エメラルドに透ける新緑がアスファルトに反射して、深海から空を見上げるように揺らめいていた。じんわりと汗が背中を伝う季節が駆け足でやってきた。どんでん返しの期末テストを終え、林間学校に向けて木椰子区のショッピングモールに買い出しに行くことになったのである。ここ数日、張り詰めた緊張感と追いかけてくる様々な行事や出来事に何処か浮世離れしているようだったけれど、高校生っぽいイベントが遂にやってきたと内心そわそわしているのはここだけの話だったりする。そわそわし過ぎて、昨日の夜にこっそり靴下の下のつま先を珊瑚色にした。「目的バラけてっし時間決めて自由行動すっか!」の切島くんの言葉に、みんなの姿は人混みに消えていく。
「三奈ちゃんたちは靴かあ」
「みょうじは何見に行く?」
「ううんと、帽子かなあ」
「んじゃ、あっちだな!」
切島くんといるのは何となく居心地がいい。それは切島くんの人柄の良さだったり、弱いところも大切にするところだったり、そういうところが安心させてくれているとわたしは思う。ゆらゆら揺れる赤を追いかけて人の波をかき分ける。「あっ」トンっと知らないひとの肩がぶつかって波に攫われて足がよろめいた。赤が遠ざかる。溺れてしまう。
「みょうじ、大丈夫か!」
「あ、りがとう」
ぎゅっと握られた左手。それは、とてもあたたかくて、おおきくて、優しい。弱いところを忘れない手、きっと、これからもたくさんのものを守り通す強さをもつ手。「転けなくてよかったぜ!」と炭酸水がぱちぱちと弾けるように爽やかに笑ってわたしの額を痛くないように小突く。そういうところが、そういうところが。
「(そういうところが、何だろう、)」
「おーい!行くぞー!」
「う、うん!」
一瞬浮かんだ疑問の泡が弾けて消える。わからない。

「切島くんのおかげでいい帽子見つかったよ!ありがとうね」
「おうよ!んじゃ、次どうす、」
「切島くん?」
「…あっち行こうぜ」
「えっ、どうしたの?ねえ、切島くん!」
夏の夕立がやってくるかの如く、切島くんの表情がさっと曇った。突然わたしの手を掴んで引っ張り歩く。それは切島くんの優しさだったというのに。切島くんの視線を辿ってしまった、辿らなければよかったのに、その先には。
「あー、みょうじさんじゃんー」
ひらひらと此方に手を振るそのひとのことを、忘れるわけがない。切島くんが掴んでくれていた手を離したら、しまっておいた記憶が蘇るのに時間は掛からなかった。好きだった、ひとだ。吸った息の吐き出し方を忘れて飲み込んだまま、指先が震えた。抱えてきた思い出の重さで溺れて沈んでしまいそうだった。時間が止まってしまうかのように人混みの音や切島くんの掛けてくれる言葉が遠くに聞こえる。そのひとの声だけが呪いのように耳に届く。
「久しぶり!元気だった?」
「う、うん、久しぶり」
「あ、雄英体育祭、テレビで見たよ!頑張ってたじゃん」
ニコッと軽やかに笑うそのひとに心臓がキュッと痛む。ずるい。ずるいひとだ。その優しい言葉がナイフのように心を抉っていく。他愛もないものがひとの一番心に残る。例えば、日常的な会話とか鼻をくすぐるにおいとか。そういうものの積み重ねが日常に足跡を残していく。
「雄英って、可愛い子いっぱいいるんだね。あのさあ、また紹介してよー」
積み重ねてきたものが、一瞬で音を立てて崩れ落ちるのが見えた。崩れた向こう側に見えたものは、見なくてもいいものだった。
「ッ、てめェ!」
「あ?お前誰、って、切島?」
「ちゃんちゃらおかしいだろ!みょうじの気持ち分かってんのかよ!」
「あー、でも終わったことだろ」
わたしにとっては人生初の恋で、人生中での大きな出来事。でも、好きだったひとにとっては単なる通過点に過ぎなかったのだ。ううん、通過点ですら無かったのかもしれない。好きなひとの好きなひとになる。そんな単純明快なことが難しい。思うぶんにはとても簡単で単純なことなのに、恋というやつは漫画で見るほど簡単なものではなかった。複雑に絡まった糸を解いても好きだった人には通じていないと言うのに、解こうと必死にもがいて、雁字搦めに絡まった糸は喉元を締め付ける。もう、好きWだったWひとなのに。出来れば綺麗なまましまっておきたかった。思い出が目を覚ますには早過ぎたのだ。わたしが大人だったら、わたしがもっと強ければ、こんな惨めな気持ちにならずに済んだのだろうか。俯いた視線がつま先を捉えて珊瑚色に塗った爪のことを思い出す。好きな色だった。それなのに、これからこの色は今日のことを思い出させる色になってしまうんだろうか。さながら、お伽話の人魚のよう。叶わない恋をして、泡になる。抱えきれない思いを海に沈めて。
「いくぞ、みょうじ」
さよならを言わせないと言わんばかりに半ば引っ張るようにして、切島くんがわたしの腕をひく。視線をあげて好きだったひとを見る。一瞬だけぶつかった視線は直ぐに逸らされた。分かってしまった。わたしという人間に、興味が無かったんだ。あのひとは雄英体育祭の放送を見て、わたしを介してほかの女の子に近づけるかもしれないと思ったんだ。しばらく歩いて、切島くんが顔だけ振り返る。足は止めないまま。
「みょうじ、美味いもん食おう」
「…」
「何がいい?女子だもんな、パフェとかそういうのか?」
「き、きりしま、くん」
「それか、ガッツリ肉でも食うか!俺、肉好きなんだよなァ!」
「切島くん…」
「あー、でも暑くなってきたしよ、冷たいもんでも、」
「切島くん!!なんで、どうして、もう、やめて…!」
切島くんは話すのをやめなかった。腕を振りほどこうとするにも全くもって敵わない。男の子の力だ。ようやく足が止まる。そして、笑う。嘲笑でもない、憐れみでもない、少し困ったように眉が下がっているけれど、とても優しい。わたしの痛いところ、全部零すことなく掬ってくれるような笑顔が緩やかに滲む。
「俺が話すのやめたらさ、みょうじ泣くだろ」
ぽろりと一粒、必死に抱えていた真珠が溢れ落ちて夏の海に沈んでゆく。

あの日、帰ってから枕に突っ伏して声を殺して沢山泣いた。涙は驚くほど沢山出た。好きだったひとによって、大切な思い出はいとも簡単に壊れてしまった。恨む元気も起こらない。ひと通り泣いたら、好きとか嫌いとか、そういう感情がすっぽ抜けてしまったみたいにもうどうでもよくなってしまった。ビンタのひとつでもしてやれば、漫画のヒロインのように強く前を向いて、上手いこと進めたんだろうか。初恋の終わりの終わりは酷く呆気ないものだった。そしてまたもや気まずい思いをしてしまった切島くんはというと、あの日からわたしの気持ちを慰めるでもなく、励ますでもなく、何も触れてはこなかった。至って普通のいつも通りだった。傷が癒えたのか、それともぽっかり空いた虚無感の穴に落ちてしまったのか、わたしも至って普通に過ごすことができた。後ろばっかり振り返って目の前のことに一生懸命になれないのは嫌だ。ガタガタとバスに揺られて向かうは林間学校。先頭の方に座る切島くんの赤い頭が上鳴くんと賑やかに騒いでいるのが見えた。
林間学校1日目の夜。どっぷり疲れたけれど、テンションが上がりっぱなしのわたしたちは晩ご飯とお風呂を済ませて男子部屋に集まることになっていた。
「枕投げしよーぜ!」
「やるやるー!チーム決めよ!」
「わたくし枕投げなんてはじめて…!」
「負けたらバツゲームなー!」
「さっさとチーム決めろやモブ共が!」
わいわい盛り上がるのを少し遠巻きに眺める。勝負事だからあの爆豪くんまでもが乗り気なのには流石に笑ってしまった。けれど、心に隙が出来ると、どうしても思い出してしまう。わたしも思いっきり枕投げしちゃおっかな。わたしも!と手を上げようとした時だった。
「みょうじ、ちょっと、いいか」
「切島くん…?」
視線を斜め下に落として、少し気まずそうに声を掛ける切島くん。セットしてない下ろした髪もあってか、余計そう見えるのかもしれない。喧騒から逃れ、こっそりふたりで部屋を抜け出す。樹々に囲まれているからか夏とは思えないくらい涼しくて、時折髪を揺らす風がくすぐったかった。
「突然悪ィ」
「ううん」
「あのよ!あー、その、」
歯切れの悪い言葉と夜の闇を泳ぐ視線。上は満点の星空に包まれていてとても綺麗だった。
「なんつーか、その、」
「ゆっくりでいいよ」
「あー、まだしんどいか」
「……しんど、くない」
「…」
「大丈夫なの、ほんと!でも、ちょっとだけ、ほんとにちょっとだけね、痛むみたいに悲しい時はやっぱりあるよ。穴が空いたみたいに、好きだった気持ちのところだけスカッとしてる」
それきり切島くんは黙ってしまった。じっと鋭い視線だけはわたしの目を真っ直ぐに貫いたまま。星を映したようにその瞳が一瞬光ったようにみえる。
「無理すんなよ」
「してないよ」
「泣きそうになってんじゃねえか」
「なってない!」
「俺じゃしんどいところ、一緒に抱えてやれねえのか」
「切島くん、わかんない、わかんないよ…!泣けっていったり、こないだみたいに泣かないようにしてくれたりさ…!どうして、!」
「わかんねえか」
「切島く、」
「わかんねえなら言う」
本当はわかってる。あの時泣かせないように沢山話してくれたのは、きっと好きだったひとに涙を見せないようにだ。今は違う。わたしの心にぽっかり空いた穴にしんどいものが溜まっていかないようにと切島くんの優しさだ。切島くんの顔が見たことないくらい真剣で、やっぱり真っ直ぐで。ぽっかり空いたところにあった感情は捨ててきたはずなのに、切島くんの声で目を覚ましたような気がした。折れた時計の針が戻ってきた。
「みょうじが好きなんだよ!」
ずっと。そう付け足した切島くんの唇が震えていた。きりしまくん。名前を呼んだら星屑ひとつ、心臓にストンと落ちた。

合宿は色んなもやもやを抱えたまま終わった。切島くんの好意も敵の襲撃で爆豪くんが拐われてしまったことも、全てがもやもやしたまま。緑谷くんや百ちゃんたちも入院するほどの怪我をしてしまった。病室での切島くんの必死の訴えは理解出来なくはない。けれど、それに対しての梅雨ちゃんたちの厳しい言葉も間違ってはいない。わたしはどうすればいいんだろう。胸にずしっと重くのしかかる色々なこと。結局切島くんの真っ直ぐに向けられた好意にも答えが出なかった。あの日はどちらともなく部屋に戻って、「おやすみ」の一言を交わしたきり切島くんとはあれから口をきいていない。今回の件で何も出来なかったことを酷く悔やんでいる切島くんの背中も目に焼き付いて離れない。切島くんはいつだってわたしを助けてくれていたのに。
「(いつだって…?)」
切島くんと出会ったのは中学1年生の頃だった。何がきっかけで話し始めたのかはあまりに些細で覚えていないけれど、いつだって側にいてくれた気がする。例えば日直でクラス分のノートを運ぶ時手伝ってくれたりだとか、クラスでグループを作る時に声を掛けてくれたりだとか。クラスが離れても教科書を借りにきたこともあったし、急な雨に降られてずぶ濡れになった時に慌てて体操服を貸してくれたこともあった。そして、恋をした時も恋に破れた時も切島くんはいつだって神様のように側にいてくれた。出会った頃からわたしの世界に優しく色をつけてくれていたのだ。ぽっかりと心に空いた穴からもやもやが流れ出す。やっと気がついた。見えないようにずっとずっと背を向けていた。わからないふりをしていた。傍にいてくれたのは、いつだって切島くんだった。
ここまで来ればわたしの足は簡単に動いた。病室を出る時に、切島くんが緑谷くんに言った言葉思い出してみる。「今日、夕方、病院の前」のワードが聞こえたのだ。間に合う、まだ間に合う。

「きり、切島、くんっ!」
「は、みょうじ…?!なんで…!」
息を切らして夕暮れの街を駆ける。切島くんの背中が見えて、息を整えるのも忘れてがむしゃらに呼んだ。大きくまあるく見開いた目。リュックの中から切島くんに花柄の巾着袋を渡す。大きなおにぎりふたつ。まだあたたかい。「これ、」切島くんが少しだけ、気の抜けたように笑った。
「切島くん、これ!」
「おにぎり、」
「腹が減っては戦はできぬ、ってね!」
「ッ、みょうじ…!」
「わたし、今回のことが正しいのかはわからない。わたしにできるのはこれくらい。でもね、絶対に帰ってきて、絶対に、お願い」
「みょうじ」
「それでね、切島くん。わがままかもしれないけど、帰ってきたら、もっかい、聞かせて」
「…俺、ぜってー帰ってくっから!…あ、あのさ!」
「うん?」
「フライングかもしんねえけどさ!だ、抱きしめても、いいか!」
わたしがうなずくのと同じくらいにギュッと力強く、抱きしめられる。切島くんが小さく鼻をすする音が頭の上から聞こえて、どうしようもなく愛おしい。背中にまわされた手は少しだけ震えている。切島くんのにおいが鼻を通ってぽっかりと空いていた心を満たしていった。
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