わたしという人間はとことんお人好しで甘いのだと知った。昨日の帰りにスーパーに寄った時にもお節介が顔を覗かせて、ふたりぶんの材料を買ってしまった。いやいや、冷蔵庫の中身はすっからかんだったから、結局買わざるを得なかったんだと言い聞かせた。彼だって大人なのだから、悪い冗談と捉えて放っておいたってよかったのだ。それどころか、わたしよりも絶対稼ぎがいいんだから、ご飯のひとつやふたつくらい、奢ってよね。電車に揺られながら大きなため息をつくと、それに合わせてバッグの中のお弁当箱ふたつ、カチャカチャと愉快に音を立てて笑ったようだった。お弁当を包むランチマットはわざとリバティのピンクの花柄を選んだ。勿論水筒も淡いピンクのものを選んだ。せめてもの仕返し。誰かに見られたら、笑われちゃえ。
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「爆豪WさんW」
「だから、その呼び方、」
「おべんと」
かっちゃんは今日も今日とて、仮眠室を王様の如く利用していた。通りすがりの事務所の後輩たちが「爆心地さんカッコいい…」とうっとりため息をついていく。通り過ぎるたびに咲くため息で大きな花束が作れそうだ。既にヒーローコスチュームに着替えた真剣な姿のかっちゃんは、確かにかっこいい。素直になれば彼のことを第三者視点で落ち着いて見ることができるが、何せ長年のイメージが付き纏ってしまう。強いて言えば、昔よりも多少は丸くなったな、という言葉が一番しっくり来る。「失礼します」とわざとかしこまってドアを開けてやった。片手には、可愛らしい花柄のお弁当袋とピンクの水筒。それを見つけた目が一瞬大きく見開かれてから、ニッと不敵な笑みを浮かべた。わたしのお弁当箱より、ひとまわり大きなお弁当箱。どうせ朝ご飯も食べてないんだろうとお弁当と一緒におにぎり3つ、握ってきた。辛子明太子と高菜、鮭。
「やればできんじゃねえか」
上から目線の言葉とは裏腹に、思っていたよりもずっとそっと頭に置かれた手のひらが前髪をぐしゃぐしゃに撫でまわした。今日の前髪は跳ねてて直すの大変だったのに。簡単にぐしゃぐしゃになった前髪を撫で付けるわたしの苦労も知ってか知らずか、やっぱりかっちゃんの顔は意地悪く笑っていた。輪郭をなぞるようにかっちゃんの手がおろされる。一瞬頬を掠めた指先。
「当たり前でしょ。あと、朝ご飯。おにぎり握ってあるから、しっかり食べてね」
「母親かよ」
「母親で結構。ヒーローが空腹で倒れたらカッコ悪いから」
「倒れねえわ」
「お弁当箱、空っぽになったらわたしのロッカーに入れておいてね」
それじゃ、と背中を向けて業務に戻ろうとすると、「おい」とかっちゃんの落ち着いた低い声が呼び止める。
「帰り、家まで送ってってやる」
「ええ、いいよ別に」
「ア?!黙って素直に送られてりゃいいんだよ!相ッ変わらずそういうところが可愛くねー女だなテメェは!」
目を吊り上げて怒りながら詰め寄ってくる胸板を「ハイハイ」と押し返す。可愛くなくて、結構。そのW可愛くねー女Wとやらと恋人同士だったのは誰なのやら。適当にあしらってドアを閉めたら、「今日こそさっさと仕事終わらせろや!」と向こう側からかっちゃんが吠える声が聞こえた。呆れた。大人になって、女の人の扱いのひとつやふたつ、覚えているのかと思った。そういえば、かっちゃんがマスコミに女性関係を報道されているのは見たことが無い気がする。上鳴はよく週刊誌に載っているのだけど。パソコンの電源を立ち上げると、その画面に映っているわたしの頬が緩んでいることに気づいた。こんなでも、やっぱりかっちゃんとの関係は心地よかった。かっちゃんがヒーローとしての勤めを果たして帰ってくる姿を間近に見ると、その圧倒的に純粋で真っ直ぐな姿にやっぱりワクワクした。再会したあの日、わたしの目を通して彼を見ていたのは少女だった頃の自分だった。追い風が吹くように鮮明に蘇った思い出がそうさせると同時に、もうひとつ確かで当たり前のことを思い出す。あの頃のわたしは、かっちゃんに全力で恋をしていた。だから、あの日あんなにも懐かしくなったのだ。ちゃんと全力の恋が過去になっていたから懐かしんで泣けたのだ。それなのに、かっちゃんの口から昔を思い出させるような言葉が出るとセピア色の思い出がどんどん彩られて、まるで昨日のことのようだった。かっちゃんはさも当たり前のように過去の関係を今も続いているかのように話す。正直動揺してしまうこともあるけれど、ちゃんとあしらえている自分がいることにもホッとしていた。
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やっぱり、不機嫌そうだ。
「待たせんな」
「勝手に待ってたのかっちゃんなのになあ」
今日はどうやら泊まっていかないらしい。肩にリュックを背負って腕を組んで待っているかっちゃんの目が此方を向く。「わたしの家、こっち」と駅の方を指差すと、黙って横に並ぶ。そういえば、いつもわたしの右側を歩いていたなあ。改札をくぐり、特に会話をするわけでもなく電車を待った。雑踏に紛れて右側から確かに声が聞こえた。
「……なまえ、何でヒーロー辞めてんだよ」
ヒーロー科を卒業してヒーローとして活動していない人なんて極稀だ。ましてや雄英を卒業しているのに、所謂OLをしている人はわたしたちの学年には居なかった。此方を見下ろすかっちゃんに苦笑を返す。わたしだって、オールマイトみたいなヒーローになりたかった。高校時代にかっちゃんにも話したことがある。わたしもオールマイトみたいなヒーローになりたい、全力で頑張りたいと。ヒーローとしてデビューして三年、ようやく将来への切符を掴みかけた時だった。敵に右腕をやられてしまったのだ。ヒーローをやっていれば明日は我が身、誰がいつそうなるかなんてわからない。たまたまわたしだっただけ。そのせいで今も右の腕の個性が上手いこと使えない。日常生活に然程支障はないが、ヒーロー活動には重大な支障があった。知名度もそこまで高くないわたしが引退をしようとマスコミに取り上げられることもなかったし、この事実を知っているのは、そのまま雇ってくれている事務所とかっちゃんを除く元1-Aの皆んなだけだ。わたしのヒーロー人生は、いとも呆気なく終わってしまった。「爆豪に言わなくていいのか?」と切島くんが寂しそうに言ったけど、「絶対に言わないで」と念を押した。やっぱりかっちゃんは知らない。その日以降、かっちゃんと会わないようにしていた。会わないようにしていたら、いろんな傷がちゃんと癒えた。当時のわたしは、どんどん駆け上がっていくかっちゃんの背中にまだ複雑な思いを抱いていたものだから、いろんな感情が押し寄せてきて言えなかった。いつか言わないといけない時が来ると思っていたけど、今なら笑って言える。そっと右袖をまくってかっちゃんに見せる。今でも酷く、醜く残っている傷。
「なまえ、お前、その傷…」
「かっちゃんなら、この意味わかるよね」
腕の傷を隠すと、「そうかよ」と呟いてそっぽを向いてしまった。目元に前髪がかかって、その目が何を思うのかは分からない。しみったれないでよ、と言うとひとつ小さな舌打ちが返ってきた。
「…かっちゃんには言えなかったんだよねえ」
「…」
「でもこうやって言える日が来たってことは、ちゃんと進めたんだよ」
10年が経とうとしている。かっちゃんのように強い信念を持って人生のレールを切り替えないひともいるし、わたしのようにレールそのものを替えざるを得なかったひともいるのだ。自分自身で掴んだ人生を今更とやかく言いたくはないし言われたくはない。ぐうっとひとつ伸びをして深呼吸する。
「ッてェ!」
「だからさ、そんな顔しないで。わたしを勝手に悲劇のヒロインにしないでよ」
かっちゃんの顔が駆けっこで負けた子どもがするみたいに悔しそうに歪んでいたから、背中を思いっきり叩いてやった。かなり重たい音がして、ちょっとやり過ぎたかなと心の中で舌を出す。わたし、結構今の人生気に入ってるんだからね、と付け足した。かっちゃんはわたしの気持ちを察してくれたのかそれ以上何も言わなかった。電車に乗って徒歩10分のアパートへ帰る。いつもはひとりだけど、今日はかっちゃんとふたり。
「ひとりで帰れるって言ったけど、やっぱりありがとう。話せてよかった」
「だから素直に送られてろって言っとんだ」
アパートの階段を上がりきって振り返る。かっちゃんの赤いルビーのような目がまだこっちを見ていたから大きく手を振った。ポケットに突っ込んだ片手をわざわざ出してくれて、本当に小さく手を挙げたのがなんだか可笑しくてへらへら笑ってしまった。
「かっちゃーん」
「んだよ」
「お弁当、美味しかった?」
「……金平牛蒡が美味かった」
しんと澄み渡った夜の空気に、ぶっきらぼうだけど、かっちゃんにしてはとても丁寧な返事が確かに耳に届いた。鷹の爪多めに入れたこと、気づいてくれたかなあ。角を曲がるまでかっちゃんの背中を見送る。街灯の灯りに透けるかっちゃんの髪色にうらやましいほど憧れていたんだっけ。かっちゃんは、ヒーローを辞めた理由を聞きたくて家まで送っていくと言ったのかもしれない。再会からずっと考えていたのかもしれない。わたしもいつか話さなければいけないと心の何処かで気に掛けていたことを話せて重荷がおりた。10年前で止まっていた時計の針が少しだけ進んだような気がした。
夜明けのすき間まだ青いままの感情で君のことを考える 180920
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