銀河英雄伝説
仮病
午後四時、書類の整理に追われているミュラーの執務室の、机の隅に備え付けられている彼のヴィジフォンが鳴り響いた。
これが鳴るときは、緊急の連絡か副官や参謀長からの来客等の知らせか、恋人からの急な連絡か、だいたいそのうちのどれかである。大抵の場合画面に映るのは副官のドレウェンツであるが。
今日はどんな用件だ、と疲れ果てた頭で応答のスイッチを押すと、眉尻を下げたドレウェンツが映った。
「閣下」
「……どうした?」
「その、医務室から連絡が入っておりまして」
「医務室?」
先の任務で医務室を使用するようなことなどあった覚えがない。数秒、思い当たるものがないか頭を捻ったが浮かばず口をひらく。
「用件は?」
「それが、閣下の恋人の……」
「ん?アンネが?怪我でもしたのか?」
その言葉を聞いて思わず席を立ち上がっていた。
倒れたのではあるまいな?と聞こうと思ったが口に出すより先に足が動いていた。書類の山も残っていたが、急ぎの仕事ではない。まず、彼女のことが心配だった。
◇◇◇
「アンネ!」
執務室から医務室の遠さを恨んだ。
辿り着いたときには柄にもなく息を切らしていた。これではいつもの穏やかな「ミュラー上級大将」が台無しだ。いや、それどころではない。別に周りにそんなふうに思われたってどうでもいい。
彼女がいるであろうカーテンの向こう、カーテンを開けて声をかけると彼女は頭までかぶっていたシーツをずらして顔を出した。
「あ、ナイトハルト……、」
いつもより元気がないので、より一層心配になる。
「いったいどうした?調子が悪いのか?」
「あ、うん、なんか、お腹痛くて」
「お腹?」
ミュラーは目を瞬いた。お腹が痛いにもいろいろあろう。ましてや、女性なら尚更……。
近くにあった椅子をベッドの側に引き寄せて、そこに腰を下ろすと髪を撫でてやる。くすぐったそうに少しだけ笑うので安心した。
「つらいのなら、官舎まで送っていくが……」
「いや、そこまでじゃないから、大丈夫よ」
どことなく歯切れが悪い。不思議に思って首を傾げるミュラーを見て、アンネはくすりと笑った。
「……ごめんなさい、うそついた」
「え?うそ?」
ますます首を傾げて考え込むように顎に手を当てるミュラーが可愛らしく思えて、アンネはだんだんと申し訳なくなった。
なんてったって、砂色の目はいつだって真剣なのだ。
「……本当は、ナイトハルトに会いたかっただけ」
ここのところ、ミュラーが艦隊を動かしていたり提督達との会議に出席しっぱなしでまともに会えていなかった。それがさみしくて、と小さく呟く。やさしい彼ならわかってくれるだろう、とささやかなワガママも込めて。
「では、お腹は痛くないのかい?」
「うん、ごめんなさい」
心配してくれてありがとう。と言うと、安堵したように彼は笑った。その笑顔が見たかったのだ。
「いずれにせよ、大事でなくてよかった。ドレウェンツから聞いたときは、焦ったよ」
「ドレウェンツさんにも謝っておかないと」
「まあ、いい。いいよ、気にしなくて」
「でも……」
そう言うアンネの前髪を指でなぞって、ミュラーは微笑む。疲れているのだろうに、すぐに駆けつけてくれた。そんなとこも好きだ。
「おれも会いたかったんだ、ちょうどよかった。しばらくしたら落ち着くから、そうしたら必ず落ち合おう。それまでは少し我慢させてしまうが……」
「ううん、来てくれて嬉しかった。会えて嬉しかった。次に会えるまでは、我慢する」
「……自分で言っておいて何だが、おれが我慢できるかな、」
「ヴィジフォンではいつでも連絡できるわ」
「ああ、そうだね」
笑い合って、軽くキスをして、カーテンで周りから見えないのをいいことにミュラーの首に腕を回して抱きしめた。彼の大きくて広い胸は、とても温かくて好きだ。
◇◇◇
「閣下、アンネさんは大丈夫でしたか?」
「ああ。思ったより元気そうだった」
「そうでしたか、それは何よりです」
執務室に戻ると、ドレウェンツが心配そうに声を掛けてくれた。副官の心配も虚しく、本人は元気でしたなんて言えず。
「あの、大変申し上げにくいのですが」
もごもごとドレウェンツは囁く。
「ん?何だ」
「口紅が、付いております……」
「えっ」
慌てて袖口でくちびるを拭った。そこにはほんのり、ピンク色が滲んだ。
気付かぬままここまで歩いてきてしまうとは。ナイトハルト・ミュラー、一生の不覚……。
この日以降、恋人と会ったあと仕事に戻るときは必ず鏡と見つめ合うミュラーであった。