テーブルが色鮮やかに彩られて満足だ。枝豆のガーリック炒め、長芋の明太子和え、真鯛と梅のカルパッチョ、鯵のなめろう、ネギ塩唐揚げと揚げ出し豆腐と揚げ茄子の煮浸し。おつまみがテーブルいっぱいに並ぶ。我ながらよくできたと思う。かっちゃんもずっと箸が動いているということは、それなりに美味しいと感じてくれているのかもしれない。そう思うと、ついついお酒が進む。キンキンに冷やした2本目の缶チューハイがプシュ、となんとも言えない気持ちの良い音を立てた。隣のかっちゃんはというとゴクリと喉を鳴らしてビールを空けている。既に3本目だ。


「美味い」
「でしょ。独り身だから、料理ばかりが捗っちゃう」
「元々料理好きだったからな」
「よくご存知で」


行儀悪く頬杖をついてかっちゃんに向かって笑ってみせた。


「かっちゃんとまさかお酒を飲むとは…不思議だねえ」
「お前がずっと避けてたんだろ」
「いやあ、まあ…はは」


気持ちよく酔いがまわりはじめたところに図星を突かれて、酔っ払っているからなのか今更気まずいからなのか、へらへらと馬鹿になりかけている口端が緩んだ。そこからはみんなの近状だとかあそこの店の料理が美味しいだとか他愛も無い話で盛り上がったし、わたしも肩の力が抜けてたくさん笑った。かっちゃんも薄っすらと笑みを浮かべていた。真っ白くぽっかりと空いた10年間。白紙だったそこに足跡をつけていく。あんなに、もう二度と会えないと思っていたのに、その凝り固まった壁を壊すのは案外簡単なことだったのかもしれない。引きずっていた訳ではないし自分なりに乗り越えてきたつもりだった。少しずつ、色褪せていったそれに時が解決してくれることがあるというということも身を持って知った。特に酷いことをされた訳ではなかったので、臆病になることもなくしばらくすれば次の恋愛にも当たり前のように進むことができた。それでも初めての失恋は、真実が分からないことだらけで腑に落ちない終わり方をしていた為に、思い出の中では「特別」な部分にカテゴライズされてそのまま放ったらかしになっていたのだ。結局のところ、10年間、拗らせ続けていたのかもしれない。そんなこととはつゆ知らず、かっちゃんは揚げ出し豆腐を口に運ぶところであった。その様子を缶チューハイを飲みながら眺めていると、ふとかっちゃんの視線が此方に向いた。


「つーか、なまえは付き合ってたやつとかいたんか」
「いたよ」
「……そーかよ」
「結婚を意識したひともいた」
「そんなことは聞いてねえわ」


ずっと動いていた箸がぴたりと止まった。意地悪をした。10年前に鎮火された痛みをわざわざ仕返しみたいなことをするなんて、嫌な女だ、と思う。女特有のねちっこさはわたしにもちゃんとあったらしい。何も言わずにフラれた事を根に持っていたんだろうか。かっちゃんがビールをゴクリと飲み干す。


「どんなやつだよ」
「別れ際にW幸せになってねWなんて言ってくれるようなひと」
「…んなやつお前には絶対合わねえに決まっとるだろ。幸せを手放したやつがお前の幸せ願うなんざそんな資格ねェわ」
「いやいや、それかっちゃんが言えた立場じゃないでしょ?わたしをあの時捨てたのに?」


多少苛立った口調でぶつけられた言葉。はっきり言ってムッとした。だからキツい言葉を投げつけるように返した。自分の唇が震えるのと同時にかっちゃんの眉間がピクリと動いて皺が寄った。はっきり言ってブーメランであるし、若かったとは言え理由も告げず一方的に別れたかっちゃんと、結婚を考えていた元恋人との別れが到底同じものとは思えなかった。元恋人は、わたしには勿体のない程良い人だった。一緒になっていれば、きっと不安も不幸も無く、穏やかな人生を歩めただろう。結婚をして夫婦になって、家庭ができ子どもができる。きっと人生をかけて目一杯愛してくれただろう。結婚への意識は少なからずともあったのに、それでも、どうしてか結婚までわたしの気持ちが辿り着かなかったのである。お互い話し合った上で別れを選んだ。ただ、それだけ。運命とか必然とかそういうものに絡められず、自分たちで見切りをつけたよくある別れ。かっちゃんが捨て台詞のように吐いた「もう別れる」の一言とはわけが違う。一緒にして欲しくはなかった。これ以上嫌な女になりたくなくて、酷い言葉をお酒と一緒に喉の奥の奥に流し込むのをかっちゃんがじっと見ているのがわかった。なに?まだ何か言いたいの?酔いが回ってきたのか、喧嘩腰で言ってやろう。そう思っていたのに。それは、あまりにも真っ直ぐに透き通った視線。からかっているわけじゃない、喧嘩腰でキレているわけでもない。久しぶりに再会した時のルビーのような瞳が月の灯をその目に写して、純粋に美しいと思ったのである。かっちゃんがひと呼吸置いて、口を開く。


「だから取り戻しにきたんだろが」


かっちゃんのルビーがひとつ、静かに瞬いた。


「は、取り戻しに、ってなに、」
「わかってんだろ」
「わかんない、ってば!」
「わかんねえフリしてんじゃねェ」


手首を強引に掴まれて、そのままかっちゃんの方に流れるように引き寄せられる。空いている方の手がわたしの顎にそっと添えられる。かっちゃんの指が唇をかすめたら、かっちゃんがお酒くさいくせに妙に色っぽい吐息をひとつ吐き出した。吐息も絡まりそうな距離。


「ストップ、まって、だめ、」
「なまえ」
「だめ、だめ、お願い」
「…あんま煽んなや」
「違うってば!…かっちゃんの、考えてることがわかんない」


そういう雰囲気になりそうなのを、かっちゃんの腕ごと振り払って後ずさった。じわりと視界が滲んでぼやける。ずるい女だ。いい年した女が男を部屋に招き入れてお酒を飲むだなんて、セックスしてもいいと言っているようなものなのに、いざそういう雰囲気になるなら泣いて逃れようとするなんて。かっちゃんに抱かれたかったわけじゃない。寧ろそれだけの関係に落ちるのはどうしても嫌だった。じゃあ、わたしは、どうして。


「かっちゃんは!かっちゃんは、あの時わたしを捨てたんだよ!理由も教えてくれなかった、わたしが、どういう思いをしてあの後を過ごしたか、かっちゃんは知らないでしょ?惨めだったよ。わたしの落ち度を探して心を削った。避け続けているのに日常にあるかっちゃんの面影を探した。その度に苦しかった、なんでかわかる?好きだった、かっちゃんのことが大好きだった」
「…悪かった」
「悪かった?いいよね、謝ったら都合のいいセフレとして丸め込めると思ってるんだよね。かっちゃんが一概に悪いとは言えない、でも、ヤれるって思ったんだよね?元恋人だもんね、そんな関係に持ち込むには都合いいよね」


10年間燻っていた思いが、思わぬ形で爆発する。喉の奥に流し込んだ酷い言葉たちがナイフのように鋭利に尖ってかっちゃんを貫いた。こんな風に傷つけたかったわけじゃない。思い出話を肴にお酒を飲んだってよかった。それくらいに思っていたのにダムが決壊するように感情がとめどなく溢れて止まることを知らなかった。かっちゃんがハアと溜め息を吐いて頭を掻く。あのかっちゃんが罵倒されたとは思えないような落ち着いた声色でぽつりと話し始める。


「……神野区のアレ覚えてんだろ」
「なに、今さら、そんなこと」
「3年生の時、まァ、…ある所から情報が回ってきた。敵連合に触発されたクソ共がまた裏で動いてるってな」
「!!」
「また、爆豪勝己を捕らえろとかいう噂もあったらしい。俺ァ1年の時ので特に顔が割れてる。ンなもん俺を強請るのに1番良いのは何かわかんだろ」
「…うそだ、うそだ」
「嘘なわけあるかよ。…お前だよ、なまえ」
「じゃあ、かっちゃんは、わたしをまもるために、」
「どこから情報が漏れるかわからねェ。だから誰にも、何も言わないように口止めされてた」


ガン!と殴打されたような衝撃、とはよく言ったものだ。まさにそれである。涙が引っ込んでしまうほどの衝撃。言っちゃ悪いが、かっちゃんのことだから「興味なくなったわ」とか「お前みてェなモブとは付き合ってられっかよ」とかかっちゃんの将来の足枷となるからとかそういう理由なんじゃないかと思っていた。憶測でしかなかったものの向こう側、現実のそれは酷く優しい嘘。そういえば、卒業して1年弱くらいのことだろうか。敵連合の思想に感化されたらしい敵が一斉検挙されたというニュースを見たような気がする。鍵穴にすっとささる鍵。すとんとはまるピース。かっちゃんは黙ったまま立ち上がり冷蔵庫からキンキンに冷えたビールを取り出して一気に流し込んだ。


「前に彼女いんのかって聞こうとしたことあっただろ。今まで俺は誰とも付き合うことなんざ一回もなかったわ。…なまえなら、意味わかんだろ」
「…かっちゃん、冗談キツいって」
「また、お前はァ…わかんねえわかんねえってはぐらかしやがって」
「……かっちゃん、お酒くさい。わかった、酔ってるんだ」
「酔っとらんわ」
「酔ってる」
「しつけェな、酔ってねェつっとんだろ」
「酔ってるに決まってるでしょ」
「なまえは、そんなに俺が酔ってることにしてェかよ」


酔っ払って酷い冗談にしてしまいたかった。蓋をしてきた感情をかっちゃんのあまりに透明に美しく透き通る視線に見透かされていそうだったからだ。かっちゃんの腕が、わたしの背中に回って、面倒くさくて狡いところごと抱きしめた。首筋に埋まるかっちゃんの顔がどういう顔をしているのか、もう知らないふりなんて出来ない。けれど、今更どんな顔をしてかっちゃんに向き合えばいいというの?す、と離れたかっちゃんが、今度こそと顔を近づける。そのままゆっくりとソファに押し倒されたら、やわく結っていた髪が、するりと解けた。シャンプーのにおいではない、かっちゃんの香水だとかたぶん、男性のにおいだとかが一緒に解けて鼻をくすぐる。


「や、だめ、そういうのは、付き合ってから」
「…付き合ってから、っつーことは付き合うんだよなァ?まどろっこしいんだよなまえは昔から」
「なにそれ、脅迫?」
「冗談言ってる時かよ」


かっちゃんが指先でわたしの髪を梳く。もう、逃げられないのだ。シン、と部屋が静まった。


「好きだ」


ぽろり。わたしの目から一粒、生暖かい涙が伝う。ずっと、ずっと、聞きたかったのかも、しれない。かっちゃんとの関係に「わからない」だとか「曖昧」だとかいう言葉を使って、かっちゃんのわかりやすいアプローチに対して境界線を引こうとしていたのはわたしだった。なんでもそつなくこなすかっちゃんが、恋愛だけにはやけに不器用なのも知っていたじゃないか。そんなかっちゃんがくれた精一杯の真っ直ぐな愛情。ぬるいだけの楽な関係に収まろうとするりとかわして、狡い大人になっていたのはわたしだ。ぬるい関係なんて楽なものだ。セフレになれば自分のバランスをとるのに誰かを利用するのだから、それは楽なことだったと思う。けれど、わたしはそれを拒否した。かっちゃんは、変わっていない。見た目こそ大人になったけれど、かっちゃんの真っ直ぐで不器用な、わたしに向けられた感情は、何ひとつ変わっていない。散りばめられた愛の気配は、目眩を起こしそうになるほどに当たり前のように日常に溶け込んでいた。それは、愛を感じるということ。


「まって、かっちゃん、お風呂、」
「んなもんいいだろ」
「今日いっぱい歩いたし、汗かいてる、から」
「んなこと言って抱かれる気満々じゃねえか。黙って抱かれてろや」


ティーシャツの隙間、かっちゃんの熱くて優しい指先が伝う。かっちゃんに抱かれようとしているのに前の人のことを考えていた。もう、いつの間にか声も思い出せなくなっていた。セックスを、恥ずかしいと思うほど若くはない。付き合えば体を重ねる。そうすれば簡単に恥ずかしさも薄れていった。かっちゃんとも体を重ねたことはもちろんある。初めてを捧げた相手である。それなのに、やけに、恥ずかしさで死んでしまいそうになっていた。久しぶりだからとかではない。相手が、かっちゃんだからだ。10年歳をとったわたしの体をどう思うだろう。それを見られるのも、かっちゃんと行為に及ぶということ自体が恥ずかしかった。かっちゃんの指が、するりと汗ばむ体を撫でつける。ああ、わたし、ずっと、もしかして。


「なまえ」

「声、我慢すんな」

「あんま可愛い顔してんじゃねェ、歯止めきかねェぞ」

「なまえ、好きだ、ずっと」

「なまえ」

「なまえ」


かっちゃんの低い声で繰り返し呼ばれるわたしを構成する数文字が耳元で甘やかに響いて鼓膜を震わす。ああなんだか、とても愛おしい。自分のものではないような甘ったるい嬌声にもう難しいことや建前なんていらないのかもしれないなと霞んでいく意識の中考えていた。大切なことを、考えていたのに。腰の辺りから疼く痺れに考えるということを手放した。かっちゃんの甘い瞳の奥が熱っぽく揺れた。そういえば、わたしまだ、返事をしていないというのに。ああ、でも、もう、どうにでもなれ。


欠けたルビー閃いて夜 181107

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