女って、勝手でその上面倒くせえ。それを知ったのは思春期真っ盛り、早くも中学3年生のことだった。


「ひ、人使…!」
「…何やってるの」


受験を終えてひと段落したある日のことであった。こんな俺にも彼女ができた。感情を外に出すのはあまり得意ではなかったが、まあそれなりに俺も嬉しかった。ある日の放課後、帰り待ち合わせをしていたのになかなか来ない彼女を、彼女が在籍するクラスの教室まで迎えにいくことにした。日直とか掃除とかの当番だろうか。しかし扉を開けて飛び込んできたのは、西陽の射すロマンチックな教室で彼女だと思っていた女がキスのひとつでもしそうな雰囲気で、他の男と親しげに抱き合っているところであった。最悪だ。浮気かよ。はは、と乾ききった笑いと一緒に好意も飛び出して霧散していったようだった。


「別れよう」


なんとも呆気のない終わりであった。息をするように頭が選んだ言葉である。帰り道、何を考えようとしたのかも覚えていない。あの風景が焼き付いてなにも考えられなかったからだ。家に着いたら、何故だか非常にどうでも良くなってしまった。俺なりにショックを受けていたんだなあと他人事のようにぼんやりと考えていた。バッグを放り投げたら、ポケットの中の携帯にメッセージが届いたことを知らせるバイブレーションがガンガン鳴り続けて煩わしくて電源を落としたのだった。


「心操、許してあげなよ」
「なんで?」


翌日、目を腫らした彼女だった女が気の強そうな友達と襲撃にきたのである。俺はというと友達とパックジュースを片手に談笑中。振られた方がシクシクと涙を零していて、なんであんたが泣いてるんだよと可笑しくなった。その涙の意味がわからない。演技なんじゃねえのと猜疑心が肘をついて馬鹿にしたように見下ろしているような感じがした。空っぽになりかけたパックジュースが、ズズ、と音を立てた。


「この子だって反省してるんだよ?一晩中泣いて、悪かったって思ってるし」
「そもそもそっちが泣くのは可笑しいよな?加害者側でしょ?」
「一回くらい許してあげなよ!」
「じゃあ俺がW一回くらいW放課後誰かと教室で抱き合ってたら許してくれた?」


ブチッと切れる音がした。勿論、俺ではない。女友達の堪忍袋がブチ切れる音だった。ああ、最悪だ。昨日も最悪だ、と思ったばかりなのに。


「は?!屁理屈でしょそんなの?!そもそも心操にも問題あるでしょ!!もっとこの子に構ってあげたり、好きだってちゃんと伝えてたらこんなことにはならなかったんだよ!」
「なにそれ。その気持ち、俺に言えばよかったんじゃないの?そういう風になったら、他の男と抱き合っちゃうワケ?」


一緒に談笑していた友達が哀れみの目をこちらに向けている。おいおい、と助け舟を出してくれようとはしていたが、女友達が隙すら与えないと弾丸のようにキャンキャンと吠え続ける。女っていうのはこんな生き物だったのか。ただただ俯いてシクシク泣き続けている悲劇のヒロイン気取りの元彼女とそれを謎の正義感で守ろうとする女友達。俺には最早、非現実的な生き物にしか見えなかった。


「つーか、俺が表にあんま出さない性格だってわかって付き合ったんだよな?俺以外と一途だよ?だから浮気だけは絶対に無理。まず自分で一言も俺に謝ってすらこないのに、関係ないやつに言わせて解決しようっていうのがもうナシ」
「……あーウッザ。こんな男と別れて正解だわ。どーせ、この子のこともW洗脳Wしてたんでしょ!」


…ここにまできて言うかなあ。「いこ!」と腕を引かれながらメソメソする元彼女は、やはり一度も謝罪の言葉を発することもなければ、W個性Wについて否定することもなかったのである。人間、そんなもんなのだ。周りにいた友達がこめかみをぴくりとさせて引きながら、「次はあの女たちみてえなやつじゃないといいな」と肩を叩く。そもそも次なんてあるのだろうか。

進学する季節が巡ってきた。普通科とは言え、ヒーローを目指すやつは山ほどいた。自己紹介を兼ねて個性の話をしたら、「洗脳?!へ、へェ…」「すごいな…」「洗脳ー?クラスのやつにやめろよー!」とお馴染みの反応が返ってくる。ああ、うんざりする。俺の個性が耳に入ると、ギョッと振り返るやつまでいるザマである。ヒーローを目指すやつらが、この反応かよ。乾いた笑いで誤魔化すのはもう慣れっこだ。そんな話をしている時、ふと斜め前の席、俺の個性のことなんざまるで興味なさそうに暢気に外の風景をひとり微笑みながら眺めているクラスメイトが目に入った。名前も知らないその子の足が、愉快にぶらぶらと揺れているのが何故だか印象に残った。その後のクラスの自己紹介で、彼女の名前を知ることとなった。みょうじなまえさんというらしい。ヒーローを目指して息巻くやつが多い中、みょうじさんはへらりとひとつ、人懐っこい笑みをこぼしながら自分の名前を告げたのであった。気の抜けた印象よりも、その背筋は意外にもしゃんと伸びていて、ヒーローを目指すと意気込む奴らよりもどうしてだかずっと格好良く見えたのである。

***

見てて飽きない子だなと思った。トランポリンの上でふわりと無重力になって弾けるようなわんぱくさと、気の抜けた炭酸のような笑い方。パリッと新しかった俺の制服も、もういつの間にか体に馴染むほどになっていた。当たり前に皆同じ着ている制服も、何故だかみょうじさんが着るとどこか気の抜けたような印象を受けた。朝、人も疎らな教室。みょうじさんのひと束ぴょこんと跳ねた寝癖が、仔犬の尻尾を彷彿とさせた。


「あ、心操くん」


くるりと突然振り返ったので、少しびっくりした。ポケットをごそごそと探りながら歩み寄ってくるみょうじさんが俺の手を出すように催促する。みょうじさんの手のひらから飴玉がひとつ、転がった。みょうじさんの頬はまるでリスのようにぷくりと膨らんでいて、甘い匂いが漂っていた。


「あげる」


みょうじさんのポケットにはいつも宝石のような飴玉が入っていた。ビスケットの時もあれば、チョコレートの時もあった。前にも突然、こうやって渡してくれたことがある。そのまま自分の席に戻っていったみょうじさんに御礼を言い損ねたまま、手のひらの飴玉を眺めた。葡萄味なのだろうか。俺の髪によく似た色だった。

***

夢を見た。みょうじさんが夜空から俺を見下ろす夢。星屑を散りばめた夜空にふわりと浮かんで、裸足でぴょんぴょんと跳ねて、制服のスカートを揺らしていた。踵を打つと、飴玉が弾けるように宙に跳ねた。こちらに手を伸ばして、歯を見せて笑う。ビー玉のような、飴玉のようなまあるい瞳が俺を覗き込んだ。可笑しな夢を見たものだと身体を起こしたが、不思議と嫌な気分にはならなかった。通学中もなんとなくみょうじさんのことが頭から離れなかったからか、下駄箱でイヤホンをつけながら鼻歌混じりのみょうじさんがすぐに目に飛び込んだ。


「心操くんおはよう」
「おはよう、みょうじさん」


夢で見たのと同じようにみょうじさんは笑った。


「みょうじさんさあ、ポケットの中、いつもお菓子入ってるの」


馬鹿な質問をしたと思う。突然のことだったものだから、みょうじさんはその飴玉のような目をきょとんとさせて、上履き片手にくすくすと笑いだす。子どもが悪戯したような笑い方。みょうじさんのイヤホンから、彼女の雰囲気に似つかわしくないロックらしき音楽が少し音漏れしていて、そのアンバランスさが良い意味でみょうじさんらしくていいな、と思った。


「心操くんって面白いね」
「言われたことないよ」
「へへ、だろうね」


そのままふたりで教室まで歩いた。意外と口数は多くない。するりと指の間をすり抜けていくような身軽さと瞼を縁取る長い睫毛の下に隠した秘密。何を考えているのかイマイチ掴めないけれど全く嫌味ったらしくない、その声が透き通って鼓膜を通り抜けていった。


「みょうじさんってさあ、俺の個性なんとも思わないの?」
「海外コミックのヒーローみたいでかっこいいな」
「え?」
「え?」
「はは、いや、…ありがとう」
「ん?どういたしまして?」


さらりと聞くつもりだったのに、あまりにさらりと返事が返ってきて拍子抜けしそうになる。取り繕うでもなく過大評価するでもない、ごくごくありふれた会話で、釣られて口が緩んでしまった。

***

「あれ、みょうじさんは」
「お?心操、みょうじ探してんのか?」
「ん、まあ」
「みょうじさんならさっき出ていったよ」


戦闘訓練後、みょうじさんの姿が見えなかった。探しているつもりもなかったが、どうしてか姿が見当たらないのが気になってキョロキョロしていたらしい。体操服から着替えもせずに、今日を飛び出していた。あてもない、根拠もない。なぜだか夢で見たみょうじさんの姿が重なって、気づけば屋上に足を運んでいた。


「あ、みょうじさん」


飴玉のような涙が、ぽろりと一粒ゆっくりと落ちていく。瞬きひとつするのに時間が掛かる。ゆったりと流れる雲とそよぐ風にみょうじさんの髪が凪ぐ。仔犬の尻尾は見えない。一歩ずつ近づいても、逃げることなくみょうじさんはそのままぽろぽろと涙を流し続けた。彼女の瞳から落ちるそれって、甘いんじゃないかなんて馬鹿みたいなことを考えていた。


「大丈夫?」


そうだともそうじゃないとも言わないみょうじさんが壁にぺたりと背をつけて、そのまましゃがみこんだ。組んだ腕に鼻先を埋めてぐずぐずと鼻をすするみょうじさんの隣に腰を下ろすと少しだけ驚いたように真っ赤に泣き腫らした視線を向ける。兎のように真っ赤になった視線だけで、息がつまるように胸が苦しい。さっきの訓練で少しだけ使ったタオルを渡すと、小さくありがと、と返ってきて、いつものくすぐるように軽い声色が枯れてしまっていたのでまた苦しくなった。


「心操くんが優しくしてくれるから、嬉しくなっちゃうなあ」


ふにゃりと笑った。吹いて飛んでいきそうで、少しだけ儚いもんだから、思わずその指先を握った。一瞬驚いたように揺れた肩が、次第に小刻みにくすくすと笑う。泣いていた理由を無理に聞き出そうなんて思わない。けれど、いつか話してくれたら嬉しいと思う。魔法のようにお菓子が飛び出してくるポケットの中のこととか、愉快にぶらぶらさせていた足の理由とか、もっと知りたい。もっと見ていたい。もっと。もっと。できれば、俺のこと、見ていてくれたら嬉しいのにな。もう無いんだって思っていたこと。俺の心に居座るみょうじさんの意味。ああ、なんだっけ。それをなんと呼ぶんだっけ。


「あげる」


ポケットから飴玉一粒。みょうじさんの肩に、少しだけ距離を近づけたらやっぱり彼女からは甘い匂いがしていた。みょうじさんがこつりと俺の肩に頭を乗せるのがわかって、柄にもなくああいいなあ、このまま続いてくれないかなと雲ひとつない空を仰いだ。


「心操くん」
「どうしたの」
「ありがとう」
「どうってことないよ」
「うん、でも、嬉しいよ」


仰いだ空と同じように純粋で素直な御礼。みょうじさんには敵わない。みょうじさんの肩から伝う温度が、俺の思う温度と同じであればいいなと思いながら、まだ絡めたままの指先を少しだけ強く握ったのであった。

弱虫と砂糖菓子 181116
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