たったの数文字が、たったの一言が、まるで呪いのように身体の芯から末端まで蝕んで見えない傷を残した。胸の奥の奥がしくしくと痛んで冷えた。そのくせ、目頭はいつまで経ってもじりじりと焼けるように熱いままだ。時計の針は折られてずっと胸の奥に突き刺さって取れないまま、時間を刻むのをやめてしまった。よくある話だった。好きなひとに思いを伝えた。少女漫画のヒロインが叶えていくような当たり前でありきたりの初恋は叶わなかった。傷痕を残したまま、春は知らぬ顔してやってくる。春なんて、やってこなくていいのに。

新しい季節、新しい生活がやってきた。新しい制服はずっと憧れだったのに、ちっとも心が弾まなかった。電車の窓に反射した暗い顔に新しい制服だけがきらきらと光って酷く似合わないし、ピカピカで真っ白の上履きも履くのを躊躇うくらい。振られたことなんてすぐ忘れると思った。新しい生活で初恋なんて霞むと思った。けれど、甘かった。思った以上に傷は深いらしい。1年も前のことなのに、この季節がきたら思い出してしまった。「あー、ごめん。みょうじさんのことはそういう風には見れないや」振られた時の言葉と苦笑いと気まずそうな表情が脳裏に刻まれている。好きだったあの人は今やもう違う高校で、心を踊らせ新しい生活に踏み出しているんだろうか。また目頭が熱くて痛い。
「おす!みょうじ!」
「……え?!…き、切島、くん…?」
肩をトントンと叩かれてハッとして振り返る。真っ黒だった髪がツンツンとした赤毛に変わっていたから直ぐに認識出来なかった。同じ中学の切島くんだった。人懐っこい瞳をくりんと輝かせて、「楽しみだなー!」とこれから始まる生活に希望や夢を抱いている姿がわたしに影を落とす。初恋に破れたくらいであんなに楽しみにしていた高校生活の始まりにいきなりつまづいているわたしとは大違いで思わず苦笑してしまう。
切島くんは、同じ中学出身のクラスメイトだ。1年と3年の時に同じクラスになり、3年のときにクラスメイトとして話すことが増えた。結田付中からの雄英に進学が決まった時には三奈ちゃんと3人で喜び合った。けれど、正直なところ、振られた悲しみを見ないように勉強に打ち込んだ。みんなヒーローになりたくてがむしゃらに向き合っているのに(勿論わたしもヒーローになる夢があるけれど)振られた腹いせのように勉強をした。そのおかげで模試ではB判定だったのがA判定まで上がり、最終的には雄英に受かることができたのだから、今となってはその不純さがよかったのか悪かったのかはわからない。勉強をしたところで、心にぽっかり穴は空いたままなのだけど。
「みょうじ、元気無いのか?」
「…」
「もしかして、」
黙りこくるわたしに「そっか」と切島くんが呟いて視線を外す。時々相談もしていたから、きっと気まずいだろう。なんだか申し訳なくなる。
「みょうじ、あのな、俺も弱い自分と決別しようと思ってこの髪色にしたんだよ。だから、なんつーか上手く言えねェし無責任かもしれねェけどさ、きっと進めると思ってる」
「、うん」
「俺も、みょうじもさ」
きっともっといい人がいるよとか高校生になったら別の人探せばいいじゃんとかまだ引きずってるのとか沢山言われてきたけど、わたしの心には彼しかいなかった。彼でいっぱいになっている心は支えを失って思っていた以上に脆かった。たかが中学生の初恋なのかもしれない。自分でも可笑しいと思う。それを馬鹿にすることなく真っ直ぐに先を見据えるような言葉に幾分か救われたような気がした。花も綻ぶような笑顔に思わず釣られて笑う。傷はまだ癒えてはいない。けれど少しずつ、少しずつ、前は向けるかもしれない。そう思うと楽しみにしていた制服にしゃんと背筋が伸びる気がした。
「切島くん、ありがとう。ちょっと、元気出た」
「おう!高校でもよろしくな」
細めた目と柔らかな眼差しはメープルシロップが溢れ出しそうに優しくて甘かった。桃色が甘く溶け出して風に色をつけるような、春の匂いがする。

入学初日から息吐く暇もないほどに目紛しく毎日が駆け抜けていった。新しく出会った友達も、勉強も個性をフル活用した授業も、破れた恋を霞ませていくには十分だった。時折、ずっと奥の方にある記憶がふと顔を出してきゅっと心が軋む時はあるけれど。それでも足踏みばかりで進んでいなかった時間もちゃんと動き出している。もっとちゃんと前を向きたくて、視界をせばめていた前髪を思い切って短く切った。三奈ちゃんは「うん、いいじゃん!そっちのが可愛い!」とぐっと親指を立ててニコッと笑った。
「なまえ、最近笑うようになって嬉しいよ、それに、そのなまえの方が好きだよー!」
「三奈ちゃん、わたしね、立ち止まるのやめたよ。わたしも真っ直ぐ前向いて今をしっかり生きたい」
「うんうん、なまえエラい!」
「おー!みょうじ、前髪切ったの?」
「みじけー!でもいい!」
切った前髪を瀬呂くんと上鳴くんがみて茶化す。三奈ちゃんが「カワイイでしょ!」と胸を張ると、それを見ていた尾白くんが「いやいや、なんで芦戸が自慢気なんだよ」と呆れたように笑っている。ヒビの入った恋心は、無理矢理忘れようとして忘れたんじゃない。ありふれた日常の中で、そっと思い出に変わっていったのかもしれない。
「おはよーす」
「お!切島!おはよ!」
「おはよう、切島くん」
「あ、前髪」
切島くんに向かってニカッと笑ってみせる。後ろ向きな自分に決別したくて、切島くんに倣って前髪を切った。入学初日、個性把握テストでバタバタしてしまって切島くんは覚えていないかもしれない。けれど、あの日掛けてくれた言葉がそっと背中を押してくれた。確かに切島くんの言葉にわたしは救われたのだ。短くなった前髪の理由、切島くんには伝わるかな、伝わるといいな。すると一瞬目をまあるく見開いた後、ニッと目を細めて笑う。
「いーんじゃね!似合ってる!」
前髪ひとつで、世界は変わるのだ。

入学から駆け足で2カ月が経った。USJ襲撃事件、そして本日、熱が冷めやらぬまま、雄英体育祭は幕を閉じた。
「はああー!見せ場なかったなァ…」
右隣でがっくりと赤い頭ごと肩を落としている切島くんが大きなため息を吐く。切島くんは表彰台にこそ上らなかったものの、その活躍に目が離せないくらいだったし、切島くんの一生懸命な背中は輝いていて見えた。駅のホームにゆっくりとふたりの影が伸びる。反対側のホームに到着する電車の音に切島くんの二度目の大きなため息が掻き消された。悔しそうな切島くんの横顔にUSJ襲撃事件の後の彼が重なった。
息を飲むのもしてはならないようなどす黒い空気が喉元を今にも食い千切らんばかりに掴んで離さない。ヒーローが対峙している闇とはこんなにも重く澱んでいるものなのかと戦慄した。クラスの殆どが動けなかった中、果敢に飛び出していったのは切島くんと爆豪くんで、その時のふたりの背中は、確かにヒーローだった。クラスメイトを散り散りにせんとする黒い霧が広がり飲み込まれる寸前、振り返った切島くんが「みょうじ!!」とわたしのことを半ば叫ぶように呼ぶ。確かに此方に伸ばされた手を掴もうとしたけれど、それは虚しく空を切って立ち上がる砂埃を少し掠めた。切島くんの大きな目が、更に大きく見開いて瞳孔が揺れたのを最後に、黒い霧がわたしたちを包んで消えた。
「みょうじ、ッごめん!」
リカバリーガールの治療を終えて保健室から出た瞬間だった。廊下にビリビリと響くくらいの大きな声。わたしは怪我という怪我もしてない。あって擦り傷。緑谷くんの方がずっとずっと重症なのに。切島くんが謝ることなんてひとつもなかった。夕暮れの橙が切島くんの髪をより赤く染める。頭を下げる切島くんの指先が微かに震えている。
「切島くん、大丈夫だよ。それに、わたし何にも、」
「守れなかった、から!」
ぎゅっと結ぶ口はいつものよく笑う口はそこにはなく、口角の下がったそれに夕暮れも相まってなんだか泣いてしまいそうになる。優しい赤が溶けてゆく。どうしてあの時わたしの名を呼んだのかはわからない。けれど、切島くんの優しさは春のあたたかさによく似ていた。
タタンタタン。通り過ぎる電車が起こす風が短くなった前髪を浚う。体育祭を終えた切島くんの「納得いかない」というへの字口と眉間の皺が少しだけ可笑しい。
「切島くん、あのね」
「お?」
「はい」
鞄に忍ばせていたチョコレートひとつ、切島くんの手のひらに乗せた。ぽかんとする切島くん。
「切島くん、カッコよかった!」
「…!!」
「切島くんは、わたしにとっていつでもヒーローだよ」
「ーーッ、」
それにほら、漢らしかったし!とファインディングポーズをとって笑ってみせる。電車が来る。「切島くん、電車きたよ。行こ!」ベンチから立ち上がってスカートの皺をぽんぽんとはたいて伸びをしたら暢気な欠伸がひとつ出た。電車に乗り込むと何となくふたりとも無言で窓の向こう側の景色を眺める。いつも賑やかな切島くんが黙り込んで何を思うのかはわからない。電車の先頭に目をやると長く伸びる線路、夕暮れの空、眩しい夕陽。深い深い包み込むような赤は、やっぱり切島くんみたいだ。
「なあ、」
「うん?」
「ありがとな」
切島くんの目尻がやわらかく下がる。電車の扉が開いて車内に風が舞い込んだ。どこから運んできたのか花の香りと葉っぱの青いにおいがふわりと鼻をくすぐる。スカートが風を掬ってふんわりと浮いた。わたしの春が芽吹いて目を覚ます音が、どこかで聞こえた気がした。
( song by 春の歌 - Spitz )
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