まさかこんな感情を10年も患わさせることになるとは思ってもみなかった。

ガキの頃から薄々感じていたが、中学になる頃にはスクールカーストなるものがあることを知った。その頃からはそれがありありと目に見えていたし、俺はそれの一番上に君臨しているのだということも知っていた。これからもそうだと思っていた。が、進学先では、流石の雄英といったところだろうか。そこでは男も女も皆対等に話し掛けてくるやつばかりで、馴れ馴れしさになんだこいつらとイラついた覚えがある。モブのくせに、と。なまえもそのうちのひとりだった。


「爆豪くんってさ、その髪の毛地毛?」
「ハア?」
「こっちの席から見ると爆豪くんの髪って太陽の光に透けてすごく綺麗なんだよね」
「クソどうでもいい」
「あとさ、爆豪くんの目」
「んだよなんか文句あんのかよ?」
「ううん、好きだなって」
「うるせえ黙っとけや」
「つれないなあ」


そんな他愛もないことを左隣から話し掛けられたような気がする。ぶっちゃけ、言葉に出した通り、実際クソどうでもよかった。けれどこの女が機嫌とりに褒めているのではなく、ただ対等に、至ってW普通Wに話し掛けてきているのだと言うことはわかった。乱暴な言葉で返したにもかかわらず、そいつは困ったようにやんわりとひとつ笑みをこぼしただけだった。少し傾けた顔から、さながら絹のような髪が零れ落ちるように耳の上から流れたのが頭の中で何度もリフレインされてうざってェなと思う反面、あいつって女なんだなとなぜだか何度も繰り返して考えていた。

きっかけが大きくあった訳ではない。日常に転がるなまえの存在に、これが恋というやつだと気付くのにはそう時間を要さなかった。俺の感情に気付いた周りのアホどもが騒ぎ立てて、そんなことでさらに気付かされるのは癪だったが、まあそんなもんだろと冷静な自分もいたし、もやもやと燻る感情の名を知れてつっかえが取れたような感じもした。どうやって、なまえを落とすか、なんて上から目線で考えていたことも覚えている。幸いにもくだらねェドラマでやっているような、頭の中がなまえでいっぱいになって何も手がつけられないだのぼんやりするだのなんてことは無かった。そんな風に天秤が傾いてどうにもならないようなやつを好きになったわけではない。ただ、恋というやつの厄介なところは、ふとした時に思い出すことである。寮で一人になった時、トレーニングで一息ついた時、まあ本当にふとした時なのである。上がっている口角のこととか、そんなに高くない鼻のこととか、大きな目をくしゃっと細めるところとか、誰も気にも留めないようなところが気になって気になって、これが恋愛ってやつかよとその度に溜め息をついて追い払おうとしたものだ。交わす言葉は意識すればするほど増えていったような気がするし、なまえも満更でもねェ様子を見ると心臓の辺りがぎゅっと掴まれたようにジクジクと熱を帯びた。有名な映画で、「奴はとんでもないものを盗んでいきました」「…貴方の心です」というセリフがあるが、まさにそれだ。(お姫様かよ俺はと思ったことはこの先誰にもいうつもりもない。)自分の胸に甘ったるいこんな感情が存在していることなど今まで一度も知らなかった。その甘ったるい部分全て、なまえに持っていかれたのである。




俺となまえが付き合い始めたのは1年の終わり頃だった。半ば強引な告白だったのにも関わらず、なまえはいつもの笑顔にやや頬を赤らめて、「いいよ」と言ったのである。振られることなんざ1ミリ足りとも考えては居なかったが、それでも、やっぱり嬉しかった。なまえという女は、子どもみたいに無邪気に笑うくせに、考えていることは同級生よりも達観しているところがあった。「ずっと一緒にいようね」なんて非現実的で夢見がちな言葉を言うことは滅多になかったが、極たまになまえの未来に俺がいるようなことを匂わせることを言うので当たり前だという顔をしながらも、こそばゆいような嬉しさを柄にもなく感じていたものである。付き合いを重ねていった時間は人生のほんの一部でしかないにも関わらず、俺の脳内の半分以上はなまえのことが常にあった。思えばそれくらいになまえが好きだったのだ。しかし3年の夏頃、突然デクと俺はオールマイトに呼び出されることとなる。そこで最悪の噂のことを聞くのである。オール・フォー・ワンの思考に感化されて陰で動いているやつがいるらしい。神野の悪夢を思い出すその話題にデクの肩が強張った。オールマイトの眼光もやけに鋭い。しかしまあ俺をまた、狙っている連中が居るというのだ。馬鹿馬鹿しいったらありゃしねェ。そう言って跳ね除ようとした時に、オールマイトがピッと俺の鼻先を指差した。


「爆豪少年、違うんだよ。狙いは君だけじゃない。悪党が人を強請る時、何を狙うか知っているかい」
「アァ?!んなもん、…ッ」
「かっちゃん、もしかして、みょうじさんの情報が割れてるんじゃ、」
「…ッせェ!!黙ってろクソカス!!」
「君たちが付き合っていることは側から見ても分かっているよ。君がみょうじ少女を大切に思っていることも。たかが高校生の恋愛、なんて私は言うつもりはない。だからこそ、今君にこうやって真剣に伝えているのだよ」


神野の時の、どろどろとした底無し沼のようなおどろおどろしい悪意。それがまた迫っているというのか。しかも、なまえに。なまえが、なまえが。ぐるぐるとオールマイト引退の時のようなショックが俺を襲った。次はなまえかもしれねェだと?今は、高校生という、それも雄英という高い壁に守られている。しかし、そのタイムリミットもあと半年ほどなのだ。じゃあ、卒業してからはどうだ?ヒーローとして社会に出るということは、雄英という壁を失うことになるのだ。俺は別にいい。また、ねじ伏せればいい。けれど、なまえは?あいつだって実力は十分にある。それでも、あいつは俺の彼女なのだ。あいつはあいつで勝手にするだろなんて言えなかった。知らないところで襲われたら?家に押しかけられて攫われたら?そうなったら、守れねェじゃねえか。今までに感じたことのない恐怖が首根っこを掴んで嘲笑っていた。オールマイトは決断を急がなかったが、卒業までにはなんとかしないといけない事は何となくわかった。その日から極力外出を避けるようになった。初めて、失うことへの恐怖みたいなものを感じていたからだ。今までもそんなに外出ばかりではなかったからか、なまえは引きこもってばかりの俺に文句のひとつも垂れることはなかった。結局、解決策は見つからないまま、卒業を迎えることになってしまった。


「…もう、別れる」


こんな酷い言い様だったのに、なまえはひとつ、「そっか」と困ったように笑っただけだった。別れを切り出したくせに、目頭がジンと熱くなったのでさっさと背を向けてなまえから遠ざかる。当然、呼び止めてくれることも泣き崩れる声も聞こえなかった。


「クソ!!…ックソ!!」


なまえから完全に姿を隠したところで思いっきり校舎の壁に拳を叩きつけた。蝕むような痛みと行き場を失った恋心が、ごとりと音を立てて落ちていく。しかし、俺は決めていた。さっさとクソったれな奴等を片付けたらまたなまえを迎えに行くと。なまえだって、きっと、必ず。自分ばかりに都合のいいことしか考えられない頭を振って、唇を噛んで俺は雄英を卒業したのであった。想像していた卒業よりも、ずっと、苦しい卒業だった。




「おー!爆豪!お前も同じ現場だったんだな!」
「あァ」
「麗日も緑谷も一緒なんだぜ!奇遇だよな!」


ついにこの日が来た。神野の二の舞を踏まないように、隠密に調査を進め、ようやく敵のボスの居場所を掴むことができた。オール・フォー・ワンの時ほどじゃあねェ。それでも収集のかかった事務所は何組もあったことを見ると、ヒーローたちの本気度がうかがえる。卒業して俺は都内の実力のある事務所に就職した。その間、ずっとなまえを忘れることはなかった。なまえも都内の事務所に就職したが、現場で会うことも街ですれ違うこともなかった。もちろん連絡なんて、取ることもなかった。これが終わったら、これさえ終われば。はやる気持ちを抑えながら肩を鳴らした。やっと、やっとなのだ。


「みんな!お疲れ!爆豪大活躍だったな!」
「当たり前だろ誰だと思ってんだ」
「まあ、何回も人質に取られるような男だとは思ってなかったけどな。…つーかよ、爆豪、変なこと、聞いていいか」
「んだよ」
「今回の事件、みょうじとなんか関係あるか」


こんな時だけ、鋭いやつだ。俺の舌打ちを肯定と捉えたのかお祝いムードにはそぐわないなんとも言えない気まずい顔をする切島。俺たちの話を近くで聞いていたのか、デクと麗日が近づいてくるのが横目に見えた。


「爆豪くん、もしかして、なまえちゃんのこと、まだ」
「…っせェな!悪ィかよ!」


点と線が繋がったような表情をした麗日をヤケクソで睨みつけた。何か言いたそうな麗日だったが、それ以上口を開くことも無かった。現場に解散の言葉が掛かると同時に事務所を飛び出した。「かっちゃん!」とデクの野郎が呼ぶ声が聞こえたが当然の如く無視した。面倒ごとは振り払えたはずなのに、スマホを開く手が、柄にも無くやけに震えていた。連絡先は、まだ残っている。でもなんて言えばいい?あの時何のフォローも入れず、待っていてくれとも言わず、ただ突き放すような言葉で「別れる」とだけ残した最悪の結末を迎えた関係に、今更何と声を掛ける?土曜の夜、駅前の灯りがやけに浮かれて見え、きっかけすら掴めない俺を馬鹿にしているような感じがして嫌になった。結局、俺はそこから数年なまえに連絡することが出来なかったのであった。


「なまえー!待たせてごめんな!」
「ううん、大丈夫だよ」


あれから数年経ったとある日のことである。休日、買い出しの帰り道。聞き覚えのある名前、聞き覚えのある声。息が止まりそうになった。人々の隙間から見える、なまえの姿。その隣には見たことのない男。そうかよ、まあ、そうだよな。当たり前にそれは恋人同士だった。皮肉ったらしいものだ。久しぶりに見かけたなまえは誰かのものになっている姿だとはよ。何年かぶりに見たなまえの姿は、まるで知らない奴みたいで、なまえと知らない男の姿がポラロイド写真に収められているように世界から切り取られて見えた。そこの世界に俺は居ない。漫画やドラマを見ているように非現実的で他人事のように見えた光景であった。かと言って諦めがつくかと言われればそうも簡単につかないものである。それが恋愛というやつの厄介なところだ。捨てられない恋心を無理やりポケットの奥に突っ込むようにねじ込んだ。まあ、そりゃそうだ。別れたんだ。俺になまえを縛り付ける権利もなければ、幸せを願う権利もない。自分に言い聞かせてなまえたちに背を向ける。しかしまあ、それがまだ続くと誰が予想していただろうか。

多少なりとも穏やかさを取り戻したのに、それからの俺は荒れに荒れた。どうしようもない気持ちを仕事に向けて、対敵の仕事では相手に怒りをぶつけるようにしたため、雑誌には俺の仕事に対する賛否両論な意見が書かれたりもしたが、どうでもよかった。他人のことより、他人になってしまったような女のことが今だに頭から離れないのである。飲みに行くたびに馬鹿みてェに飲む俺を切島がたしなめるのも最早毎度のことであった。俺の鬱憤を切島は問い詰めることも無かったし、俺も同窓会で会っているだろうなまえのことを切島に尋ねることもなかった。そんな俺がようよう落ち着くということが出来るようになったのはそこから更に数年経った時のことであった。落ち着くといっても八つ当たりしたりめちゃくちゃな仕事のやり方をしたりすることがなくなったというだけで、なまえへの気持ちだけはどうしても忘れることなんて出来るわけもなく他の女に言い寄られようが突っ撥ねて、簡単に過ぎる時間をただぼうっと眺めるようにしていたのであった。そんな俺にある仕事が舞い込んできたのである。


「爆豪、とある事務所のヒーローが怪我をして欠員が出たそうだ。お前が代理で行ってきてくれ」
「……はい」


渋々受けた仕事だったが、それが俺の運命を変えることになろうとは思っても見なかった。指定された事務所に行き、上司にあたるやつに仕事の話を聞いている時だった。西陽がやけに眩しい日だった。「失礼します」伏し目がちに現れた女。そこに居たのはまぎれもなくみょうじなまえという女だった。そこからは上司の言葉など一言も頭には入ってこない。気付けば10年という月日が経っていた。少女だったなまえの面影を少し残して、なまえは大人になっていた。ああいつだっただろうか。頬杖をついて顔をこちらに傾けると耳にかけた髪がさらさらと落ちるそのたおやかな姿が重なって指先からどっと血が駆け巡るような感じがする。


「久しぶりだね」
「おう」


他愛もないやりとりさえも懐かしい。テキパキと職場の案内をしていくなまえになぜヒーローを辞めているのかという疑問と今更なんと声を掛けようか、と思っている時である。俺の口をついて出たのは、なまえの名前だった。すると、ぽろり、と一粒、真珠のように艶やかな涙がなまえの頬を伝う。色づいた頬にそっと触れて涙を拭った。なまえは、どうして泣いている?嫌だったのか?あの時の俺の態度を思い出しているのだろうか?しかしなまえの口もとはやわらかに緩んでいたし、その後には冗談も言い合えた。ああやっぱり、俺は。覚えている。その頬のやわらかさも、すぐに緩む口もとも、涙に浸ったその長い睫毛も、つんと透き通るような声も、覚えている。その理由はたったひとつのものであることも、覚えている。




期間限定ではあるが、なまえとの仕事が始まった。なまえは大人びた顔をしていたがやはりなまえのまま。酷い別れを切り出した俺にさえ分け隔てなく接する姿に都合よく湧き上がる安心感と、完全に過去になってしまった俺にだからあくまで普通に接することができるのか?という勝手な不安から、ガキのままの感情が膨れ上がった言葉をなまえに投げつけた。勝手なことをたくさん言ってしまったと思う。それでもあの頃から変わらないなまえの優しさと懐の広さに甘え、今の心地よい距離感を壊すのもなんだか気が引けて、ずっとあたためていたはずの言葉を口に出すこともなく生温い関係と日々が続いていた。


「爆豪さ、最近やけに機嫌いいよな」
「ア?当たり前だろ」
「なんでだよ?!いいことあったのか!」


切島とサシで飲みに言った時のことである。以前のように馬鹿みたいに酒を煽ることもせず、ちびちびと飲み進める俺に切島が問う。なまえと同じ職場であること、弁当を作ってもらっていること、まあ当たり前だが開いた口が塞がらないと言わんばかりにぽかんとしていた。


「おめー、そりゃ男らしくねェだろ…!」
「んなことわかっとるわ!」
「まあ、だよなァ…あ、まあアレか、一途に思い続けてるっつーところはすげェよな。爆豪がこのままつっつーこともねェだろうけどよ、早いうちに決着つけた方がいいんじゃねえのか?」
「それもわかっとるわ!!」
「はは、だよな」


俺だって、いつまでも生温い関係に収まっているわけにはいかないとは思っている。露骨なアピールだってしているつもりだ。それでもなまえは大人の余裕と元々達観した性格もあってか、それをうまくのらりくらりとかわして、少しでも波風立てまいとされているような感じがしている。ヒーローを辞めたことを本人から聞いた時、「かっちゃんには言えなかった」「こうやって言える日が来たということはちゃんと進めた」と言った。「今の人生を気に入っている」とも。その言葉を察するに他の連中は知っていたんだろう。薄くはなってきているだろうが生々しく刻まれたなまえの腕の傷を思い出す。なまえのへらへらと笑ったその目の裏側にどんな葛藤があって、どんな悔しい思いをしたのか、俺は知らない。知る権利も与えてもらえなかった。もしかしたらなまえの中で俺に伝えたことで過去を清算したのかもしれない。それでもなまえのへらりと笑ったあの顔を思い出すと胸が苦しくなるように愛おしくなる。あ、やべェ、会いてェ。


「今みょうじのこと考えてたろ?」
「心読んでんじゃねェ」
「爆豪そういうところわかりやすいよな」
「今日は帰る」
「おう」


会計を終えて、冷え込む夜道に飛び出した。なるべく、冷静なつもりだったが思った以上に足は早く動いていた。会いてェと思うのは酒が入っているからだろうか。足が勝手になまえの家に向かっていた。インターホンを押す指先にやけに力が入った。戸惑った様子で玄関を開けたなまえに断りもなく中に入るとスパイシーなにおいが鼻をツンとくすぐった。


「なまえ」
「なあに」
「今晩泊めろ」
「……は?」


もう、どうにでもなれや。引き返せねェし、引き返すつもりもない。風呂を借りて他愛もない話をした。空白を振り返って埋めるように、なまえの話をなるべく丁寧に聞いた。数年前に見た男のことを思い出したが、なまえが俺を追い出さないということは既に破局しているんだろう。俺の欠伸を見たなまえがそろそろ寝よっか、と促す。なまえを無理矢理寝室に追いやってソファーに体を放り投げたら、ソファーからなまえのにおいがした。薄暗い天井をぼんやりと眺める。まじで勢いで来ちまった。壁一枚隔てたところには10年好きな女がいる。寝室の扉の隙間から規則正しい呼吸が聞こえた。襲うつもりなんざこれっぽっちもないが、吸い寄せられるようになまえのところへ行くのは少しばかりの背徳感があるものだ。ベッドに腰掛けて、そのやわらかな髪をそっと梳いた。キメの細かい砂時計の砂がさらさらと零れ落ちるようななめらかな指通りにぐっとこみ上げる懐かしさ。


「なまえ、」


思わず呼んでしまったなまえの名前。慌てて指を離そうとすると、なまえの口もとがやんわりとゆるんだ。どうしてあの時、もっと何か言葉を掛けて傍に居られなかったのだろう。あの頃の俺は本当に馬鹿なガキだったと今更ながら思う。ガキみてえなアピールしてる場合じゃねェ。素直にならなければいけないと思う。月灯りの下、すうすうと寝息を立てるなまえの尊い寝顔を見ていたら、柄にもないことを考えていたのであった。




なまえは昔から料理が上手かった。個性が当たり前にある時代なのに、一切個性を使わない料理が楽しいというのは不思議なものである。それよりも不思議な感じがするのは、今ふたりでお酒を飲んでいるという事実なのだが。休みを共に過ごした中で、分かりやすくアピールしたつもりだったが、なまえはほんの少し気まずそうな顔をしたり、困ったように笑ったりと相変わらず上手いことかやしていくのだった。そろそろ、ケリつけても良いんじゃねえか。


「つーか、なまえは付き合ってたやつとかいたんか」
「いたよ」
「……そーかよ」
「結婚を意識したひともいた」
「そんなことは聞いてねえわ」


なんとなく聞けなかったことを口にしたら、聞きたくなかったような言葉が返ってきたので、ボヤッとこみ上げる嫉妬やら悔恨やらをビールで無理矢理押し込んだ。それでも止まらなかった。


「どんなやつだよ」
「別れ際にW幸せになってねWなんて言ってくれるようなひと」
「…んなやつお前には絶対合わねえに決まっとるだろ。幸せを手放したやつがお前の幸せ願うなんざそんな資格ねェわ」
「いやいや、それかっちゃんが言えた立場じゃないでしょ?わたしをあの時捨てたのに?」


なまえの目の奥が鋭く光ったような気がした。あの時確かに俺はなまえをW捨てたW。そう思われても仕方のないような別れの仕方だった。というかW捨てたWそのものだった。勝手だとは思うが、それでも俺はなまえが好きだった。


「だから取り戻しにきたんだろが」


あの頃は、クソみてえなプライドが邪魔して真っ直ぐなまえに向き合うことが出来なかった。はっきり言ってなまえからすればそれも身勝手な言い訳だと思う。10年前の別れの時の光景が目の前に蘇った。違うのは、大人になったことと、俺が冷静であること。今まで溜まってきたものを潤んだ瞳で吐き出すなまえ。正直ショックだった。都合のいい身体だけの女だと思わせていたことも、都合のいい女にするような男だと思っていたことも。話さなきゃ分からねえだろうなとぽつりぽつりと真実を語れば、なまえが小さく「うそだ、うそだ」と繰り返した。ビールをもう一本冷蔵庫から取り出して飲み干したら、アルコールのはずなのに頭がやけに冴えた。信じようとしないなまえの震えるなまえの瞳が10年前と同じ色をしているように見えたのは、思い込みなのか真実なのか。その細っこい体を抱きしめる。懐かしい。ずっと胸の奥に燻っていたもの、伝えたかったもの、伝えなければいけなかったこと。なまえの指先が、きゅっと俺の服の裾を握りしめる。


「好きだ」




なまえとの毎日は、駆け巡る季節のようにあっという間だった。俺は自分の事務所を設立して、徐々にキャリアを積み重ねていった。なまえもヒーローとして復帰して俺の背中を守っている。仕事を終えて帰路につく。家には今日はオフのなまえが待っている。なまえとはあれから順調である。元A組連中の祝福っぷりは凄まじかった。特にクソデクは洪水みてェに涙を流して「かっちゃん良かったね…!!」と言うものだから、なんだよこいつと引いたし余計なお世話だわと思った。(爆破してやろうかと思ったが、なまえに免じてしなかった。)まあそんなことはどうでもいいとして、やけにアンニュイな気持ちになる帰り道、「俺と付き合え」と言ったあの日の照れ臭そうに目を細めて笑う、あまりに綺麗な光景を思い出していた。教室のにおいだとか開けっ放しの窓から吹く風がカーテンを膨らませていたことだとか、まだ簡単に思い出せる。左胸に在る甘ったるい部分は出会った時からなまえのものだったのかもしれない。ポケットの中の小さな箱の中が愛おしい重さで、小さく揺れる音がする。なまえの左手の薬指に輝くであろうそれをポケットの中で強く握りしめたら、これから先の未来にもなまえが居ることを確信したのであった。


左胸のお砂糖泥棒 190202 完結

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