クミン、ターメリック、コリアンダー、あとはカイエンペッパーにガラムマサラ、その他諸々。様々なスパイスを、まるで子どもがおもちゃを箱からひっくり返すようにキッチンに並べた。キッチンを包むスパイシーな香りを胸いっぱいに吸い込む。久しぶりの三連休だ。次の休みには、スパイスからカレーを作ると前々から決めていたのだ。ホーロー鍋とフライパンを引っ張りだすと自然と心が躍る。もう慣れてしまったひとりの夜。仲良しの子たちに遊びのお誘いをしてみたが、ヒーロー業の子たちとは、そう休みも上手く合わないらしく全滅だった。だから、ひとりを満喫してやると意気込んだのである。今日の夜からカレーを仕込む。明日は出来たばかりのショッピングモールに買い物、そして美味しいコーヒーショップにいく。明後日は駅裏にできた居酒屋に行きたい。考えれば考えるほど、楽しみになる。熱したフライパンにニンニクと手羽元を乗せると、ジュワッと何とも小気味のいい音がした。ピンポーン。突然のインターホンの音。宅配便でも届いたのだろうか。わたしは何も頼んでないはずだけど。インターホンの画面に映る人物に思わず菜箸を落としそうになった。


「なんで、かっちゃん…?」


インターホン越しの白黒のかっちゃんが、そこには居たのである。慌てて携帯を確認したけれど、今から行くとも行っていいかともなんの連絡もなかった。この間から、悪い意味でかっちゃんのことが頭の中の大半を占めていた。ふたりの関係にある、掛け違えたボタンのような、はまらないピースだらけのパズルのような、何とも言えない曖昧さと違和感のようなもの。お茶子たちと飲みに行ってから加速する曖昧さへの疑問。高校生の頃のかっちゃんとのことは今やきちんと思い出に変わったというのに、ヒーローと一般人、又はヒーロー爆心地の多くのファンの中のひとりというだけの線引きされた、他人とも身内ともつかない関係だけが残った。かっちゃんを突っぱねたいわけでもなく、それ以上踏み込む気持ちにもなれない。とりあえず、玄関先で待たせ過ぎて怒られるのも何だし、と鍵を開ける。


「……かっちゃん、仕事お疲れ。で、どうしたの?」
「中入れろや」
「いいけど散らかってるよ」
「気にしねェわ」
「何か用事でもあるの?ねえ!」


まるでチンピラのよう。わたしの質問を無視して、ズカズカと中に入っていく後ろ姿を呆気にとられて見つめることしか出来なかった。かっちゃんは遠慮というものを知らない。ソファーにでも座ってて、と言おうとしたらもう座っていた。リビングにかっちゃんが居るのは何とも不思議だ。とりあえず冷やしたお茶を出して、かっちゃんの次の言葉を待ちながらカレーの下準備を進める。


「なまえ」
「なあに」
「今晩泊めろ」
「……は?」


頭をガツンと石で殴打されたような感覚。簡単に落とされた爆弾にぐわんぐわんと脳内に警報が鳴り響く。いい年した男が家に泊めてくれだって?しかも元恋人が?慌てて振り返ってもかっちゃんの表情はいつもと同じ、ひとつとして変わってはいない。


「ちょ、ちょっと待ってかっちゃん、それはおかしいよ」
「何がおかしいんだよ」
「いや、だって、あー、ほら!かっちゃんは人気のヒーローでしょ?マスコミに報道されたらどうするの?それに、彼女とか」
「いねェわ」


ずっとな。わたしが言い切る前に食い気味に遮られた言葉。かっちゃんが小さな声で「ずっと」と付け足したのも間違いなく聞こえた。お弁当をわたしから受け取っているくらいだから今はいないんだろうということは簡単に想像がついていた。恋人がしばらく居ないからと言って、彼女がいる男にお弁当を渡して喜ぶほど、不貞行為に夢見るような女ではない。頓珍漢な質問だったかもしれない。それよりも、ずっと、と付け足された言葉がわたしの中に小さなささくれをつくった。ずっと、というのは、わたしと別れてからずっと、という意味なのだろうか。それとも、単にしばらく恋人がいないということを言ったのだろうか。わたしが質問を投げかけたところで納得のいく答えは返ってこない気がした。そもそも倫理的におかしいのだ。「風呂借りる」そのまま立ち上がってかっちゃんが勝手にお風呂に入っていくのを止められないまま、根っこが生えてしまった足を恨んだ。ようよう動いた時には、かっちゃんはお風呂場の中。仕方なくタオルの準備をしていると、シャワーの音とお風呂場のドア越しにかっちゃんの影が映る。ここまで来ると戸惑いよりも呆れて物も言えないくらいには冷静になってしまう。わたしたちは恋人だった。恋人だから、それなりのこともした。だけど、恋人だったのは人生のうちのたったの2年間程だった。それも高校生の頃。会っていない期間の方が圧倒的に長いのに、かっちゃんはその期間が無かったかのような高校の頃の延長線上で接してくる。ますますわからない。大人になったのに、わからないことだらけだ。




「なまえは明日何すんだ」
「新しくできたショッピングモールに行くつもり。かっちゃんは?仕事?」
「休み。…俺もいくわ」
「朝早いよ」
「だからなんだよ」
「疲れてるんじゃないかなって」
「疲れてねェわ」


なんて横暴な。思わず苦笑が溢れた。ひとりでじっくり買い物しようかと思っていたけれど、かっちゃんが居てもいいかもしれない。アイスコーヒーを飲みながら他愛もない話をする。アイスコーヒーの苦さと煮込んでいるカレーの匂い。人生はスパイスだらけだ。あんなに話せない、会わないようにしていた人と、こんなにも近い距離でなんでもない会話を繰り広げている。急に詰められた距離感も不思議と嫌ではなかった。かっちゃんが小さく欠伸を噛み殺す。


「そろそろ寝よっか。かっちゃんベッドで寝なよ、わたしソファーでいいから」
「俺がソファーでいい」
「でも」
「いいっつってんだろ」
「じゃあ、有り難く」
「ここなまえの家だろが」


ベットに潜り込むと、自分のにおいと、いつもと違う、かっちゃんのにおいが混じって部屋に漂う。別れた人間が記憶に残るのはにおいだという。まだ確かに残っている。かっちゃんのニトロから発されるであろう甘いにおい。辛いもの好きでツンツンと尖っているかっちゃんから発される甘いにおいは何だか可笑しくて、それでいて安心した。かっちゃんとの再会から1ヶ月が経とうとしている。1ヶ月前の自分に今の状況が想像出来ただろうか。1LDKのわたしの部屋にかっちゃんが居て、泊まっていくだなんて。付き合ってもいない男の人が泊まっていく、それも関係はわたしにとって特別な関係を持っていたひと。そんなことを考えているうちに、うつらうつらと瞼が落ちる。わたしは案外神経が図太いのかもしれない。


「なまえ、」


名前を呼ばれた、ような気がする。月明かりだけが頼りの薄暗い部屋、指先もつま先ももう眠っていて、起き上がれない。ギシ、とベッドのスプリングが鳴いて背中の方が沈んだような感覚。髪の毛を梳かす、誰かの指先。心地の良い夢だろうか。とても懐かしい。いつの頃の記憶だろうか。幻か現実かわからないままの微睡みの淵、そっと意識を手放した。


あとは落ちるだけの微睡みの淵で君を待っている 181008

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