第一章


 つい先頃まで花が咲いていたなんて嘘のように、すでに桜並木は若葉らしい瑞々しい緑で陽光を遮っている。個人的にこの時期の緑色は嫌いじゃないし、某アニメーション映画で獅子神が死んだ後のシーンを連想させられるから、テンションも上がるというものだ。
 僕が最も好きな季節、初夏。と言っても僕らが住んでいる地域では冬が異常に長く、桜の季節も大幅に後ろにずれ込んでいるので、初夏といえども、他地域ではすでに夏と言っても差支えない時期ではある。それでも僕らにとっては初夏であり、凡庸な我が校の唯一非凡な点と言える、熱狂的な文化祭も目前に迫ってきているはずだ。この学校の一生徒に過ぎない僕にとっても、文化祭はそれなりに楽しみなイベントとなっている。
 それらの理由も相まって、上がりに上がったテンションを維持したまま、ルンルンと桜並木を抜ければ、僕の通う高校の校舎が見えてくる。大きくもなければ小さくもない。作りもありきたりで色も普通。どんな都道府県のどんな市町村にも、必ず似た外観の学校があるだろうな、と思わせてくれる、清々しいまでに特徴のない学び舎だ。あれ、おかしいな。地味な校舎を見たらさっきまでの元気がなくなってきた。これから部活なんて信じらんない。
 僕はしばらくその場で佇んだまま、休日なのに威勢よく生徒を飲み込んでいく校舎をぼうっと見つめて、踵を返した。ほら、よくあることだろう? 一度やり始めてしまえばいいんだけど、それまでが絶望的に嫌だってことが。待ち受ける部活動を前にして、僕は一瞬にしてその気分になった。しょうがないから、「よくあることよくあること」と呟きながら帰路に着く。周りの生徒たちからしたら、校門前で引き返す僕はさぞ間抜けに見えるだろう。若干の視線を感じる。いいさ、笑え笑え。
 ようやく一大決心をして、愛する学び舎に背を向けた、その時だ。僕の背後から、こちらに脂汗を掻かせるような不穏な気配が漂ってきた。その災厄を目にせずとも肌で感じられるようになったのは、ひとえに僕の危機管理能力が飛躍したからに過ぎない。とすると、僕はその災厄に等しき一人の人物に、感謝の念を抱かないといけないのだろうか。
「かーなーたー!」
呼ばれた。怖い怖い怖い。あ、忘れられないように言っておくと、僕の名前は谷地彼方だ。
 にしても、これで僕の悪い予想は見事に的中したと見ていいだろう。こんなに怒気をはらんだ女子生徒の声を、しかもほぼ毎日のように聞いている稀有な男子高校生なんて、全国を探しても僕だけのような気がする。
 恐る恐る振り向くと、全力疾走でこちらに迫ってくる女の子が一人。今からでも遅いなんてことはない、逃げよう! とも思ったけど、残念ながら僕の走るスピードでは、彼女を振り切ることなんてたとえ夢の中でも無理だ。そこまで思考が及んで、男子の僕が無力感とプライドの砕ける音に打ちひしがれているところを、走ってきた女子生徒はにこやかに締め上げてきた。遠慮とか、自制とかそんなものが微塵も感じられない力強さだ。
「葉月! 締まってる締まってる、死んじゃう!」
ブレザーのワイシャツがぎりぎりと音を立てながら、しかも少女の細腕で首に食い込ませられていく光景は、何度体感しても一定の非現実を内包している。いつでも僕の非日常は彼女――三上葉月と共にあるのだ。否、かなりの頻度でこんなことをやっているから、これは最早日常の域か。
「葉月、本当に」
「ねえ、彼方。そんなことより私に何か言うことはない?」
人の命がかかってるのに「そんなこと」で切り捨てられてしまった。これは本気で謝らないといけないやつだ。
「ここまで来たのに帰ろうとして御免なさい」
「違う! あんたが部活に出てこようがこまいが、そんなことはあたしの知ったこっちゃないの!」
さらに締め上げる力が強くなる。死んじゃう死んじゃう。
 さっきまで家に帰ろうとしていた僕を、不思議そうな目で見ていた周囲の生徒たちが、今度は好奇の視線を向けてくる。「痴話喧嘩かー」なんて声も聞こえてきた。冷やかしの声をかける余裕があるのなら、これが高校生同士の傷害事件に発展する前に止めに入るか、傷害事件になった時の為に警察と救急車を呼ぶか、そのどちらかの行動を取って頂きたい。
「ちょっと待って。僕には葉月がそんなに怒っている理由が、僕が帰ろうとしたこと以外に思い当たらないんだよ」
「あたしとしては、ここまで来たのに帰ろうとするあんたの行動が理解不能だけど。まあ、説明ぐらいならしてあげないこともないわ」
その厳しい言葉とともにぱっとワイシャツの襟が解放される。ああ、空気が美味しい。
 地面に膝をつくという醜態も気にせず、涙目で深呼吸を繰り返す僕に、葉月は路肩に生えた雑草を見るような視線を向けてきた。
「空気は思う存分味わいましたでしょうか?」
「お時間取らせました。話聞きます」
「たいへんよろしい」
理不尽だとは思うけど、命が惜しいので言い返さない。僕は地面に正座をしたまま、仁王立ちになっている葉月を見上げた。僕の中での話を聞く姿勢(完全体)だ。その様子に思うところでもあったのか、彼女はくすりと笑うと僕の腕を無理やり引いて立ち上がらせた。こういうちょっとした可愛げがあるから、何となく暴力も許してしまうのだ。まあ、割合は9:1くらいで暴力のほうが多いのだけど。
「ここで話しててもしょうがないから、美術室に向かいながら話すわね」
2人で並んで歩き出すと、葉月は出合い頭に僕の首を絞めるに至った理由を話し出した。
「今日美術部の活動のために美術室に行ったらね、あたしの絵がなくなってたの」
「葉月のって、文化祭で展示しようとしてたトリックアート?」
「そう。で、昨日の鍵当番は彼方だったから」
何となく話が見えてきた。
「つまり君は、鍵当番だった僕が美術室を最後に出たんだから、その時に作品もどっかに移動させたか隠したかしたんじゃないかって思ったってこと?」
「そうゆうこと。あれかなりの力作なんだよ」
「それは現物を知ってるから分かるさ。でも、だとしたら僕は無実の罪だ。葉月の絵を勝手に動かすなんて命知らずなまねはしないよ」
後の報復が怖いからね、と肩を竦めると向う脛を思い切り蹴飛ばされた。膝から下がなくなったかと思った。
 ともあれ、これが中々大変な問題なのは事実だ。葉月はトリックアートばかりを描く特殊ケースだけど、何度かコンクールで受賞歴もあるほどなので、完成度は高い。今度の文化祭でも我ら美術部の目玉になる作品だったはず、と僕は記憶しているんだけど。
「見つからなかったら、まずいよなあ」
「そりゃそうでしょ。文化祭であたしの作品が飾れなくなちゃうもの」
若干肩を落とす葉月に、さらに追い打ちをかけるようで気が進まないが、僕は首を振った。
「違うよ。僕が言いたいのはそういうことじゃなくて、これは立派な盗難事件ってことだよ」
僕の記憶と考えさえ正しければ、学校内のしっかりと鍵の掛けられた教室から、存在していたはずの生徒の私物が紛失した。ということになるはずだ。金目のものではないにしろ、これは立派な盗難になりうる。
 しかし、これを聞いた葉月は顔を盛大にしかめた。
「先生には言いたくないよ」
「どうしてだい?」
「大事にしたくない」
これだ。彼女の美徳であり悪癖でもある。加えて言えば、僕が葉月に肩入れしてしまう理由でもある。しかもこうなった以上彼女は梃子でも意見を変えないし、それこそ墓に入る十秒前くらいまで恩師にこのことを伝えようとはしないだろう。これで無理に口を開かせようものなら、僕は再び制裁を食らうことになるだろうし、一週間くらい口を利いてもらえないはずだ。何とも世知辛いことだよ。
「分かった。先生には内密の方向で探すのを手伝うよ」
「ふふん、彼方なら分かってくれると思ってたわ」
満足そうに鼻を鳴らす葉月を見て、知らず苦笑が漏れてしまう。彼女には「彼方なら分かってくれると思ってた」という一言の圧倒的な拘束力が理解できていないみたいだ。ただ僕が押しに弱いだけってのも言えるんだけどね。
 何となく話が纏まったところで昇降口に到着した。美術室はここの廊下の突当りにあるから、ここまでくればもう着いたも同然の距離だ。開閉式の下駄箱を開けて上履きを取り出そうとしたところ、あらぬものが目に入った。慌てて扉を閉じる僕に、葉月が迷惑そうな目を向けてくる。
「何よ、バッタンバッタン大きな音出して。迷惑でしょ」
「気にしないでいいよ。そんなことより僕はちょっと用事ができたから、先に美術室を探しててくれないかい?」
「……はあん、なるほど。また入ってたんだ、思いのたけを赤裸々に綴った愛のお手紙が」
「葉月の言い方に物申したいけど、その通りだよ」
僕が下駄箱に手を突っ込んで引っ張り出したのは、上履きと4通の手紙。どれも可愛らしい色合いと可愛らしい字体で作成されていて、渾身の仕上がり感が半端ない逸品だ。無意識に肩を落とす僕の手からそれらを奪った葉月は、表を見、裏を見、また表を見とためすすがめつしている。
「なんであんたなんかがいいのかよく分かんないけど、また可愛いのが来たわね。しかも4通も。やっぱりもうすぐ文化祭ってのが影響してんのかなあ」
「かもしれないけど……ちょっと焼却炉で燃やしてくる」
「馬鹿なんじゃないの!?」
いてててて。頭を盛大に叩かれて、非難がましい目を向けてみるが、それ以上の非難の目が僕を射ている。とっさに体が硬直して、僕は蛇に睨まれた蛙という状況を疑似体験することに成功した。
「4通も貰ってるのよ? 有難いことだと思って返事しなきゃ駄目じゃない! もし今のセリフをクラスの男子が聞いてたら、血の涙を流しながらあんたを火炙りの刑に処してるわ」
「僕の言い分も聞いてよ。前に来た手紙は犯行予告みたいに新聞の切り抜きが、形を変えて貼られたものだったんだ。この間は、どこで入手したのか、牛の血で文字が書いてあった。きっと次は人間の血で書かれてるよ、間違いない。この学校には頭の回路がねじれた女の子しかいないんだ」
「そんなのは、男に目がくらんだ女子にはよくあることよ。割り切りなさい」
もう、血も涙もない。葉月の環視の中僕が手紙をかばんにしまうと、彼女もようやく納得したらしく、美術室に向かい始めた。僕はといえば、再び文化祭マジックというものに驚愕していた。女子を4人も暴挙に及ばせるなんて、恐ろしきかな文化祭マジック。葉月のおかげでそれぞれの手紙に記されてるであろう指定場所に赴かなくてはならなくなってしまったじゃないか。僕は自他ともに認める押しの弱さを身に着けてるから、告白を断るのも一苦労だというのに。
 さて、登校早々こんなに気が滅入るのも久しぶりだ。ここは葉月の絵画盗難事件にでも身を投じて、嫌なことは忘れてしまうに限るだろう。

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