兎にも角にも忙しかった。そしてすこしだけワクワクしていた。それは、かっちゃんがうちの事務所に応援で来てくれてからだった。かの有名な爆豪勝己がやってきたのだから、ありとあらゆるところからスーパーヒーローにラブコールが来るわけである。かっちゃんに涙を見せてしまったあの日から、当たり前にも日常は目まぐるしく過ぎて行き、かっちゃんの活躍に心躍らせる暇すらなかった。きっと今日も残業である。


「なまえさん、あの」
「んー、どしたの?」


睫毛を長くカールさせた後輩がふと顔をこちらに向ける。あまりの忙しさに今日も薄い化粧で残業だと心の内で嘆くわたしとは別世界に生きているような社会人三年目である彼女の瞼のアイシャドウが眩しかった。






短針がもうすぐ10を指す。明日こそ早く帰ってやる。早く帰って美味しいお酒を飲んでやる。あまりにも進みの早い時計を止めるような個性だったらよかったのにとため息を吐かずにはいられない。というか早く帰ってお酒を飲もうなんて、ほんとうにひとりぼっちの女の思考ではないかとこれまたため息が出る。ため息で溺れてしまう前に、さっさと帰ってしまおう。このままだと夜に溶けてなくなってしまう。事務所の電気を消すと、ひとつ気配を感じる。


「おい」


聞き慣れた声がふてぶてしく背中に刺さった。振り返らなくてもわかっている。かっちゃんである。


「帰んのかよ」
「お疲れ様。もちろん」


そのまま歩き出すと乱暴な足音が後ろをついてくる。


「送ってってくれるの?それとも、何か言いたいことでもある?」


言いたいことがストレートに言えるようになったのは、20代になってからだと思う。「学生の頃はよかった」という人もいるだろうけど、わたしにとっては、歳を重ねることは楽になることだった。例えば、自分で稼いだお金で自分の好きな洋服を買う。化粧を続けていればそれとなく上達してくる。自分に合うものと、自分がしたい格好を合致させるだけの経験値が気づけば蓄積されていった。そして、20代後半にも差し掛かるとああしなさいこうしなさいと直接的に何かを押し付けてくる人が減っていく。良くも悪くも、周りが自分に無関心であることが増えていくからだと思う。10代の頃、特に学生の頃は、あの子の個性がどうとか、あの子は可愛い、あの子は可愛くないとか言うことがある。このつまらない話題は狭いコミュニティの中でのただのお遊びだったことに気づいたとき、本当に自由になれたような気がして他人のあれこれを掌握せずとも、ふらっと耳に入った情報を上手く飲み込めるようになった。そして、このつまらないこのお遊びがとても馬鹿馬鹿しくなると同時に人に気持ちを伝えたりすることが何故だかすごく楽で真っ直ぐに伝えることができるようになった気がした。10代の頃のわたしなら、後ろをついてくるこの乱暴な足音に対してどう切り返そうか悩んでいただろう。何も言えなかったあかつきには、これっぽっちかと呆れるほどのちいさな悩みを抱えて悶々としたりしたんだろう。もともと物事ははっきりと伝えるようなタイプだったとは思うけれど、ちいさな悩み事を回り道をせずとも伝えられるようになったのは、大人になったからだ。かっちゃんに変わってないと言われたけれど、なんだかわたしは随分と変わった、と思っている。


「お前さあ、昼間のアレなんだよ、クソ感じ悪ィわ」
「…なんの話?」
「爆豪WさんWって、んだよあの言い方」
「は、そんなこと、」


思わず拍子抜けした。かっちゃんに書類を渡した時のことだと思う。職場で公私混同するわけにもいかないので思わずさん付けで呼んだのだ。それが気に入らないと言うのか。ぐ、と睨むかっちゃんに思わず眉をひそめる。


「もういいわ、帰る」
「意味わかんない!」
「わかれや!クソが!」


くるりと背中を向けたかっちゃんがドスドスと音を立てんばかりに歩いていく姿に「わかんないよ!」の言葉と本日何度目かのため息を投げつけてやる。それでもこれがかっちゃんという人間なのである。たぶん明日になったらまた、熱りが冷めたかっちゃんなんだろう。街の街灯や店の看板のネオンがピンクのアイシャドウをきらめかせた後輩の言葉を思い出させた。


「なまえさんって、爆豪さんとお知り合いですか?」
「同級生だったの、高校のね」
「へええ!すごーい!爆豪さんってかっこいいですよね!久しぶりに会って、わー!かっこよくなってる!とか、ときめいたりしなかったんですか?」


ときめくもなにも、元恋人である。ラメばりに目をきらめかせる後輩に苦笑をこぼすと、興味津々と言わんばかりの彼女の視線が痛い。きっと、ここで元恋人なんて伝えたらどうなるか。


「なんにもないよ」
「えーー」


つまらなさそうにパソコンに向き合う彼女はやっぱり眩しくて、やっぱり運命を信じていて、目まぐるしく今を生きているタイプの女の子なんだろう。苦手というわけじゃない。ただ、わたしはもうそういう世代を過ぎてしまったんだなあと思うと、なんだか妙に懐かしくなってしまったのは彼女のキラキラに当てられてしまったからなんだろう。それにしても、かっちゃんはかっちゃんでほんとうに変わらない。何か文句があったんだろうけど、それを上手く言えないところは相変わらず可愛いところだなあなんて、うつむくと自然とすこし口角が上がったような感じがした。帰ったら、マニキュアを塗ることにしよう。街のネオンに負けないくらいのラメを指先に。残業続きで忘れかけてたあのワクワクを少しだけ取り戻せたような気がする夜の街。


うつくしきのはじまりを知っている 180619

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