ぺたぺたという聞き慣れた音が後方から聞こえたので振り返れば、やっぱり。予想していた人がいた。
「あ、竜崎。おはようございます」
「おはようございます」
なんだか今日はすこぶる体調が良さそうじゃないか、と彼の薄い笑顔を見て思う。気のせいか、普段より隈もなく楽しそうだ。

「竜崎、なにか良いことでもあったんですか?」
「今日は、ホワイトデイらしいですね」
うわ、そうくる?
間髪入れずに振られた話題は、色々と私が不利なもの。
しかし動揺はしてあげない。意地の悪い私だ。
「ああ、そんなイベントもありましたね。イギリスにもあるんですか?ホワイトデイなんて」
「いえ、残念ながらありません」
「…残念ながらってこともないと思うけど」

ぼそりと呟けば、それが気になったのか、すぐに私はあの底の深い目で見つめられる。
「しかし 、ホワイトデイがないと、日本で云うバレンタインデイのお返しが出来ないじゃありませんか」
そもそもイギリスでは日本とは全く違うスタイルのバレンタインデイであろうに。でもそんな野暮な突っ込みは、今の私には出来なかった。なぜなら、目の前の彼は、完璧に日本式のそれを楽しんでいるから。

「なので、今日はこの間頂いたチョコレートのお返しを、」
「竜崎!!あの!その、お返しもなにも、私、竜崎にチョコあげたとか思いを告げるカード渡したとか、そういうことしてませんからね」
話がとっても悪い方に流れたから、慌てて被せ気味で阻止する。が、私の上司は全く意に介さない表情。
「私、チョコはもらいました」
「……いや、あれは、」
「なので、お返しは、これです」

怒濤の攻撃に目が眩んだ。
そしてそれが故に思わず受け取ってしまった紙。
もう降参だ、と言わんばかりに目を閉じてから手の中のものを見ると、きらびやかな装飾のされたそこには、見知った文字と信じられないロゴ。

「え、なんですか、これ…。"インヴィテーション"…」
「はい。少し先のビルにオープンした、イタリアが本店のリストランテの招待です」

ご存じですか?あのお店、という言葉と共に、私の耳に軽やかに入ってくるその横文字の店名を認識した瞬間、沸き上がる脱力感。

ああ、ああ、知っている。
とんでもなく有名店。オープンしたからといってテレビで特集なんかされないくらいの、高級レストラン。
そんなところの、招待状?
ちょっと、私の上司は、いったいなんなの。

「……私、さしあげたの、板チョコ、なんですけど…」
「頂いたものの価値は関係無いんです。大切なのは、行為の価値なんです」
その行為すら自発的に行ったわけではない、と思ったが口に出すのは躊躇われた。なんだかそれはあまりにも酷い言葉として表れそうだったから。

「私、ビンボー人代表の薄給刑事なので…」
あまりにも場違い、と呆れ半分の笑顔で言えば、向こうも滅多に見せないくらいの笑顔で答える。



「あなたは、楽しんでくださるだけで結構です」



だから嫌なんだ、結局こういう丸め込まれ方をするんじゃないか、と本日二度目の目眩。
でもそれに、ちょっとした恥ずかしい感情が入ってたことは、彼には知られないようにしないといけない、と私は竜崎に向かって、再び苦い顔を作ったのだった。


160309



 


-Suichu Moratorium-