鞄の中から鍵を取り出して、冷たいドアノブに手をやった。
真夜中だとしても冷たすぎる。
ああ。もうそんな季節!
夜更かしのお約束
久しぶりに仕事が遅くまでかかった。とっても疲れた。もう、お風呂にはいって、ふかふかベッドに堕ちていきたい。
そう思って玄関の扉を勢いよくあければ、予想外なことに、電気がついていた。
ちょっと、怖いじゃない誰がいるの?
ちらりと覗けば、リビングのソファに見知った姿。
マグを持つ手といい、その寛ぐ姿勢といい、腹が立つほど決まっている。
「……ねえ、なんでクロロが此処にいるの?」
「仕事が終わったからな」
全く望んでない答えが返ってくるけど、そんなのいつものこと。
「私も終わったから、早く寝たいの。帰って」
「つれないな」
「暇ならその辺でナンパでもしたらどう」
「此処にいたい、と言えば許すか?」
「いいえ」
私がそう言ったのに、クロロはお構いなしでマグを傾けるから苛々する。なんでこんなやつが、しかも夜中に、私の部屋で悠々とコーヒーを飲んでいるのよ。おかしな話。
「私、もう寝たいんだけど」
「風呂は?」
「変態がいるから入れない」
「さすがに、人の家の風呂には勝手に入らない」
「信じない」
そうだ。私がそんな言葉、信じられるわけがないのだ。だってやつには、とっても素敵な前科があるから。
以前、ちょっとした理由で(とっても仕方ない場合だった)クロロの家のお風呂を借りた時のこと。
"シャワーに癖があってコツがいる"とか言ってあいつは、私が使用中のバスルームに勝手にずかずかと入ってきたのだ。
まあ昔の話はどうでもいい(よくはないけど)。
重要なのは、いま現在のこの状況だ。
とってもお風呂に入りたい私と、目の前にいる究極のド変態。
ああ。これじゃあ私が入りたくてやまないお風呂にだって入れないし、ベッドにだって入れない。どうでもいから、とりあえず家から出ていってほしい!
「帰ってってば、私寝たいの」
「寝ればいいだろう」
「あんたがいて、寝れる訳ないじゃない!」
そう言っても、ぬぼっとした様子でこちらを見るから、私だって我慢ならない。
こうなったら実力行使。私の本気を思い知りなさい!
「帰ってー!」
クロロの脇腹を掴んで、ソファから引きずり下ろそうとする。
しかし軽々と交わされた。
「そう騒ぐなよ」
「騒ぐわ!もっと騒ぐわよ!そもそもなんで、私の家にいるのよ!」
「仕事が終わって拠点がなくなったから、帰るところがないんだ」
「え、家がないの?」
「ああ」
なにこいつ、めちゃくちゃ此処に居座る気じゃない。女独り暮らしの家に住み着こうだなんて、やっぱりこいつはイカれたやつなのね。きっと、常識ってものを何処かに忘れてきたんだわ。
そう思って、可哀想な脳味噌をぽんぽんと叩いてやった。
「此処に住み着こうなんて、考えないでね」
「…仕方ないな」
「やった!帰ってくれるのね」
「いや、朝食係になってやる」
私が手放しで喜ぼうとしたのに、なに戯けたこと言ってるのかしらこの男は。
全く意味が分からない。と言うかなんの話?
目をぎゅっと細めて睨んでも、クロロの微笑みは消えない。
もしかして、私の聞き間違い?
「朝食係…?」
「ああ。もふこの好きなフレンチ・トースト、毎朝作ってやる」
聞き間違いではなかった。この男はたしかに、朝食係と言ったのだ。
会話の流れと私の意思なんて完全に無視した提案。だけれど、とっても魅力的、と私の胃袋が呟いた。
でも考えてみれば、その代わりにこいつが居候するんじゃあ、釣り合いがとれないわ。
「朝だけ?」
「…夜もか?」
「……お昼も、全部よ!じゃないと此処に置いてあげない」
正直な話、この条件なら、のんでもらってもいいし断ってもらっても勿論いい。私にとって悪いことなしの二択だ。
その二択を前にして数秒、それほど悩んだ様子もなく、クロロは笑みを浮かべた。
「交渉成立だ」
差し出された右手の意味が分からないけれど、明日の朝のフレンチ・トーストに浮かれた私は、それに自分の右手を重ねた。
これから暫くこいつが家にいることを差し引いても余りあるほど、クロロの作るご飯が楽しみ。
なんともゲンキンな私の胃袋は、変態を嫌がる脳みそよりも大きな決定権を持っているみたい。