鯵の南蛮漬け。豆鯵の南蛮漬けは、今日のサービスの小鉢なので轟くんにもお蕎麦と一緒に出しているはずだ。制服に着替えてから席に着くと、まだ轟くんがお蕎麦を食べている姿が視界の端っこに見える。豆鯵を摘んだ箸の向こう側で、一瞬、それもほんの一瞬、少しだけあの澄んだ目と、視線がバッチリぶつかったような気がして頬に熱が集まっていった。



じとっと湿った空気が纏わりつくような夏の一歩手前。それは食堂でのことだった。


「あ」
「?!(轟くんだ…!)」
「蕎麦屋の」


夏に相応しい涼やかなオッドアイに射止められて思わず足が竦んだ。明らかにその言葉はわたしのことを示していたからである。そして、あろうことか此方に向かってくるものだから、このまま背を向けて逃げてしまいたくなる。どうしよう。考えているうちに、ぴたりと目の前に立ちはだかるその人の顔を見ることも烏滸がましい気がして、トレイの上の親子丼の山を行ったり来たりして何とも挙動不審な動きをしてしまっていた。何を言われるんだろう、と早まる鼓動を落ち着かせて次の言葉に備えるべく、思わず下唇を少しだけ噛んだ。


「この間の南蛮漬け、美味かった」
「へ」
「また行く」


予想外の言葉は、思っていたよりもやわらかくて、心地よく鼓膜の奥に届いて指先まで浸透してくように優しかった。コクコクと顔を縦に振ることしかできないわたしから遠ざかって行く轟くんの背中。息も出来ないような夢から現実に引き戻すように、汗をかいたグラスの中の氷がカランとひとつ、音を鳴らした。



「いらっしゃいませ、あっ」


また行く。そう言ってくれたあの日から変わらず轟くんはお店に来てくれた。小鉢の内容を聞かれたりするくらいのやりとりや、まだぎこちないけれど今日あったことを話したりすることも増えた。日当たりの良い窓辺の席、いつしかそこが轟くんの指定席になっていた。外は暑かったようで、いつもクールな轟くんの額に髪を少し張り付かせている。お冷やの氷をいつもよりひとつ多くした。


「蕎麦ひとつ」
「冷たいやつだね」
「ああ」


視界に入れることすら烏滸がましいと思っていた轟くんは、少しクールで大人びた男の子だった。轟くんのことを、わたしはまだよく知らない。ヒーロー科と普通科だから、校内で会うこともほとんどない。会話と言えば、定食の小鉢の話くらいかもしれない。時折窓の外に向ける儚げな視線の意味はわたしにはわからない。けれど、みんなが騒ぎ立てるような経歴とか肩書きのそのままの無敵の男の子像よりもずっとやわらかいところがあるような、そんな気もする。ツウと頬を一筋伝う汗が夏の到来を告げるようだった。


「もうすぐ体育祭だね」
「ああ」
「ヒーロー科は大いそがしだ」
「……一番に、なんなきゃいけねえからな」
「いちばん、」


その横顔があまりにも透明で、日に透けた白と赤はまるで鱗のように輝いている。そのままさらさらと剥がれ落ちて消えてなくなってしまいそうだ。他のひとは到底知り得ないずっしりと重い何かをその鱗の奥に隠して生きてきたんだろうか。轟くんはときどき消え入りそうな、けれど何か強い炎を燃やすような、そんな表情をする。難しいことも轟くんの心の一番奥にしまわれている思いもわたしは知らない。ひとつわかったのは、轟くんの「一番」という言葉がいつもより強かったこと。


「轟くん!」
「どうした」
「わたし、難しいことはわからないけれど、轟くんのこと応援してるから!」


奥さんにお願いして揚げさせてもらった南瓜とさつまいものかき揚げを轟くんのお蕎麦の横に添えて出す。頑張れなんて簡単に言えないような気がした。轟くんのいう「一番」をわたしがそう気軽に「一番になってね」なんて語っては失礼なような気がした。だから、わたしにできることは、これが精一杯。轟くんのグレーとターコイズブルーの高貴なガラス細工のような目がまあるく見開いて少しだけ揺れる。


「ありがとう」



「(かっこ、よかったなあ、)」


二層になったカフェラテがじわじわとその境界線をなくして混ざり合っていくようなもやもやとした気持ちだった。はじめて、轟くんの凄さを知った。体育祭での轟くんの活躍は凄まじいもので、高校生離れした身体能力と判断力に、生徒たちの間でも見学に来ていたプロのヒーロー事務所の間でも、轟くんの名前が、それはもう花火のように挙がっていた。学校を背に帰路につくその間もあちらこちらでその名前が聞こえて何だかそわそわする。けれど、もっとずっと気になったのは、体育祭の間の轟くんのこと。緑谷くん、という男の子とのバトルの時、いつもと違う目をしていた。何者も寄せ付けないような高貴さと鋭さが幾分か綻んで、純粋な真っ直ぐさと心を踊らせる子どものような目だと思った。そして、轟くんの作り上げた氷と炎を、ただ純粋に美しいと思ったのである。


「みょうじ!」
「と、轟く、!」


もう少しでバイト先、というところだった。わたしを呼び止めるあの低音に頬が熱くなったのは、きっとまだ体育祭での興奮が冷めやらぬからだ。どうしてここに、と簡単な言葉が喉につっかえてうまく出てこない。少しばかり息を切らす轟くんの顔がいつもより穏やかな気がした。短い沈黙を破るのは、夏の匂いのする青い風。


「みょうじに、会いたくて」


あまりにも真っ直ぐに届いたその言葉に目も逸らすこともできない。クリームソーダに乗っかったアイスクリームがとろりと溶け出すような甘い響き。真っ赤なさくらんぼはソーダの海に沈んでいく。


「今日のメニューはなんだ」
「、金平ごぼう」
「そうか」
「轟くん」
「どうした」
「あのね、お疲れさま」
「…ああ」


轟くんの声があまりにも優しくて、やわらかで、泣いてしまいそうだった。雫が溢れる前に轟くんに背を向けて気づかれないように目を擦った。「なまえ、」いつの間にか近づいたその声に振り返った時だった。ふわりと轟くんの匂いが鼻を掠めて、そのまま唇に熱が集まる。軽く音を立てて離れた唇から全身に熱が広がって爪の先まで痺れていく。頬に添えられた指が目尻の透明をぬぐう温度が心地よくてそのままとろけてなくなってしまいそうだった。霞んだ視界が開ける。透明の先に見えるもの、ひとつもこぼしたくない。


「バイト終わるまで待ってる、伝えなきゃならないことがあるから」


ねえ、轟くん、轟くん。わたしも伝えたいことがあるよ。難しいことはわからない。けれど、少しでも貴方の元気や安心になれたら、いつかその重たいものを少しでも支えられたらなんて思う。誰にでもあるようなそんな一面がとても愛おしいくて、一生のうちの一瞬かもしれない今を目一杯、お腹いっぱいになってほしい。


私の心余すとこなく貴方にあげる
180701



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