10年が経ってもかっちゃんの瞳を印象的だ、と思う。夜空に凛々しくきらめく蠍座のような強さと、クリームソーダのしゅわしゅわと弾ける海に浮かぶさくらんぼのような意地の強い子どもっぽさと、路地裏のきまぐれで強気な猫が真っ直ぐこちらを見つめて射抜くようなルビーの赤。キムチ鍋の湯気越しに見えるそれもまた良いものだ、と白菜を口に運びながら見つめる。


「何見てんだよ」
「ヤンキーか」
「違ェわ」
「かっちゃんの目が、好きだなあって思ってた」


そうかよ、と一言だけ発したのち、休みの日くらい美味しいものを、と奮発したお肉がかっちゃんの口に運ばれた。周りから見れば何と素っ気のない返事なのだろうと思うかもしれないその一言が、わたしにとっては心地の良い一言だった。「俺もそうだよ」なんて頬を染め上げるような一言よりも、ずっと性に合っている。たぶんそれは愛というやつだ。恋ほど盲目になり過ぎず、自分の着地点を知っていること。わたしも鍋からお肉を掬い上げて口に運んだ。鍋が美味しい季節があっという間に隣までやってきた。かっちゃんと再会したときは、まだあったかかったのに。季節が巡るのが早くなったら年をとった証拠だ、と聞くけれど、まあかっちゃんの隣ならそれも悪くないなと思う。


「そういや」
「うん?」
「事務所立ち上げる」


先程口に入れたお肉が詰まりそうになった。人生の岐路とも言えるようなことをさらりと言ってのけたのだから。でも、いつかそんな日が来るとは思っていた。いつまでもサイドキックで終わるような男ではないことも知っていた。わたしの目の前でそれが叶うだなんて。慌ててお肉を飲み込む。緩んだ口から嬉しさが飛び出した。


「、っすごいよかっちゃん!いつか、絶対事務所を持つとは思ってたけど、それがいま目の前で叶うなんて!あー嬉しいなあ!今日はご飯が美味しいよ!」
「当たり前ェだろ。…なまえに一番に報告するって決めてたからな」
「へへ、ありがと」
「だから、俺んとこ来い」


嬉しさの後にくる突拍子も無い台詞。吸い込んだ息を吐きだせないまま、目を大きくさせることしかできなくなってしまった。


「何黙ってんだよ」
「…だ、だって、それって引き抜き…?わたしでいいの?」
「なまえが良いっつってんだろ」
「や、わたし、たかが事務だよ?そんな引き抜きしてもらうような人材じゃ、」
「は?何言ってんだお前。ヒーローとして引き抜いてんだよ」
「え、冗談、」
「嘘じゃねェし酔っ払ってもねェ」


かっちゃんの目は真剣だった。冗談なんて言うような性格ではないのも知っている。けれどその真意がわからない。わたしはもう数年前にヒーローとしての活動を辞めていることも伝えたはすだ。怪我の後遺症で完璧に使えなくなった個性。使えないことも無かったが、思ったようにいかない現実にぶつかるたびに悔しさと思い描いていたヒーローになれない虚しさが覆うように広がった。リハビリも最後まで続けたけれど、わたしはヒーローに戻ることはなかった。個性が思い通りにならないのは息が突然出来なくなったことと同じだった。リハビリを重ねて回復をしていたにも関わらず、わたしは、そこから壁にぶつかるのが怖くて逃げてしまったのだ。ヒーローになる人生と、そうでない人生。そうでない人生のほうが圧倒的に安パイであった。わたしは、逃げたのだ。かっちゃんからも、ヒーローからも。


「わたしもう何年もヒーローやってないし、わたしが怪我して満足に個性が使えないんだよ?ヒーローとして不良品みたいなものなのに、かっちゃんのスタートをわたしが駄目にするわけにはいかないよ」
「なまえはヒーローやりたかったんだろ」
「でも、」
「逃げてんじゃねェぞ」
「、っ」
「こないだの飲み会で麗日たちに聞いた。なまえがリハビリやってもうほぼ回復してるっつーこともな。だったらやりゃあ良いじゃねェか、やりたかったんだろ、ヒーロー。だから、俺んとこ来いや。なまえの背中は俺が守ったるわ」
「かっ、ちゃ、」
「遅くなんかねェだろ」


珍しく饒舌なかっちゃんがどんどん霞んで、わたしの真下にはぽつりぽつりと染みが出来る。今までのヒーローでない人生も、確かに楽しかったしそれなりに満足はしていた。それでも同級生たちが活躍している姿を見ると、応援する気持ちと一緒に沸き上がるヒーローへの憧憬。そこに立っている同級生に毎度姿を重ねた。子どもが夢を見て頭の中で敵との戦いをシミュレーションをするような純粋なものではない。幾らかの悔しさと後悔。それも年月が経つごとに薄くなってきてはいたが、その思いは根を張ってしまってなかなかどうにもならなかった。そんなどうしようもない根っこを、かっちゃんはまたもや引っこ抜きにきたのである。学生時代は不良だのヘドロ事件を耐え抜いた奇跡の高校生だの脚色された言葉たちに塗り固められたり、社会人になっても素行が悪いだの何だのと雑誌に有る事無い事書かれたりもしていたが、かっちゃんは立派なヒーローだ。出会った頃には、恥ずかしさからなのかアホだのカスだのモブだのと罵られたことも数知れず、だったのに、少しずつ丸くなったかっちゃんは多少の口の悪さは目立つのものの愛情のかけらを見せることが出来るくらいに大人になったのだ。そういえば、付き合う時に「取り戻しにきた」と言われたような気がする。…ああ、ずるいなあ。泣いているのに、笑っていた。そんな気色の悪いことになっているわたしをかっちゃんは何も言わずに見ていた。わたしは、ずっとヒーローになりたかった。憧れを捨てられないほど子どもで、黒いもやもやとした感情を上手いこと捨てられず、知ったような言葉で言い訳として塗り固めてしまうほど大人である。そんな部分をひっくるめてかっちゃんは、わたしとの恋人関係と、ヒーローとしての復帰の道を取り戻しにきてくれたというの?やっぱり、ずるいや。俯いたら膝の上にこれでもかというくらいに涙がぼたぼたとみっともなく染みを作った。す、と影が落ちて、首元にあたたかい感触。働きが悪くなった頭では、かっちゃんに抱きしめられているということに気づくのに時間が掛かった。不器用なかっちゃんだから言葉は無くとも、それが彼なりの優しさなのだとよく知っていた。




「今までお世話になりました」


花束を抱えて頭を下げたら、沢山の拍手がわたしの頭上を包み込んだ。春が出会いと別れの季節だとはよく言ったものだ。卒業からお世話になった事務所を、わたしは今日退職した。後輩の子が目を潤ませたものだから、もらい泣きしてしまいそうになった。ガランとしたデスクを振り返るとやっぱり少し寂しくなったりもした。それほどに思い入れもあったのには間違いはなかった。花束や荷物、プレゼントを抱えて事務所の階段を降りると、事務所の前によく知った車が停まっている。


「かっちゃん」
「乗れ、行くぞ」
「それ誘拐犯みたい」
「黙っとれ」


荷物を後ろに乗せて、わたしは助手席に乗る。動き出した車に、思わず事務所の方を振り返る。涙が出そうだった。わたしのアンニュイな気持ちを悟ってか、かっちゃんは何も言わなかった。窓の外では木々達が葉を青々と茂らせて花を咲かせる準備をしている。反射した陽射しが揺らめいていた。流れていく景色を見ていると、ふと右手があたたかい。そっと握られた手に、そんな気の利くことが出来るようになったのかと思わず緩んだ頬を見えないように少し抓った。


「ねえ、かっちゃん」
「んだよ」
「ありがとね、あとすっごく好き」
「ハッ、今更だろ?あと俺のが好きだわ」


遠慮のない言葉にかっちゃんらしいなあと苦笑がこぼれた。バッグの中には、新しい事務所の鍵と、もうひとつ、新居の鍵。今日からわたしはかっちゃんの事務所のヒーローであると同時に、かっちゃんの恋人として同じ部屋に暮らす。窓を少しだけ開けると鼻先をくすぐる青いにおいが今まさに始まる新しい生活にぴったりだった。1年前の自分に言ったら驚くことだろう。年甲斐もなく、はしゃいでいると思う。けれど、今が一番楽しい。繋がれた右手から心臓まで、恋というにはもっと重い、愛というやつが繋がっているようだ。ここ数年のわたしなら、恋なんてものに杞憂するなんて面倒だと思っていたのに。でも、かっちゃんならそれもいいなと思えるのは、わたしが恋をしているからなんだろう。


「着いた」
「運転ありがとう」


車を降りて、抑えきれないワクワクを胸に新しいマンションの入り口に向かう。「なまえ」呼ばれて振り返ると、かっちゃんがふ、と緩んだように笑ってそのままキスされた。これもまた、かっちゃんがわたしに恋をしているからなんだろう、と笑ってしまう。しっかりとかっちゃんの左手を握る。これからも、ずっとずっと離さないように。かっちゃんも同じ糖度で生きていけるといい。


たかが愛がすべて 181223

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