なんの手出しもされずに布団に潜り込んできた理由も、突然縮められた距離の意味も完全にタイミングを逃して聞くことができないまま、いつもよりひとりぶん多い洗濯物を干した。かっちゃんの男物のTシャツの皺を伸ばす。こういう暮らしはいつぶりだろうか。ベランダから窓越しにかっちゃんの様子を伺うと、丁寧にもお皿を洗ってくれていた。なんだか、ふたりで、暮らしているみたいだ。あの頃思い描いていた生活は、幻のように今を駆け抜ける。思い出片手に奇妙な形で戻ってきた憧憬。鱗雲がたなびく晴天に似つかわしくない苦笑をこぼすしかなかった。そろそろこの曖昧さにケリをつけないと、と思いながらもそのぬるさが楽であることもやはり事実。ダラダラと関係を続けていった先に何があるのか。そもそも、この関係がいつまで続くのか。冷めてみたり時々胸が無性に熱くなったり込み上げる懐かしさを、かっちゃんも感じたりじているのだろうか。まだ、答えは出ない。
「かっちゃん、洗い物ありがと」
「楽勝だわ」
さすが、才能マン。要領がいい。掃除機までかけ始めてくれているかっちゃんを横目にメイクを始め、かっちゃんが掃除機をかけ終わる頃には、マスカラを睫毛に乗せるところであった。
「なまえ、素っぴんとあんま変わんねェ」
「そうかなあ、ちゃんとメイクしてるんだけど」
「…睫毛長ェな」
「長くしてるの」
「まあ元々だろ」
いつの間やら用意を終えたかっちゃんがメイクをするわたしを頬杖つきながら眺める。こうもジロジロ見られるとこそばゆかった。付き合っていた頃は華の高校生の頃とはいえ、雄英はかなり忙しかった上にわたしたちの世代は何かと面倒ごとに巻き込まれ続けていたから落ち着いて遊びに行ったことなんて余り無かった。かっちゃんなんて特に出不精だったから余計だ。三奈や上鳴たちみたいにハツラツとしたタイプでは無かったわたしたちはお揃いのキーホルダーも持ったこともなければ、デートでプリクラを撮ったことも無かった。その頃、他校に進学した友だちが「彼氏と旅行に行く」や「彼氏とカラオケに行く」と言っていて、そんなわたしでも、ほんのちょっとだけ羨ましかった。遊んでいる暇は無いとはいえ、少しだけでも何処かに行きたかった。就職も決めた3年生の終わり頃からかっちゃんは余計に外に出なくなった気がする。それでも当時はそんなかっちゃんが好きだったのだけれど。ただ、それが今、1日を掛けて遊びにいこうとしているなんて、今更、なんだかなあとも思ったりもした。
「かっちゃん、ほんとに買い物付き合ってくれるの?」
「当たり前ェだろ」
「ここ最近仕事が忙しかったから、今日は目一杯いっぱい買い物してやるって決めてる」
「荷物持ったるわ」
「やっさしーんだね?」
からかうようにかっちゃんの顔を覗き込んだら、かっちゃんが何か言いたげに口を少し開けた。けれどそれは直ぐにいつもの意地悪なニヤニヤ顔になり、「寂しい女の買い物に付き合ってやるって言ってんだよ。どーせ夜はひとり酒だろ」と図星を突かれてぐ、と押し黙る。どうせ寂しい女だよと化粧ポーチを片付けていると「ひとり酒も付き合ったるわ」という言葉まで降ってくる。「もうこうなったらとことん付き合ってもらうかんね!」と意気込んでいるのを見たかっちゃんの目じりが、ほんの少しやわらかく下がったのを、わたしは知らなかった。
・
・
「あ、可愛い」
洋服にアクセサリー、キッチン雑貨を見て回り、そろそろ帰るかと、ショッピングモールでコーヒーを飲みながらウィンドウ越しに商品を見て回る。バッグ、洋服、アクセサリーたちがあちらこちらから、わたしを見てと言わんばかりに煌びやかに飾られていた。そんな中、わたしの目に留まったのはくったりと柔らかそうな黒いレザーのパンプス。ショーウィンドウの端の方、慎ましやかにこちらを見ているかのようなそれに目を奪われる。
「黒いやつだろ」
「なんでわかったの?」
「わかるわ」
「すごいね」
「見に行くぞ」
わたしの返答を待たずして突如引かれる右腕に躓きそうになりながら、かっちゃんの背を追う。片手に持ったアイスコーヒーの波が揺れ、汗をかいたカップから水滴がぽたりとひとつ地面に染みを作った。店内に入ると、かっちゃんはテキパキと店員さんに試着させて欲しいことを伝えてくれていた。高校時代の恩師が「合理的だな」とぼんやりと頭の片隅で笑っている。
「23.5だろ。玄関にある靴見た」
「用意周到過ぎるよ」
「普通だわ」
す、とわたしの前にしゃがんで左足にあのパンプスを履かせてくれる。あまりの紳士っぷりに中身は誰なんだと言いたくなったが、かっちゃんはさらりとそういうことが出来る大人になったんだなと妙に心が騒ついた。店内に流れるゆったりとしたメロディーと足から伝う熱がじわじわと覆っていく。どこかで見たことのあるような場面。ああ、そうだ、子どもの頃に読んだシンデレラの話だ。物語は終盤、シンデレラが王子様と出会うたった一晩の舞踏会の後、ふたりは別れ別れとなるけれど、王子様は国中を探し回って彼女の足にぴったりと合うガラスの靴を履かせて愛を確かめ合う。その後ふたりは幸せに暮らしました。めでたしめでたし。かっちゃんの淡いミルクティー色の髪が揺れるのをぼんやりと眺めて思う。じゃあ、わたしたちは?わたしはシンデレラでもなければかっちゃんは王子様でもない。美しい物語に重ね合わせたところで何が変わるわけでもなく、現実がすぐそこまで迫ってきていた。物語の結末を決めるのは自分たちしかいない。
「ぴったりだな」
「履きやすいし、何より可愛いし。買っちゃおうかな」
値札には可愛くない値段が記されているが、今日は発散すると決めたのだ。よし!と立ち上がると、かっちゃんがわたしの手からパンプスを奪ってレジに持って行ってしまった。
「かっちゃん?!」
「買ったるわ」
「ダメ!自分で買う!」
「俺のが稼いでんだよ、黙って買ってもらえや」
「それはかっちゃんの方が稼いでるけど、自分で稼いだお金で散財しないとダメなの!」
「また、お前はァ…!」
かっちゃんが目を吊り上げ始めたところで、後ろから店員さんの笑う声が聞こえてふたりで振り返った。
「あ、いや、すいません。仲のいいおふたりだなあと思いまして。そういう恋人同士って、すごく憧れます!」
乾いた笑いでやり過ごしたけれど、かっちゃんもわたしも否定も肯定もしなかった。結局靴はかっちゃんが大半のお金を出してくれて、わたしは端数分だけ払うことになった。そうでもしないとかっちゃんがお店ごと爆破し兼ねないほど怒りそうだったからである。ありがとうと感謝の気持ちを伝えたら、振り向かずに「おう」とぶっきらぼうにひとつ、言葉が返ってくる。核心を突くような話はお互いなんとなくしていない、寧ろ他愛もない話ばかりだというのに、この心地よさはどうしてこうも居座るのだろう。鼻先をくすぐる空気が透き通るような冷たさをほんのり連れてきている。気づけば日が沈むのが随分と早くなった。季節が吹き抜ける風のように通り過ぎていく。その肩には、先程購入したパンプスが袋の中で笑うように揺れる音がする。かっちゃんは口数こそ多くはないものの、高校時代なんて口を開けば牙をむき出しにして唸り声を上げるような手懐けられない獰猛な獣そのもののようなところもあったのに、今はその牙をすり減らしたか隠してしまったらしい。まるくなった獣の肩越しに一番星がきらりと輝いた。
牙のひとつもない獣 181025
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