おい!と威圧的に呼び止められると、反射的に肩がビクッと震えてトレーに乗ったコップの中の波が跳ねた。ぎこちなく振り返れば、つり上がった目を更につり上げて睨む赤が心臓を鷲掴みにする。空気の読めないミリオが「うんうん、いい感じだねー!先に行ってるよ!」とウィンクするけれど、どこをどう見たらいい感じなんだろうか。寧ろ此処に居て欲しい。さっさと遠ざかっていくミリオと、人の波間をずんずんとかき分けて、今にも噛み付かんばかりに此方に向かってくる勝己くんにどうしたものかと唇を少しキュッと噛む。振り返ったのが間違いだった。この時振り返ったわたしがばかだったのだ。


勝己くんが苦手だ。勝己くんはふたつ年下なのに、まるでわたしが先輩でなんかないと言わんばかりに威圧的で攻撃的で、獰猛な猛禽類のような鋭い眼が特に苦手だった。勝己くんとの出会いは、わたしの行っている事務所に勝己くんがインターンで来たところから始まる。勝己くんの活躍は、それはそれは凄まじいもので、連日ネットニュースを賑わせた。勝己くんが苦手だ。でも、ヒーロー活動をしている時の横顔だけは、普段の捻くれが嘘のように真っ直ぐで、透き通っていて、一生懸命で、好きだった。校内では出会ってもわたしから声を掛けることもなければ、歩み寄ることもなかった。たぶん、わたしが勝己くんに苦手意識を持っているように、勝己くんもわたしのことが、たぶん、嫌いだ。「おはよう」と声を掛ければ、「うるせェ」と返ってくるし、「カフェオレが好きなんだ」と話せば、「聞いてねェわ」とそっぽを向いた。おまけに「なまえ」と呼び捨てである。事務所内では極力溝を作りたくなくて、話しかけてみたりするのだけど、顔を覗き込んだらふいっと遠ざかってしまってわたしの豆腐のようなメンタルはいとも簡単に崩れた。その上、「こっち見んな」とまで言われて、わたしの心に芽吹きはじめていた、仲良くなろうという気持ちたちはぐしゃぐしゃに踏み潰されてしまったのだった。嫌われるようなことはしていないと思うけれど、好き嫌い以前の問題で、生理的に受け付けないというやつなのだろうか。それだったらとても悲しい。


「ッぶねェな!!集中しろや!!」
「ごめ、ん!」


とある日のことである。突然の敵襲に、プロに混じって交戦することになってしまった時だった。飛び出してきた敵が拳を振り翳した時に、思わず一歩下がってしまったわたしの前に勝己くんが飛び出して叫んだ。勝己くんの半ば叫ぶような声に鼓膜がぐわんと揺れて、ピリッとした緊張感がわたしの竦んだ足を動かせた。勝己くんは強い。勝己くんはプロになっても間違いなく駆け上がっていくだろう。凡人とは違うそれに高い壁が見えて、足元にも及ばない自分に情けなくなる。その日の業務を終えたら制服に着替えて帰る支度をしたら、勝己くんの背中が見えて思わず声を掛けてしまった。


「爆豪くん、さっきはごめんね」
「あの場に居たら大体のやつはああするだろ」
「でも、ごめん、」
「ごめんごめんうるせェ」
「……」


ぐ、と力強く睨まれてそれきり何も話せなくなってしまった。顔をあげたら勝己くんの真っ白な頬に赤い擦り傷ができている。きっとわたしのせいだ。思わず手を伸ばしてしまうと、反射的に勝己くんが体を反らした。


「な、んだよ!」
「ごめん、傷が…」
「ア?!こんなん傷とは言わねェ!」
「ちゃんと消毒しないと」


拳で頬を大雑把に拭うのを慌ててやめさせた。鞄から消毒セットを取り出して、嫌がる勝己くんを無理矢理座らせて消毒をして絆創膏をなるべく丁寧に貼った。わたしの強引さに呆気にとられているのか、その間の勝己くんは大人しかった。


「おい」
「無理にしちゃってごめん。でも、もう終わったよ、爆豪くん」
「…名前でいい」
「へ」
「名前で呼べっつってんだろ!」
「え?!え…?!」
「理解がおっせェ!!」


そのままバッと立ち上がってドスドスと足音を立てんばかりに出て行ってしまった。勝己くんの意図はわからない。けれど、その日以降、爆豪くんは勝己くんになったし、学食で目が合うことや移動教室の時に視界に勝己くんの姿が妙に目につくことが増えたことは確かだった。


勝己くんは、人の欲しい物を全て持っているかのような男の子だ。ミルクティーのような淡くて優しい色の髪、整った顔立ち、個性の派手さ、戦闘におけるセンスの良さ。


「勝己くん、これ」
「ハア?いらねーつってんだろ」
「でも、」
「てめェは伝書鳩かなんかか?ア?」


口が悪過ぎるところすら、人を惹きつけるのだろうか。学校で自分から勝己くんに話し掛けたのは初めてのことだった。突然他のクラスの女の子から受け取った可愛らしい花柄の便箋。わたしと勝己くんがインターン先が同じだと知って渡して欲しいと頼まれたのだ。どうやら勝己くんはモテるらしい。腕を組んで廊下の壁にもたれかかる姿は確かに格好いいと思う。青い樹々の隙間から差す木漏れ日が勝己くんの髪に反射して眩しい。やわらかい色とは反対のするどい睨みひとつで、わたしの心は小さく萎んでしまった。


「でも、受け取って」
「嫌だって言ってんだろが」
「どうして?」


ほんの少しだけ、勝己くんの赤いルビーのような瞳が微かに動いた。


「勝己くん、もしかして好きなひと、いる?」
「!!」


想像が確信に変わった瞬間だった。すぐにいつものようにポケットに手を突っ込んでわたしを睨み付けたけど、明らかに動揺した。天下無敵の勝己くんも、年相応の男の子なんだなあと思ったら途端に可愛く見えてしまう。恋というやつはすごいものだ。敵と遭遇してもひとつも怯まなかった勝己くんが、どこかの女の子ひとりにこんなにも心が揺さぶられている。だとしたら、この手紙はどうしよう。手紙を渡してほしいとお願いしてきた頬を赤らめたあの子と別の誰かを思う勝己くんの心境。考えても考えても次の言葉は出てこなかった。


「渡せや」
「えっ?」
「それくらい自分でケリつけるわ」


ばっとわたしから手紙を奪った勝己くんが背を向ける。わたしがあの子にごめんねって返すことよりも勝己くん自身が断る方がきっとあの子の手紙にちゃんと意味があったのだと思えるだろう。ぶっきらぼうな勝己くんなりの優しさなんだろうか。勝己くんは、意外とひとの心を大切にできるひと、かもしれない。


「わたしのインターン先に、1年生の子が来たんだけどね、たぶん、すごく嫌われてる」
「どうして?」
「うーん、わからないんだよねえ…」


うーん、と一緒に頭を捻るミリオを横目にうどんを啜る。うん、今日も美味しい。うどんに浮かぶお揚げを箸でつつきながら、苦笑をこぼす。ミリオは努力で雄英のトップクラスの実力を勝ち取ったし、人柄もとてもいい。わたしがミリオみたいにヒーローとして、ひととして、魅力的だったら勝己くんの態度は違ったのだろうか。ぼんやりとうどんをつついていると、ゴン!と頭に衝撃が走って思わず振り返る。うどんが口に入っている時じゃなくてよかった。


「か、勝己くん」
「…やる」


ふてぶてしく勝己くんがわたしに差し出したもの。パックの冷たいカフェオレ。突然のこと過ぎて頭が働かないわたしを、勝己くんはやっぱりトロいと思うんだろうか。隣のミリオが「ふうん、なるほどねー!」と笑う。


「間違えて買ったんだよ!いらねェからやる」
「あ、ありがとう?」
「なんで疑問形なんだよ!」


汗をかいたカフェオレのパックがひんやり冷たくて気持ちいい。水滴がぽたりとひとつ、スカートに染みをつくった。


「お、みょうじ」
「相澤先生!」
「3年でも頑張ってるらしいじゃねえか」


日直でノートの山を提出した後、角から相澤先生がだるそうに曲がってきて思わず駆け寄ってしまった。相澤先生は1年生の時の担任だ。当時はあまりの厳しさに鬼だ悪魔だと半泣きで抗議したこともあったけれど、今となれば相澤先生のその厳しさと言葉の端々に表れる優しさが先生なりの愛情だったと分かる。だから、今掛けてくれた「頑張っている」の言葉に頬が緩んでしまって締まらない。


「お、そういや、お前のインターンの事務所に爆豪きてるだろ、うちのクラスの」
「!!は、はい」
「なんだ、その歯切れの悪い返事」
「わたし、たぶん、かつ、爆豪くんに嫌われてる、と思います。爆豪くん、わたしのせいで嫌な思いが先走って、ちゃんと勉強になってるのかなあって思って。あの子、将来絶対に良いヒーローになる気がします。この間も敵の前で守ってくれたんです。だから、わたしがインターン先変えるのもアリなのかなあって」
「何馬鹿なこと言ってんだ」
「だ、だって…」
「みょうじなら大丈夫だ。いつもお前が壁を乗り越えて頑張ってきたのを俺は知ってるよ」
「あ、あいざわ、せんせ」


相澤先生が肩にぽんと手を置いたら、ぽろっと一粒、涙が溢れた。ミリオたちに相談した時は面白おかしく笑っていたつもりだった。けれど、本心ではすごく悩んでいたことを溢れた涙が物語っていた。プロになったら誰とでも上手くやっていくコミュニケーション能力が必要とされるというのに、就職前に上手く行かない人間関係に対して焦りと壁を感じていた。何より、勝己くんの気持ちがわからない。うるせェこっち見んなと言われることもあれば、突然飲み物を渡してきたりと混乱している自分がいた。


「ま、爆豪もそんなつもり無いんだろうけどなァ」
「せんせ、い、」
「おう、泣くな泣くな。(みょうじはちっと優しすぎるし鈍感すぎるなァ…ん?)」


相澤先生の言葉が自分の嗚咽に混じって耳に届く。涙を拭うのに必死で相澤先生の外した視線が、誰を見ているのか知るよしもなかった。


おい!と響いた低音にぎこちなく振り返ると、真っ直ぐに勝己くんの赤が此方を睨み付けていた。この時、振り返ったのが間違いだった。振り返ったわたしがばかだったのだ。そのまま近付いてきて、トレーを奪われると、人混みの中で確かに「ちょっとツラ貸せや」という何とも不穏な声が確かに聞こえる。体の芯から震えて情け無い。さっさとトレーを返してきてくれた勝己くんがわたしの腕を掴み、そのままずんずん歩く。勝己くんの背中はふたつ年下なのに大きくて逞しい男の子の背中をしている。触れられた腕がじんじんと熱い。連れられてきた中庭はしんと人気がなくて賑やかな世界から切り取られたみたいに静まっていて、予想もつかないこれからのことに既に泣いてしまいそうになる。ぱっと手を離され、振り返った勝己くんの目が揺らいでいる。驚いた。もっと怖い顔をしているのかと思ったのに、眉を少しだけ下げて泣きそうな顔をしている勝己くんは年相応の男の子の顔をしていた。思わず俯くと、自分のつま先と、近付いてくる勝己くんのつま先。勝己くんがわからない。


「おい、なまえ、インターン先変えんのか」
「それは、」
「変えんのか変えねえのかって聞いてんだよ」


どこから聞いたのか、それともどこかで聞かれていたのか、勝己くんの言葉に脳を揺さぶられるような感覚。一歩下がると、勝己くんのつま先も一歩近付いてくる。風にのって芝生の青いにおいと勝己くんのにおいが鼻をくすぐる。


「なあ」


勝己くんの声が普段から想像付かないくらい脆弱に震えていた。ハッとして顔をあげたら勝己くんの驚くほどに顔が迫って、そのまま遠慮など知らないかのような押し付けるようなキスをされた。何度も何度も。


「か、っかつ、き、く、やめ、」
「やめねェ」


息継ぎもままならないまま交わった視線の先、勝己くんの眉が切なく下がって今にも泣いてしまいそうだった。焦燥感のような、悲憤するかのような、何が勝己くんをそうさせているのなんて聞けない。キスに込められた思いがひとつしか無いこと、知らないふりなんてできない。もうひとつ、キスを落とされたら言葉を発するよりも早く頭ごと強引に抱きしめられた。勝己くんの心臓の音がすぐそこにあって、それが早い鼓動を打っている。


「勝手に居なくなろうとしてんじゃねェ」
「勝己くん、わたし、」
「なまえの方が先輩だからって、勝手な真似は許さねェ」


勝己くんは不器用で真っ直ぐだ。あまりに弱々しくて素直過ぎる言葉に勝己くんの胸に顔を埋めて胸いっぱいに勝己くんのにおいを吸い込んで抱きしめた。振り返ったのが間違いだった。振り返ったわたしがばかだった。あんなに苦手だった勝己くんは自分で苦手を作ったくせに、自分でその壁をぶっ壊しにかかった。もう少し抱きしめられても良いかもしれないと身を任せてみたくなったじゃないか。勝己くんの、勝ちだ。「どこにもいかない」と呟いたら、「当たり前だろが」と頭に添えられた手がわしわしと不器用に髪を撫でた。


おれがお前の運命の人なんかじゃなくたって、くらい自分で結べるよ
180926


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