ああ、これが例の。
思わず、口の中で呟いてしまった。

時刻は午後五時と少し。教室には夕日と言うにはまだ明るい光が差し込んでいる。それは、一番窓際の席に座っているあの子を認識するには、十分な明るさだった。

彼女は此方に気付いていない。
何でもないように教室に入り、自分の席に向かう。此処に置いていってしまった、部活で使うタオルを取る為だ。

歩きながらもふさんを見る。
彼女の机の上の教科書にノート、ミュージックプレイヤー。シャーペンが走る音。どうやら勉強をしているらしい。そう言えば、今日で中間テスト二週間前を切った。彼女の紙を捲る音。軽い焦りを感じる。少しだけ自分の部活を呪った。



タオルも回収して、他に忘れ物はないことを確認する。部活に戻ろうとタオルを持ち直して、椅子を元に戻す。
その時、静かにやるつもりが、椅子の足が擦れて派手な音をたててしまった。

しまった、と何となく思った。何が“しまった”なのかは、良く考えると分からない。

ちらりと彼女の方を見る。こちらを向いている。目があった。やはりうるさかっただろうか。


「あ、ええと、神くん」もふさんはイヤホンを外して少し笑った。名前を呼ばれて少し驚いた。

「ごめん、うるさかったね」

「いや、大丈夫」

大して勉強してなかったし、と更ににこりとする。
あの噂とは、駆け離れた印象。
それから、初めて話したな、と考える。このクラスになって、一ヶ月と少し。まあ、クラスに話したことのない人がいるのはおかしくはない時期だ。しかし、彼女の事情は少し違った。

「ええと、部活?」

「そう。テスト前なのにね」

「大変だねえ」

やはり、噂とは違うじゃないか。と、あの噂を俺に言ってきた奴に頭の中で文句を言う。


「…ああ、もしかして神くん、私の噂、気になってた?」


図星。

「…ごめん、でも、噂だって分かってるよ」顔に出てしまったのだろうかと焦ったが、あくまでも平静を装って答える。彼女には通じるか。

「まーそんな焦んなくていいよ。私が男好きとか、たらしだとか、そういう類いの噂が流れてるのは知ってるしねえ」

そう言いながら彼女は、つまらなそうな顔をしてペンをくるくる回す。俺は苦笑いした。

「でも、ただの噂だよね」語尾は上げない。

「うん、そう思う。私、少し男性恐怖症の気があるし、そういうのには疎いし」

断言しないところが、綺麗だなと思う。

「そっか。噂聞いたときは少し怖かったけど、もふさんは良い人そう」

これから宜しくと言うと、嬉しそうに笑ってくれた。


「じゃあ、勉強頑張ってね」

「ありがと。部活と勉強頑張って!」

軽く手を振ってくれた。頭が切れる人なんだろうと何となく思ってから、初めての会話にしては異質なものだと感じて、少し笑った。


しばらく廊下を歩きながら、考える。今日、あそこに行って、彼女と話せて良かった。五分も一緒にいなかったが、俺の中の彼女に対する考え方が一変した。
いつにない高揚感。嘘だと思っていた古い宝の地図に書いてある宝箱を見つけたような感じ。何とも言えない嬉しさの様なもの。


体育館の入り口に着く。
不思議な気持ちで、彼女がいる校舎の窓を仰ぐ。



「噂、信じきってなくて、よかった」






現実の線対称

偏見や常識なんかがあれば、そんなものは理解できない。


(神さーん!あの…って、なに笑ってんすか)
(笑ってた?)
(はい。嬉しそうですけど、何かあったんすかー?)
(うーん、ないしょ)






20121012



 


-Suichu Moratorium-