夕暮れの街、菫色と橙色が複雑な境界線を描いていた。雑踏の中、このまま流されてもいいななんて思いながら足をふと止めたら、忙しなく歩く人たちの隙間から見える花屋の花たちが此方を見ていた。スーツ姿の男性が恥ずかしそうに色鮮やかな花束を抱えて店員に見送られる姿がやけに印象的だった。釘付けになった視線を離すこともなく、唇をやわやわと噛み締めながら眺めていると、首根っこをぐんと掴まれる。


「おい」
「相澤先輩」
「お前そんなんじゃいつか死ぬぞ」
「ヒーローになった以上死は覚悟の上ですよ。それにほら、わたしって死にそうもないじゃあないですか」
「ったく…そういうことじゃないだろう」


花束が視界の端っこ、人々の波間に消えていった。あの花束は誰のところへ行くのだろう。まあしかし、わたしには到底縁もなさそうだ。そのまま視線を足元へ落とせば、花屋にはこれからも並ぶことのないであろう名前も知らない白い花を咲かせた雑草が揺れている。そのまま立ち竦んでいると腕を引かれ、ベンチに座らされた。呆れたような顔をした相澤先輩が隣に腰を下ろす。


「休憩だ」
「……」
「パトロール中にボーッと突っ立ってる馬鹿がいるか。少しは集中しろ。このまま続けるのは合理的じゃあない」


冴えない頭で考える。今は敵の組織の情報収集を兼ねたパトロール中だったのだ。相澤先輩のため息が、わたしたちの間を吹き抜けていく風に浚われていった。あたたかくなり始めている風が先輩の伸ばしっぱなしの癖っ毛をなびかせる。行儀悪く、ベンチに体育座りをして膝小僧に顎を乗せたらわたしだけ世界から取り残されたみたいに孤独な感じがした。夕暮れは苦手だ。昼と夜の狭間は、なんだかどろどろと妖しげで簡単に足を引き摺られそうだし、苦手な夜がほら来たよと背後から迫ってくるようだから。


「お前ってやつは、つくづく合理的じゃあないよ」
「すいません」
「ま、お前が合理的だったら怖いがな」
「それは…どういう意味です?」


むすくれて視線だけを横をやると、にやりと意地悪げに笑う相澤先輩がいた。そのままわたしの額をくしゃりと撫でる。相澤先輩はわたしより幾らか年上なだけだというのに、子ども扱いをする。先輩はいつもそうなんだから。それでも、その冷え性気味な指先の奥にある血の通ったあたたかさみたいなものが生きていることを肯定してくれているようで嬉しくて、やめてくださいよなんて言いながらも払いのけるなんてことは出来なかった。

*

月の光すら届かないようなところに生まれた。ただそこに順応するだけの知恵と適応力があれば、今頃わたしはこんな風に太陽の下を歩くたびに背を丸めなくて済んだのだろう。何度目覚めても朝日の眩しさに慣れることはない。あたたかくなってきたとはいえ早朝はまだどこか肌寒さが残る。冷たい指先を握ったり閉じたりを繰り返してたら、わたしの額を撫でた相澤先輩の指先のことを思い出した。どうして同じ人間であるのに、こうも冷えた指先の奥に通うものが違うのだろう。ニヒルな笑いを浮かべる合理主義の男が瞼の裏側に色濃く影を落とす。

わたしの両親は所謂、敵というやつだった。物心ついたときには、両親があまり良くないことをしているということに何となく気づいていたし、ヒソヒソと後ろ指を指されることにも慣れっこであった。今思えば、ランドセルを背負う前の幼子がそんなことに慣れっこということ自体が既に歪んだ日常であったのかもしれない。そこに順応していれば、わたしはもっと生きやすかったのだろう。それでもわたしが情景したのは、太陽の元できらめきを放つヒーローだったのだ。 記憶の中の両親の姿はもうほとんどぼやけてしまって思い出せない。酷い罵声とか邪険に扱われたことは忘れたくともなかなかそうはいかないものだけがどす黒く残ってしまってはいたが。両親の姿の代わりに、ぼろ雑巾のようなわたしを掬い上げてくれたヒーローの光に満ち満ちた輪郭はくっきりと思い出せるのだ。親不孝だろうか、と時々思う。普通の家庭に生まれていたら?けれど、普通ってなんだろうか。何をもって普通とするのか。難しいことを考えようとすればするほど、絡まって解けない糸屑みたいで、何も考えたくなくなる。はあとひとつ溜め息を吐き出して身体を起こせば、ぼんやりとした表情の冴えない女が鏡に映っていた。嫌だなあ、せっかくの休日だと言うのに。欠伸を噛み殺してトレーナーに袖を通す何とも色気のない姿。少しヨレた裾は、また相澤先輩を思い出させた。


(どっか行こう。できれば、落ち着けるところ)


大きめのトレーナーにスキニー、小ぶりなショルダーには家の鍵とハンカチ、財布という必要最低限のみ、履き慣れたスニーカー。わたしの人生、ほんとうに必要最低限でいい。これ以上、抱えるものを増やしたとしてしんどくなるだけだから。ガチャリ、と家の扉を開けると人影があり、思わずびくりと肩が跳ねる。


「は、相澤先輩…?」
「おう」
「何してるんですかわたしの家の前で」
「メシでも誘おうかと思ってな」
「事前に連絡してくだされば良かったのに」
「そんなことしなくてもお前暇だろ」
「失礼な…!(事実ですけど…!)」


なんとも失礼なことを言ってのける相澤先輩がくつくつと笑いを堪える。それを軽く睨んで脇腹あたりに軽くパンチをする。


「悪い悪い」


くしゃり。先程整えたばかりの前髪を相澤先輩は悪戯っ子がするような指先で、そして目尻をやんわりと下げて優しく撫でた。ほら、また相澤先輩はわたしをそうやって子ども扱いする。睨んだりしてみるものの、悪い気はしていないことを見透かされているような気がした。もう、と悪態を吐きながら俯向く天邪鬼なわたしの口元が緩んでいることが、どうかばれていませんように。相澤先輩が、そうやって優しくしてくれるものだから、その度にわたしもこっちの世界で生きててもいいのだと感じることができるのである。

*

しっとりと落ち着いたBGMが心地よく耳の奥まで届いて、ほろ苦い香りが心を穏やかにさせた。相澤先輩の背中についていった先にはひっそりと街角に佇む喫茶店があった。マスターとの会話を聞いているとどうやら顔馴染みのお店らしい。奥のソファーの席は照明の放つ橙が、相澤先輩の猫の背のような髪をやんわりと染め上げていた。相澤先輩はわたしをご飯に誘ったくせに、何か言葉を発する訳でもなく自分だけ小説を読み進めていた。すうっと透明な酸味のある珈琲はぼんやりとするだけのわたしの喉の奥に簡単に消える。ぺらり。相澤先輩のページを捲る指先がはたと止まった。ぼんやりとしていた思考がその停止で帰ってくる。ページから視線を上げることなく、相澤先輩は口を開いた。


「みょうじは、珈琲よりプリンって感じだな」
「何ですかそれ。比較対象になってませんよ」
「美味いんだよ、ここのプリン」
「先輩は、わたしをいつも子ども扱いしますよね。年も何年かしか変わらないというのに。そもそもわたしも成人してるんですよ」


顰めっ面のわたしがそう答えると、相澤先輩はにんまりとニヒルな顔をして笑う。するとマスターが、ことり、とテーブルの上にそっとプリンを置いた。とろりと流れるカラメルと昔ながらという感じの優しい卵色をしたプリン。「食っていいぞ」相澤先輩に言われるがまま、手を合わせてプリンをつつく。少し固めのそれは口に入れば程良い弾力でとろけていった。


「幸せそうな顔しやがって」
「…美味しいですもの」
「みょうじは、そういう顔の方が似合うよ」


思いがけない言葉。それがちょっと馬鹿にしているものなのか、それともどういう意味なのか。それを問う意味で相澤先輩の方をみたが、相澤先輩は何食わぬ顔で小説のページをめくり始めていた。相澤先輩の鼻が、すっと通っていることを知ったらなんだか照れ臭くなってまたプリンを一口、口に入れた。うん、美味しいとうなづく自分の顔が、緩んでいることにも気づかないまま。

*

ぽたり、ぽたり。毛先を伝う雫が雨に紛れて波紋をつくる。世界を映しているはずの瞳は灰色に濁っていて、何も感じない。


『あ?お前、みょうじンとこのガキじゃねえか?でっかくなりやがって』

『おーおーその目付きコワいねえ。両親そっくりの目だ』

『親が捕まってンのに、自分は悠々とヒーローか?お前の本質はやっぱりこっち側だなァ!』


わたしが傷つくことを知ってか、周りからの評価を貶めるつもりでか、放ったその言葉。そういうところが、狡猾で憎いのだ。心底吐き気がするのだ。わたしの両親は敵だった。今はもう檻の向こうに入っている、顔もほとんど思い出せないその人間たち。ハッキリ言ってわたしには足枷でしかない。思いやるだの何だのという情も持ち合わせてはいない。それでもわたしも人間なのだ。その言葉と周りの視線がわたしを貫いて酷く傷付けた。傷付いているのを見せたら負けだと思ったから、平静を装った。それならばと、また抉り続ける言葉と不信感を抱く視線。本人の評価なんて、案外脆いものだ。他人からの噂だのくだらない悪口などで、簡単にぐらつく。わたし自身の評価なんて、結局そんなものだったのだ。生まれたところがそういう星の元だった、というただそれだけがわたしという商品の評価に繋がりうることもあるのだ。今回敵組織を抑えるにあたって参加したヒーローたちがあいつの言葉を聞いて、わたしに対して不信感を抱くひとも必ずいるだろう。ぐ、と唇を噛みしめる。あの視線や言葉を受けてなお、わたしはヒーローでいたかった。


「みょうじ」
「……」
「みょうじ」


人混みから姿を隠すように、路地の隅っこで雨に打たれてずぶ濡れになったわたしに降る声。じわりと広がるような温かみを持つその声。既に迷惑を掛けているのは分かっているが、俯いた顔が上げられなかった。灰色のままで、なるべくたくさんの色をつけないように、唇を噛んだ。


「行くぞ」
「後で、いきます」


絞り出した声は、意外としゃんと発せように思う。相澤先輩の足音が遠ざかるのを待っていたが、それは近づいて隣に立つ。


「ひとりにしてください」
「いいや、させないよ」
「じゃあ、お気遣いなく。後で行きますので」
「気なんて使ってないから安心しろ」


案外、泣かずにやり過ごせそうなものだ。


「俺がいるって決めたんだよ」


灰色に、ほんの一瞬色がついた気がした。

*

磨りガラスの窓の、ぼんやりとした向こう側などハッキリ見えるはずもないのに人々の波が流れていくのをただただ眺めていた。あの喫茶店は、いつのまにかわたしの行きつけにもなっていた。わたしの舌にはまだ苦いアメリカンコーヒーを一口飲む。カランコロン。は、と入り口を振り返ると、待ち合わせの時間はもう數十分過ぎているのに悪怯れる様子もない相澤先輩がそこにいた。


「先輩から誘ったのに遅刻するなんて」
「悪い悪い、ほら」
「これ…」
「やるよ」


華やか、というより素朴で優しい色合いの花束。くすんだカラーのリボンがなんとも言えない愛おしさを増長させた。上から下まで真っ黒な色味の服を纏う男とは到底縁のなさそうなそれを受け取り、じっと眺める。先輩、わたしを子ども扱いしていたのではないのですか?それなのに、わたしなんかにこんな素敵な、大人みたいな贈り物をしてくれるなんて。


「相澤先輩、」
「なまえも、大人なら意味わかるだろ?」


目を細める先輩の視線がほんのり色づいて簡単にわたしの灰色を染め上げるところとか、名前を簡単に呼ぶところとか、相澤先輩はやっぱり大人だ。相澤先輩の空っぽになった左手が、またそっとわたしの前髪をくしゃりと撫でた。期待しちゃいますよ、と呟いたら、ああそれでいい、と低いトーンが心地よく耳に届いて花の香りがくすぐるように肺を満たしていった。


触れれば綻ぶ花の瞼


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